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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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マイクを持てない夜

 第32話

「マイクを持てない夜」


 雨は弱まってきた。


 けれど、ニュースの内容は軽くならなかった。


 行方不明者の数。

 新たに確認された被害。

 名前が読み上げられる。

 遺族の声。

 瓦礫の中を探す人たち。


 珠江はテレビの前で、ただ立ち尽くしていた。


「……」


 言葉が出ない。


 配信の時間が近づいていた。


 いつものように、スマホをセットする。

 ネタ帳を開く。

 照明を調整する。


 準備は、できている。


 でも――


「今日は……無理かもしれん」


 珠江は、マイク代わりのスタンドに手を伸ばした。


 その手が、止まった。


 喉が詰まる。


 何を話せばいいのか、分からない。


 昨日までは、“安心して笑える声”を届けようとしていた。


 でも今日は違う。


 笑いの言葉が、軽く感じる。

 声を出すこと自体が、何かを踏み越えるような気がする。


 珠江は、椅子に座り込んだ。


 ネタ帳を閉じる。


「……持たれへん」


 マイクを持てない。


 芸人として、一番怖い状態だった。


 そのとき、スマホが震えた。


 メッセージだった。


 涼子から。


 《今日は配信、なくてもいいと思います》


 珠江は、その一行を見つめた。


 続けて届く。


 《声が出ない日もあります》

 《無理して出す声は、きっと届かないです》


 珠江は、目を閉じた。


 その通りだと思った。


 無理に出した声は、きっとどこにも届かない。


 でも、もう一つの思いがあった。


 避難所のメッセージ。


 “少しでいいから、いつもの声が聞きたい”


 珠江は、深く息を吸った。


「……どうする」


 リビングでは、家族が静かに過ごしていた。


 勝一はテレビを見つめている。

 美沙子は、手を動かしているが、どこか上の空。

 一郎は、スマホを見ている。


 珠江は、ぽつりと言った。


「今日、声出されへんかもしれん」


 誰も驚かなかった。


 勝一が言う。


「出されへん日は、出さんでええ」


 美沙子も続ける。


「無理して出したら、自分もしんどいし、聞く人もしんどい」


 一郎が少し考えてから言った。


「でも、“出されへん”って言うのは、出せるかもしれんで」


 珠江は顔を上げた。


「どういうこと」


「ちゃんとしたネタとか、ちゃんとした言葉は出んかもしれん。でも、“今日は出せません”っていう声は出せるやろ」


 珠江は黙った。


 確かにそうだ。


 完璧な言葉は出ない。

 笑いも出ない。


 でも、“出せない”という状態は、言える。


 それは、嘘じゃない。


 珠江はゆっくり立ち上がった。


 スマホの前に座る。


 配信ボタンを押す。


 画面がつく。


 コメント欄が、ゆっくり動き始める。


 《こんばんは》

 《来てくれた》

 《今日は無理しなくていいよ》

 《声聞きたいです》


 珠江は、しばらく何も言えなかった。


 その沈黙が、そのまま流れた。


 やがて、珠江は小さく口を開いた。


「……こんばんは」


 声は、少し震えていた。


「今日は……ちゃんとした話ができるか分かりません」


 コメント欄が静かになる。


 珠江は続ける。


「ニュースを見て、ちょっと……言葉が出てきません」


 正直に言う。


「笑いをやる気持ちにもなれません。だから、今日はネタはやりません」


 一拍。


「でも、配信はつけました」


 コメント欄に、ゆっくり文字が流れる。


 《それでいい》

 《来てくれてありがとう》

 《無理しなくていい》

 《そのままでいい》


 珠江は、画面を見た。


 そこにいる人たちも、同じように言葉を探している気がした。


「今日は……少しだけ、静かに過ごす時間にします」


 珠江は、何も話さない時間をつくった。


 雨の音。

 家の中の気配。

 遠くの車の音。


 沈黙が、画面を通して流れる。


 でも、その沈黙は、昨日までの“無音”とは違った。


 拒絶ではない。


 ただ、同じ時間を共有している沈黙。


 珠江は、ぽつりと言った。


「……さっき、ネタ帳を開いたんですけど、何も書けませんでした」


 コメント欄に、いくつかの反応。


 《それでもいい》

 《今日は書かなくていい日》

 《そんな日もある》


 珠江は少しだけ、息を整えた。


「でも……一つだけ、書きました」


 ネタ帳を開く。


「“マイクを持てない夜がある”」


 その言葉だけだった。


 珠江は続ける。


「でも、持てないままでも、ここにいていいんやなって思いました」


 コメント欄に、ゆっくりと流れる言葉。


 《うん》

 《それでいい》

 《一緒にいるだけでいい》

 《ありがとう》


 珠江は、少しだけ目を細めた。


 笑いはなかった。


 オチもなかった。


 でも、確かに何かが届いていた。


 その夜、珠江はネタ帳に書き足した。


 《声が出ない夜がある》

 《それでも、そこにいていい》

 《沈黙も共有できる》

 《笑いがない時間も、無駄ではない》

 《芸人は、笑うことだけが役割じゃない》


 最後に、こう書いた。


 《マイクを持てない夜にも、消えない声がある》


 配信を終えたあと。


 珠江は、しばらく動けなかった。


 何もしていないようで、何かをやりきった感覚。


 外の雨は、ようやく止み始めていた。


 完全には終わっていない。


 でも、少しずつ変わっている。


 珠江は思った。


 笑いは戻ってくる。


 でも、戻らない夜もある。


 その両方を抱えたまま、また次に進むしかない。


 次回予告

 第33話「声を取り戻す朝」


 声が出なかった夜を越えた珠江。


 翌朝、ネタ帳に向かうと、少しずつ言葉が戻り始める。


 笑いは消えていなかった。


 ただ、静かに息を潜めていただけだった。


 次回、第33話

「声を取り戻す朝」


 止まっていた声が、またゆっくり動き出す

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