小さな笑い
第41話
「小さな笑い」
珠江は、原点に戻るように街を歩いていた。
商店街の八百屋のおばちゃんが、曲がったきゅうりを見て言う。
「これな、人生みたいやろ。まっすぐやないけど、漬けたらうまいねん」
駅員がホームで小さくぼやく。
「遅延より怖いんは、“今どこですか”って聞かれて、自分も一瞬分からん時です」
路地裏の猫は、珠江が声をかけても完全に無視した。
「お前、AIより反応薄いやん」
家に帰れば、勝一が新聞を読みながら言う。
「人生は急行やなくて普通列車でええ。たまに寝過ごして関空行くけどな」
「まだ言うか」
美沙子が台所から笑う。
「珠江、関空ネタは家族共有財産やで」
一郎も続ける。
「印税ください」
珠江は笑いながら、ネタ帳に書いた。
《小さな笑いは、生活の中に落ちている》
派手ではない。
バズらない。
でも、確かに人の一日を少しだけ軽くする。
そんな笑いを拾い直していた。
その夜、珠江は北川レンと喫茶店で会っていた。
相談したいことがあった。
「レンくん、ちょっと変な話してええ?」
「はい」
珠江はコーヒーを見つめながら言った。
「私も、そろそろ結婚とか……視野に入れる時なんかなって思って」
レンは、一瞬固まった。
「結婚、ですか」
「うん。今まで恋愛沙汰がなかったわけやないんよ。でも、舞台とかネタとかで、ちゃんと向き合わんまま来た感じがあって」
珠江は少し苦笑する。
「このまま一人で走っていくんかなって思う日もある。でも、誰かと一緒に生活することで見える笑いもあるんかなって」
レンは、しばらく黙っていた。
いつもの明るさが少し消えている。
珠江が首をかしげる。
「レンくん?」
レンは、覚悟を決めたように顔を上げた。
「あの……俺じゃ、だめですか?」
珠江は息を止めた。
「え?」
レンの顔は赤かった。
でも、目はまっすぐだった。
「俺、前から珠江さんのことが気になってました」
珠江は言葉を失う。
レンは続けた。
「最初は、すごい人やなって思ってました。AIを使わずに、自分の足で歩いて、ネタ拾って、自分の言葉で舞台に立つ人やって」
声が少し震える。
「それから、いろいろ相談に乗ってもらって……俺、芸人やってますけど、珠江さんの人情味あふれる笑いに、すごく癒されてます」
珠江は、コーヒーカップに手を添えたまま動けなかった。
レンは慌てて言う。
「すみません。急に言うことじゃないのは分かってます。でも、結婚の話を聞いたら、黙ってたら後悔すると思って」
珠江は、ようやく小さく息を吐いた。
「レンくん……」
答えは、すぐには出せなかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
驚いた。
戸惑った。
けれど、胸の奥に少しだけ温かいものが灯った。
珠江は静かに言った。
「ありがとう。ちゃんと聞いた」
レンは頷いた。
「はい」
「すぐ答えは出されへん。でも……逃げずに考える」
レンの表情が少し緩む。
「それだけで十分です」
珠江は少し照れ隠しのように笑った。
「ただな、私と付き合うたら大変やで。寝過ごして関空行くし、失敗は全部ネタにするし、家族も強烈やし」
レンも笑った。
「それ込みで、気になってます」
珠江は顔をそらした。
「……それはだいぶ重症やな」
二人は、少しだけ笑った。
大きな笑いではない。
でも、小さくて、確かに温かい笑いだった。
その夜、珠江はネタ帳に書いた。
《小さな笑い》
《生活の中の一言》
《誰かと向き合うことで生まれる笑い》
《レンくんの告白》
《人情味あふれる笑い、と言われた》
《逃げずに考える》
最後に、こう書いた。
《小さな笑いは、もしかしたら小さな愛から生まれる》
次回予告
第42話「誰かのための一言」
レンからの突然の告白に揺れる珠江。
芸人として。
一人の女性として。
そして、人の温もりを笑いに変える者として。
珠江は、自分の心と向き合い始める。
次回、第42話
「誰かのための一言」
たった一言が、人生の向きを少し変えることがある。




