沈黙のステージ
第34話
「沈黙のステージ」
会場は、静かだった。
いつもの劇場とは違う。
照明も、音響も、客席の空気も。
そこは、被災地支援のために設けられた特設ステージだった。
体育館を改装した会場。
簡易的な椅子。
床に座る人たち。
毛布にくるまる子ども。
スマホを握りしめる大人。
笑いに来た場所ではない。
「ここで、笑わせるんか……」
珠江は、舞台袖で立ち尽くしていた。
その場には、他の芸人やミュージシャンもいた。
誰もが、少し言葉を選んでいる。
軽くなりすぎないように。
重くなりすぎないように。
そのバランスが、いつもの何倍も難しい。
珠江の手は、少し震えていた。
ネタ帳は持っている。
でも、今日はネタ帳が頼りにならない。
ここには、
笑いたい人もいる。
でも、まだ笑えない人もいる。
その両方が、同じ空間にいる。
「どうやる……」
そのとき、光子と優子の言葉が浮かぶ。
“笑わせようより先に、そばにいよう”
“笑えない人は無理に笑わなくていい”
“安心して笑える場所を作る”
珠江は、ゆっくりと深呼吸した。
そして、自分に言い聞かせた。
(今日は、取りにいかん。迎えに行くでもない。ただ、そこに立つ)
名前が呼ばれた。
「次は、笠木珠江さんです」
拍手は、まばらだった。
でも、それでいい。
珠江は、舞台に出た。
照明が当たる。
客席が見える。
子ども。
大人。
疲れた顔。
ぼんやりした目。
少し警戒している空気。
珠江は、マイクの前に立った。
そして――
何も言わなかった。
沈黙。
その沈黙は、長く感じられた。
普通の劇場なら、ありえない。
間が空きすぎると、不安になる。
客席がざわつく。
でも、ここは違った。
誰もざわつかなかった。
むしろ――
静けさが、共有されていた。
珠江は、ゆっくりと客席を見た。
(この人たち、ずっと頑張ってるんやな)
その思いだけが、浮かんだ。
やがて、珠江は小さく口を開いた。
「……こんにちは」
声は、いつもより低かった。
静かな声。
「笠木珠江です」
一拍。
「今日は……何を話せばいいのか、正直まだ分かってません」
ざわつきはない。
ただ、聞いている空気。
珠江は続ける。
「笑いをやっていいのか、ずっと悩んでました」
その言葉に、何人かが少しだけ顔を上げた。
珠江は正直に話した。
「でも、ここに来て思いました。笑わせることより先に、同じ時間にいることの方が大事なんかなって」
体育館の空気が、少しだけ変わる。
珠江は、少しだけ息を吐いた。
「なので今日は、無理に笑わせません」
はっきりと言う。
「笑いたくない人は、笑わなくていいです」
沈黙。
でも、その沈黙は拒絶ではない。
珠江は、ゆっくりと続ける。
「ただ、少しだけ、息がしやすくなる時間になればいいなと思ってます」
そして、珠江は話し始めた。
「南海電車の普通列車って、ご存じですか」
唐突な話題。
でも、声はやさしい。
「速くないです。急行にも抜かれるし、特急にはかなわない。でも、各駅にちゃんと停まる」
数人が、少しだけ顔を上げる。
「たぶん普通列車、こう思ってます。“派手さはない。でも、ここに来る人は運べる”って」
子どもが一人、くすっと笑った。
ほんの小さな笑い。
でも、それは確かに生まれた。
珠江は、その笑いを追わない。
拾わない。
ただ、そこに置いておく。
「今の日常も、そんな感じなんかなと思います」
珠江は静かに言う。
「一気に元に戻らんでもいい。一駅ずつでいい」
体育館の空気が、少しだけ緩む。
珠江は続ける。
「あと、最近ボールとバットの話してるんですけど」
少しだけ笑いを含ませる。
「ボールが言うんです。“150キロで飛ばされてるんですけど”って」
子どもがまた笑う。
大人の中にも、口元が緩む人が出てきた。
「バットも言うんです。“こっちも硬いの受けて手ぇしびれてるんですけど”って」
少し笑いが広がる。
でも、珠江は勢いを上げない。
そのまま、ゆっくりと話す。
「どっちも、しんどいんです。でも、それでもその場にいる」
珠江は、客席を見た。
「今ここにいる皆さんも、たぶん同じやと思います」
沈黙。
でも、その沈黙は、深く受け止めている空気だった。
珠江は最後に、少しだけ笑った。
「あと……せきちゃん閣下っていうインコがいるんですけど」
客席の何人かが反応する。
珠江は軽く話した。
「ホークスが勝ったら、“自分がホームラン打った”みたいな顔して叫ぶんです」
小さな笑いが、あちこちで起きる。
「せいちゃん姫に“あんた粟穂かじってただけや”って突っ込まれてました」
今度は、少し大きな笑い。
でも、爆笑ではない。
ちょうどいい。
そのくらいが、ちょうどいい。
珠江はマイクを握り直した。
「今日は、大きく笑わなくていいです」
静かに言う。
「でも、ちょっとだけ口が動いたら、それで十分です」
一拍。
「ここにいる人は、一人じゃないです」
珠江は頭を下げた。
「ありがとうございました」
拍手が起きた。
大きくはない。
でも、確かにあたたかい拍手だった。
舞台を降りた珠江は、しばらく動けなかった。
心臓の鼓動が、まだ早い。
でも、怖さはなかった。
代わりに、静かな疲れと、少しの安堵。
光子が近づいてきた。
「よかったよ」
優子も頷く。
「ちゃんと届いとった」
珠江は、少しだけ笑った。
「笑わせてないですけど」
光子は言う。
「今日はそれでいい」
優子が続ける。
「沈黙から始めたの、よかった」
珠江は、ふっと息を吐いた。
ネタ帳を開く。
震える手で、書いた。
《沈黙から始める舞台》
《笑わせない勇気》
《小さな笑いで十分》
《子どものくすっとした声》
《張り詰めた空気が少し緩む》
《同じ時間にいること》
最後に、こう書いた。
《沈黙の中にも、届く声がある》
珠江はペンを置いた。
舞台の外では、まだ現実は続いている。
でも、この場所には、ほんの少しだけ、呼吸が戻っていた。
それだけで、十分だった。




