表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/45

笑っていいのか

第31話


「笑っていいのか」


雨の被害が、日を追うごとに明らかになっていった。


九州、四国。

土砂崩れ。

河川の氾濫。

避難所に身を寄せる人々。

家に戻れない家族。

行方が分からない人を待ち続ける人。


大阪の空は、少しずつ晴れ間を取り戻していた。


けれど、珠江の胸の中は晴れなかった。


配信には、相変わらず多くの声が届いていた。


《珠江さんの声を聞くと落ち着きます》

《避難所で家族と見ました》

《普通列車の話、泣きそうになりました》

《こういう時こそ、少し笑える時間がありがたいです》


その一方で、厳しい声もあった。


《こんな時に笑いをやるな》

《不謹慎だと思います》

《被災地のことを本当に考えているなら、黙って支援情報だけ流すべき》

《笑えない人の気持ちを考えてください》


珠江は、どちらの言葉も簡単には否定できなかった。


「……両方、分かるねんな」


リビングのテーブルにスマホを置き、珠江はつぶやいた。


父の勝一は、黙ってニュースを見ている。

母の美沙子は、台所で手を止めた。

弟の一郎も、仕事用の端末を閉じた。


珠江は続けた。


「笑われへん人もおる。そんな時に笑いなんか聞きたくない人もおる。それはほんまにそうやと思う」


美沙子が静かに頷いた。


「うん」


「でも、逆に……しんどい時ほど、ちょっとだけ息つきたい人もおる」


珠江のスマホには、あるメッセージが届いていた。


被災地の避難所からだった。


《避難所にいます。大人はみんな気を張っていて、子どもたちも落ち着かなくなっています。空気がずっと張り詰めていて、些細なことで言い合いになります。笑顔がなくなっています。こういう時ほど、少しでいいから、ホッと息がつける時間が欲しいです》


