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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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ひとりだけ笑わない客

 第4話

「ひとりだけ笑わない客」


 その日の劇場は、悪くなかった。


 満席ではない。

 けれど、空席が目立つほどでもない。


 笠木珠江は舞台袖で深呼吸した。


「今日は、いける気ぃする」


 ネタ帳には、ここ数日で拾った言葉がびっしり詰まっていた。


 最終の南海電車。

 酔っ払いのおじさん。

 猫の三角関係。

 弟・一郎の商社マン一年目の悲鳴。

 父・勝一のぼやき。

 母・美沙子の切れ味のあるツッコミ。


 全部、自分で拾った笑いだった。


 出囃子が鳴る。


 珠江はマイクの前に立った。


「どうも、笠木珠江です。今日も難波から、浪速区の生活臭を背負って参りました」


 客席から笑いが起きる。


 悪くない。


「昨日、最終の南海電車に乗ったんですけどね。酔っ払ったおっちゃんが言うてました。“部長は怒ってるんやない。顔が元から怒ってるだけや”って」


 客席が揺れた。


 珠江の表情が少し明るくなる。


「でも本人に言うたら怒られたらしいです。ほな怒ってるやんけ」


 さらに笑いが起きた。


 いける。


 珠江はそう思った。


 けれど、客席の奥。


 若い女性がひとり、まったく笑っていなかった。


 長い黒髪。

 年齢は二十代半ばくらい。

 背筋を伸ばして座り、珠江の方をじっと見ている。


 つまらなそう、というよりは――

 笑い方を忘れているような顔だった。


 珠江は次のネタに入る。


「帰り道に猫の修羅場を見ましてね。白黒猫と茶トラが三毛猫を巡って揉めてたんです。ところが本命の三毛猫、途中で帰りまして」


 客席が笑う。


「残された二匹、なぜか男同士で決勝戦始めたんです。恋愛やなくてトーナメントやん」


 笑いは広がる。


 でも、その女性だけは笑わない。


 珠江は少しだけ焦った。


 なんでやろう。


 うちのネタ、そんなにウケんかったかな。


 いや、他のお客さんは笑ってる。

 でも、あの人には届いてない。


 その事実が、妙に胸に残った。


 珠江は舞台上で一瞬だけ間を変える。


「……まあ、人間も猫も、誰かに選ばれへん夜はありますわな」


 客席に、少し違う種類の笑いが生まれた。


 苦笑いに近い。

 分かる、という空気。


 しかし、奥の女性はやはり笑わなかった。


 珠江の持ち時間が終わる。


「ありがとうございました。笠木珠江でした」


 拍手。


 大爆笑ではない。

 でも、確かに笑いは取れた。


 珠江は舞台袖へ戻り、次の若手芸人に場所を明け渡した。


 その若手は、AI作成のテンポの良いネタで一気に客席をつかんだ。


 分かりやすい。

 速い。

 強い。


 笑い声が、珠江の背中に刺さる。


「……うまいなぁ」


 悔しい。

 でも、それだけではなかった。


 珠江の視線は、やはり客席の奥に向いていた。


 あの女性は、若手芸人のネタでも笑っていなかった。


 終演後。


 客が少しずつ出口へ流れていく。


 珠江は楽屋へ戻る途中、ロビーの端に立つあの女性を見つけた。


 声をかけるか迷った。


 芸人が客に直接聞くなんて、重いかもしれない。

 面倒くさいと思われるかもしれない。


 けれど、どうしても気になった。


 珠江は小さく息を吸って近づいた。


「あの……すみません」


 女性が振り向く。


「はい」


「今日のネタ、どないでした?」


 自分で聞いておいて、珠江は少し後悔した。


 直球すぎる。


 女性は戸惑ったように目を伏せた。


「……すみません。私、笑ってなかったですよね」


「いや、責めてるわけやないんです。ただ、気になって」


「つまらなかったわけじゃないです」


 珠江は少し黙った。


 女性は続ける。


「周りが笑ってるのは分かりました。でも、自分の中に入ってこなかったというか……」


「入ってこなかった」


「はい。音は聞こえてるのに、遠い感じでした」


 その言葉に、珠江は胸の奥を押された気がした。


 音は聞こえてるのに、遠い。


「お名前、聞いてもええですか?」


 女性は少し迷ってから答えた。


「君原涼子です」


「君原さん」


「涼子でいいです」


「ほな、涼子さん。今日は来てくれてありがとう」


 涼子は驚いたように珠江を見た。


「笑ってないのに?」


「笑ってへんから、余計に気になったんです」


 珠江は笑った。


「芸人ってな、笑ってくれる人も大事やけど、笑われへん人も気になるんです。どこで止まったんやろって」


 涼子は少しだけ視線を落とした。


「私、最近あまり笑えなくて」


 それ以上は言わなかった。


 珠江も聞かなかった。


 聞き出すことと、拾うことは違う。


 今、無理に踏み込んだら、この人の沈黙までネタにしてしまう。


 それは違う。


「また来てください」


 珠江は言った。


「笑わんでもええんで」


 涼子は、初めて少しだけ表情を緩めた。


 笑顔とは言えない。

 でも、固まっていた顔がほんの少しほどけた。


「笑わなくてもいいんですか」


「ええです。こっちは勝手に悔しがりますけど」


 涼子が、ほんのわずかに息を漏らした。


 笑ったのか、ため息なのか分からない。


 でも珠江には、それが今日一番大事な反応に思えた。


 帰り道。


 珠江は南海電車の中でネタ帳を開いた。


 《ひとりだけ笑わない客》

 《音は聞こえてるのに、遠い》

 《笑わなくてもいい。でも、また来てほしい》


 珠江はペンを止めた。


 これをネタにしていいのか。


 いや、まだ早い。


 涼子という人を、まだ何も知らない。


 珠江はネタ帳を閉じた。


 窓に映る自分の顔は、少しだけ真剣だった。


「笑いって、難儀やな」


 電車は夜の大阪を走っていく。


 珠江は初めて、笑わせることよりも前に、誰かの沈黙を見つめようとしていた。


 次回予告

 第5話「完璧すぎる芸人たち」


 AI作成のネタを武器に、若手芸人たちが次々と劇場を沸かせていく。


 無駄のない構成。

 計算された間。

 誰にでも伝わるオチ。


 その完成度に、珠江は思わず息をのむ。


「うまい。ほんまに、うまい」


 けれどその笑いには、なぜか引っかかるものがあった。


 一方、君原涼子は再び劇場に姿を見せる。


 笑わない客。

 完璧すぎる芸人。

 そして、自分の不完全なネタ。


 珠江は初めて、自分の笑いがどこに向かうべきなのかを考え始める。


 次回、第5話

「完璧すぎる芸人たち」


 完璧な笑いの前で、不完全な声が立ち止まる。


 第5話「完璧すぎる芸人たち」


 AI作成のネタを武器に、若手芸人たちが次々と劇場を沸かせていく。


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