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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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もう一度、路地裏へ

 第40話

「もう一度、路地裏へ」


 珠江は、久しぶりに目的もなく歩いた。


 劇場へ向かうためではない。

 配信のネタを探すためでもない。

 テレビ用のコメントを考えるためでもない。


 ただ、歩いた。


 難波のざわめき。

 最終電車前のホーム。

 商店街の閉店準備。

 路地裏の猫の声。


 そこには、昔の自分がいた。


 まだ誰にも知られていなかった頃。

 大手芸能プロダクションに入ったばかりで、毎日が必死だった頃。


 売れたい。

 笑わせたい。

 ここで生きていきたい。


 その思いだけで、ネタ帳を握りしめていた。


「……あの頃、怖いもん知らずやったな」


 珠江は、商店街のベンチに座った。


 当時の自分を思い出す。


 舞台袖で震えていたこと。

 初めて笑いが起きた瞬間。

 先輩に怒られた夜。

 師匠に「人に笑われるな、人を笑わせてあげろ」と言われた日。


 AIも、再生数も、炎上も、比較もなかったわけではない。


 でも、あの頃の珠江はもっと単純だった。


 目の前の人を笑わせたかった。


 ただ、それだけだった。


 路地裏に入ると、猫が一匹、塀の上から珠江を見ていた。


「またお前か」


 猫は返事をしない。


 珠江は笑った。


「せやな。返事したら、それはそれで怖いな」


 ネタ帳を開く。


 《路地裏》

 《猫》

 《最初のネタ帳》

 《売れたいより先に、笑わせたいがあった》

 《私はなぜ芸人になったのか》


 珠江は、ゆっくり書いた。


 《人の暮らしの中にある、まだ名前のない笑いを拾いたかった》


 スマホを開くと、AI珠江の話題はまだ残っていた。


 でも、前ほど揺れなかった。


 似ているものは作れる。


 けれど、この路地裏を歩いているのは自分だけだ。


 この夜の湿った空気を吸い、猫に無視され、商店街のシャッター音を聞いているのは、自分だけだ。


 珠江は立ち上がった。


「もう一回、ここからや」


 最終電車のホームへ向かう。


 疲れた会社員。

 眠そうな学生。

 酔っ払ったおじさん。

 スマホを見ながら笑う若者。


 全部が、少し懐かしく見えた。


 珠江はネタ帳を握りしめる。


 便利な偽物に勝つためではない。


 自分の声を取り戻すために。


 もう一度、拾う。


 もう一度、歩く。


 もう一度、人を見る。


 それが、笠木珠江の原点だった。


 次回予告

 第41話「小さな笑い」


 原点に戻った珠江は、派手な笑いではなく、小さな笑いを拾い始める。


 商店街の一言。

 駅員のぼやき。

 猫の無視。

 家族の何気ない会話。


 大きく広がらなくてもいい。


 次回、第41話

「小さな笑い」


 小さな笑いが、人の一日を少しだけ支える。

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