珠江は、その文面を何度も読んだ。


笑っていいのか。


その問いが、重くのしかかる。


でも、この人は求めている。


大爆笑ではなくていい。

ふざけ倒す必要もない。

ただ、張り詰めた空気を少しだけ緩める声。


珠江はネタ帳を開いた。


けれど、ペンはすぐには動かなかった。


《安心して笑えるもの》


そう書いて、止まる。


安心して笑える笑いとは何か。


誰も傷つけない笑い。

被害を茶化さない笑い。

悲しみを急がせない笑い。

笑えない人に笑えと迫らない笑い。


そして、笑いたい人が少しだけ息をつける笑い。


「……難しすぎるやろ」


珠江は、両手で顔を覆った。


芸人として、笑いを届けたい。


でも、人を傷つけたくない。


笑いは救いにもなる。

同時に、刃にもなる。


その刃を、自分はちゃんと扱えているのか。


珠江は、博多のことが気になっていた。


爆笑発電所。

M&Y。

ファイブピーチ★。

はなまるツインズ。

たくさんのタレント仲間がいる場所。


福岡では、筑後川と遠賀川が氾濫したというニュースが流れていた。


珠江は、光子と優子に連絡を入れた。


しばらくして、画面に二人の顔が映った。


光子は少し疲れた顔をしていたが、声はしっかりしていた。


「珠江さん、大丈夫?」


珠江はすぐに言った。


「こっちは大丈夫です。そちらは……福岡、筑後川と遠賀川が氾濫したってニュースで見て」


優子が頷いた。


「うん。大変な地域はある。でも、うちらは大丈夫たい。爆笑発電所の本部も無事。避難所支援の情報整理とか、物資の連携とか、できることをしてる」


光子も続ける。


「心配してくれてありがとう。こっちは大丈夫やけど、被災してる地域はほんまにしんどいと思う」


珠江は、そこで言葉を詰まらせた。


光子が気づく。


「珠江さん、何か悩んでる?」


珠江は小さく頷いた。


「正直、悩んでます。こういう時、お笑い芸人には何が求められてるんでしょうか」


画面の向こうで、光子と優子の表情が変わった。


珠江は続けた。


「配信に、“安心する”って声が届くんです。避難所で張り詰めた空気の中、子どもも大人も余裕がなくなってて、少しでいいからホッと息がつける時間が欲しいって」


「うん」


「でも一方で、“こんな時に笑いをやるな”“不謹慎だ”って声も届きます。それも分かるんです。笑えない人の気持ちを考えろっていうのも、ほんまにそうやと思う」


珠江は、息を吸った。


「だから、どうしたらええんやろって。笑いを届けたい。でも、誰かを傷つけたくない」


しばらく沈黙があった。


先に口を開いたのは、優子だった。


「珠江さん。まず、悩んでる時点で、ちゃんと向き合ってると思う」


光子も頷く。


「不謹慎かどうかって、簡単に線引きできんのよね。同じ言葉でも、救われる人と傷つく人がおる」


珠江は画面を見つめた。


光子は、少しゆっくり話した。


「うちらも災害の時、何度も悩んだよ。笑いを届けるべきか、黙るべきか。歌っていいのか、ボケていいのか」


優子が続ける。


「でも、ひとつだけ思うのは、“笑わせよう”より先に、“そばにいよう”やと思う」


「そばにいる……」


「うん。無理に笑わせんでいい。泣いてる人に、ほら笑えって言うのは違う。でも、笑いたくなった時に、そこに安心して笑えるものがあるのは、大事たい」


光子が言った。


「避難所の空気って、本当に張り詰めるんよ。大人が気を張る。子どももそれを感じる。みんな疲れて、言葉が尖る。そういう時、ほんの少し笑えるだけで、空気が緩むことがある」


珠江は、避難所から届いたメッセージを思い出した。


大人が気を張りすぎて、子どもも落ち着かない。

ギスギスして、笑顔がなくなっている。


優子が静かに言う。


「ただし、災害そのものをネタにしたらあかん」


光子もすぐに頷く。


「被害を笑わない。被災者を笑わない。不便を茶化さない。そこは絶対」


「じゃあ、何を笑いにすれば……」


光子は少し考えた。


「人がまだ生きてること。支え合ってること。ちょっとした日常の残り火。そういうものかな」


優子が言う。


「たとえば、“普通列車みたいに一駅ずつ戻ればいい”って珠江さんが言ったやろ。あれは災害を笑ってない。戻る速度を肯定してる」


珠江は黙った。


光子が続ける。


「笑いにも種類がある。爆笑だけが笑いじゃない。緊張を少し緩める笑いもある。泣きながらちょっと口元が動く笑いもある」


優子は、まっすぐ珠江を見た。


「今の珠江さんに求められてるのは、たぶん爆発やない。安心して笑える場所を作ることたい」


珠江の胸に、その言葉が落ちた。


安心して笑える場所。


「でも、不謹慎って言う人もいます」


光子は頷いた。


「その声も消したらあかん。笑えない人もおるから」


優子も言った。


「だから、最初に言えばいい。“笑えない人は無理に笑わなくていい”って。“今日は笑いを押しつける配信じゃありません”って」


光子が優しく笑う。


「芸人ができることって、笑わせることだけやないよ。笑える準備ができた人に、そっと火を置くこともできる」


珠江は、ゆっくり頷いた。


「そっと火を置く……」


光子が言った。


「珠江さんは薪ストーブ芸人なんやろ?」


珠江は少しだけ笑った。


「それ、もう定着してるんですか」


優子が笑う。


「定着しとるたい。停電でも残る芸人」


「非常用暖房みたいに言わんといてください」


画面の向こうで、光子と優子も笑った。


その小さな笑いに、珠江は救われた。


通話を終えたあと、珠江は配信の準備を始めた。


いつものような派手な挨拶はしない。


照明も落ち着かせる。


背景には、支援情報のリンクを表示する。

避難情報、義援金、公式発表、交通情報。


そして、配信を始めた。


「こんばんは。笠木珠江です」


コメント欄がゆっくり流れる。


《こんばんは》

《避難所から見てます》

《今日も声聞きに来ました》

《不謹慎って言われてるの見ました》


珠江は深く頭を下げた。


「今日は、最初に言わせてください。今、笑えない人は、無理に笑わなくていいです」


コメント欄が止まる。


珠江は続けた。


「笑いを聞きたくない人もいると思います。それは間違ってません。しんどい時に、笑いが重く感じることもあります」


一拍置く。


「でも、こういう時ほど、少しだけホッと息がつける時間が欲しいという声も届いています。避難所で、張り詰めた空気の中で、子どもたちが不安そうにしているという声も届きました」


