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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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南海特急とくろしお

 第31話・後編

「南海特急とくろしお」


 配信を終えたあと、珠江はしばらくネタ帳を開いたまま座っていた。


 笑っていいのか。


 その問いは、まだ消えていない。


 でも、今日の配信で分かったこともあった。


 笑いを押しつけない。

 災害を笑わない。

 でも、安心して笑える場所は作れる。


 珠江は、ふと南海電車のことを考えた。


「南海本線には、ラピートとサザンがおるよな……」


 ペンが動き始める。


 ラピート。

 関西空港へ向かう、独特な顔つきの特急。


 サザン。

 難波と和歌山市を結ぶ、日常にも観光にも寄り添う特急。


 珠江は小さく声を作った。


「どうも、ラピートです。空港ばっかり行ってます。外国人には写真撮られます。でも、たまには和歌山に行ってみたいんです」


 自分で少し笑う。


 次にサザン。


「どうも、サザンです。和歌山まで行ってます。でも正直、新大阪にも行ってみたいし、海の上の橋も渡ってみたいんです」


 珠江はネタ帳に書き込む。


 《ラピート=空港専門の国際派。でも和歌山に憧れる》

 《サザン=和歌山担当。でも関空連絡橋と新大阪に憧れる》

 《どっちも自分の路線の外に憧れている》


 さらに、思いつく。


「二人とも言うねん。“和歌山から先、紀伊半島ぐるっと回って、新宮まで行ってみたい”って」


 その瞬間、珠江の中にもう一人の声が割り込んできた。


 JRの特急くろしお。


 紀伊半島を走り、新大阪から和歌山、白浜、新宮方面へ向かう特急。


 珠江はくろしおの声を、少し余裕のある先輩風にした。


「どうも、くろしおです。君ら、新宮まで来たい言うてるけどな……海沿いの旅、そんな甘ないで」


 珠江は笑った。


「ラピートが言う。“いや、俺、空港行ってるし。国際派やし”」


「くろしおが返す。“空港? こっちはパンダと温泉と台風とカーブを背負って走ってるんや”」


 珠江は声を出して笑ってしまった。


「サザンが言う。“俺も和歌山までは行ってるんや。ほぼ仲間やろ”」


「くろしおが返す。“和歌山で満足してるうちは、まだ半袖や。白浜越えたら人生の湿度が変わる”」


 珠江はペンを走らせた。


 《くろしお=紀伊半島の先輩》

 《ラピート=国際派だが海沿い長距離に憧れる》

 《サザン=和歌山担当、でもその先に憧れる》

 《紀伊半島は甘くない》

 《白浜越えたら人生の湿度が変わる》


 翌日の配信。


 珠江は、慎重に言葉を選んだ。


「今日は、少しだけ電車の話をします。災害の話ではありません。被害を笑う話でもありません。ただ、今夜ちょっとだけ息がしやすくなるように、電車たちにしゃべってもらいます」


 コメント欄が流れる。


 《電車シリーズ好き》

 《普通列車の続き?》

 《安心して聞けるやつ》


 珠江はラピートの声を作った。


「ラピートです。関空に向かってます。見た目はめちゃくちゃ強そうですが、内心では思ってます。“俺もたまには和歌山に行ってみたいわ”」


 コメントに笑いが流れる。


 次にサザン。


「サザンです。和歌山まで行きます。でも正直、新大阪にも行ってみたいし、海の上の橋も渡ってみたいです。“俺も一回くらい、空港で外国人に写真撮られたい”」


 さらに笑いが増える。


 珠江は一拍置いた。


「そして二人は言うんです。“和歌山から先、紀伊半島ぐるっと回って、新宮まで行ってみたい”」


 そこで、くろしお登場。


「どうも、くろしおです。君ら、新宮まで来たい言うてるけどな……海沿いの旅、そんな甘ないで」


 コメント欄が一気に動く。


 《くろしお先輩》

 《急に貫禄》

 《白浜越えたら人生の湿度変わるは草》


 珠江は続けた。


「ラピートが言います。“俺、空港行ってるし、国際派やで?”」


「くろしおが返します。“こっちはパンダ、温泉、海沿いカーブ、台風、全部背負ってるんや。国際派? こっちは紀伊半島派や”」


 コメント欄に笑いが広がる。


「サザンが言います。“俺も和歌山までは行ってるんや。ほぼ仲間やろ”」


「くろしおが返します。“和歌山で満足してるうちは、まだ入口や。白浜越えたら、車内の空気が一段しっとりする”」


 珠江は、笑わせにいくというより、ゆっくり温めるように話した。


 画面の向こうで、少しずつ笑いが生まれているのが分かる。


 派手ではない。


 でも、安心して笑える。


 配信後、コメントが届いた。


 《避難所で子どもがくろしお先輩に笑ってました》

 《電車がしゃべるだけで、少し気が抜けた》

 《災害を茶化さずに笑えるのありがたい》

 《南海電車シリーズ、もっと聞きたい》


 珠江は画面を見て、静かに息を吐いた。


 まだ、この時は知らなかった。


 この「くろしお先輩」が、のちに珠江の鉄板ネタになることを。


 南海本線と高野線。

 普通列車、急行、特急。

 ラピート、サザン、くろしお。


 南海電車シリーズは、やがて「電車シリーズ」へ広がっていく。


 JR、私鉄、地下鉄、ローカル線。

 それぞれに人格を与え、ぼやかせ、励まし合わせ、時に喧嘩させる。


 速い列車。

 遅い列車。

 華やかな列車。

 地味だけど暮らしを支える列車。


 それは、いつしか珠江自身の笑いの象徴になっていく。


 でも、この時の珠江は、そんな未来を知らない。


 ただ、目の前の人が少しでも安心して笑えるように。


 ただ、今夜の避難所で、張り詰めた空気がほんの少し緩むように。


 ただ、そのために、電車たちに声を与えていた。


 珠江はネタ帳に書いた。


 《ラピート、和歌山に憧れる》

 《サザン、新大阪と関空連絡橋に憧れる》

 《くろしお先輩、紀伊半島の貫禄》

 《安心して笑える電車ネタ》

 《南海電車シリーズから、電車シリーズへ行けるかもしれない》


 最後に、こう書く。


 《でも今は、目の前の夜に向き合う》


 珠江はペンを置いた。


 笑っていいのか。


 その問いの答えは、まだ一つではない。


 けれど、今夜は少なくとも、誰かが少しだけ笑った。


 それだけで、珠江はもう一度マイクを持てる気がした。

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