珠江は、画面の向こうを見るように話した。


「だから今日は、笑いを押しつけません。災害をネタにはしません。ただ、少しだけ安心して聞ける声を置いていきます」


コメント欄に、少しずつ文字が戻る。


《ありがとう》

《それでいい》

《無理に笑わなくていいって言ってくれて助かった》

《避難所でイヤホンで聞いてます》


珠江は、ゆっくり話し始めた。


「普通列車の話を、また少しだけします」


珠江の声は、いつもより柔らかかった。


「普通列車って、速くないんです。急行にも抜かれるし、特急には比べられへん。でも、ちゃんと一駅ずつ停まる」


少しだけコメントに笑いが流れる。


「たぶん普通列車も言うてます。“こっちは最寄り駅担当や。派手さは特急に任せる。生活はこっちが運ぶ”って」


《普通列車好き》

《今それ泣く》

《生活を運ぶ、いい》


珠江は続ける。


「日常が戻るのも、普通列車でええと思います。一気に元通りにならんでもいい。一駅ずつでいい。今日は水が飲めた。今日は眠れた。今日は誰かと話せた。それで一駅進んでます」


画面の向こうで、誰かが息をついている。


そんな気がした。


珠江は次に、ボールとバットの話をした。


「ボールとバットも、どっちも必死なんです。ボールは“150キロで飛ばされてるんですけど”って思ってるし、バットは“こっちも硬いの受け止めて手ぇしびれてるんですけど”って思ってる」


少し笑いが起きる。


「でも、どっちも自分の役目をやってる。痛くても、怖くても、その場にいる」


珠江は静かに言った。


「今、避難所にいる人も、支援してる人も、家を片づけてる人も、ニュースを見て胸を痛めてる人も、それぞれの場所で必死やと思います。だから、今日は大きく笑えなくてもいいです。少しだけ、肩の力が抜けたら、それで十分です」


コメント欄に、いくつもの言葉が流れた。


《泣いてます》

《子どもが少し笑いました》

《ありがとう》

《不謹慎じゃない。助かってます》

《笑えないけど聞いてます》


その最後のコメントを見て、珠江は胸が詰まった。


笑えないけど聞いている。


それでいい。


笑いは、笑った瞬間だけがすべてではない。


配信の終わりに、珠江は言った。


「今日は、笑えた人も、笑えなかった人も、聞いてくれてありがとうございました。どうか、今夜が少しでも安全でありますように」


配信が終わる。


珠江はしばらく、画面の前で動けなかった。


リビングには、家族がいた。


勝一が静かに言う。


「今日のは、芸やったな」


珠江は顔を上げる。


「笑い、少なかったで」


「笑いだけが芸やない」


美沙子も頷いた。


「安心して聞ける声やった」


一郎が少し照れくさそうに言う。


「姉ちゃん、今日は薪ストーブというより、避難所の毛布やったな」


珠江は目を細める。


「たとえが急に生活感ありすぎるねん」


でも、少し笑った。


その夜、珠江はネタ帳を開いた。


《笑っていいのか》

《両方分かる》

《笑えない人は無理に笑わなくていい》

《笑いたい人には、安心して笑える場所を》

《被害を笑わない》

《不便を茶化さない》

《人が生きていること、支え合っていることに火を置く》

《笑いを押しつけない》

《声を置く》


最後に、こう書いた。


《笑いは救いにも、刃にもなる。だからこそ、刃にしない覚悟がいる》


ペンを置く。


外の雨は、少し弱まっていた。


けれど、被災地の夜はまだ長い。


珠江は、その夜に向けて、自分の声をそっと置いた。



次回予告


第32話「マイクを持てない夜」


安心して笑える場所を作ろうとした珠江。


しかし、被害の大きさがさらに明らかになり、彼女は再び言葉を失う。


亡くなった人。

帰れない人。

待ち続ける人。


マイクの前に立っても、声が出ない。


次回、第32話

「マイクを持てない夜」


声を届けたいのに、声が出ない夜がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