揺らぐ信念
第27話
「揺らぐ信念」
珠江の配信は、少しずつ伸びていた。
爆発ではない。
けれど、毎日じわじわ増えていく。
「薪ストーブ芸人」
そんな呼ばれ方までされ始めていた。
珠江は照れながらも、少し嬉しかった。
けれど、ある夜。
一通のメッセージが届いた。
《あなたの笑いでは救われなかった》
珠江の指が止まった。
続きには、こう書かれていた。
《みんなが「温かい」と言っているけど、私はそう思えませんでした。しんどい時に見ても、何も変わりませんでした。笑えない人間には、笑いなんて届かないんだと思いました》
珠江は画面を見つめたまま、動けなくなった。
胸の奥が冷える。
涼子には届いた。
一郎には笑ってもらえた。
配信のコメントにも、救われたという声がある。
でも、届かない人もいる。
当たり前のことだった。
全員を救える笑いなんてない。
分かっているはずだった。
それでも、その言葉は重かった。
「私の笑いでは、救われなかった……」
その日の珠江は、ネタ帳を開いても何も書けなかった。
翌日の舞台。
珠江はマイクの前に立った。
いつものように話し始める。
でも、心のどこかで、あの言葉が鳴っていた。
届かない人がいる。
笑えない人がいる。
自分の笑いでは救われない人がいる。
客席から笑いは起きている。
けれど、珠江の中には届いていなかった。
舞台を終えて、楽屋に戻る。
北川レンが声をかけた。
「珠江さん、今日ちょっと変でした」
珠江は苦笑する。
「分かる?」
「はい」
珠江は、メッセージのことを話した。
レンは黙って聞いたあと、静かに言った。
「俺もあります。ウケたネタに、“何が面白いか分からない”って来ること」
「でも、これは違うねん。“救われなかった”って」
レンは少し考えた。
「それ、珠江さんが全部背負わなくていいと思います」
珠江は顔を上げる。
「でも、私は“誰かを少し楽にしたい”って思って舞台に立ってる」
「だからこそ、届かなかった人の声も痛いんですよね」
レンの言葉に、珠江は何も返せなかった。
その夜。
珠江は涼子に会った。
メッセージのことを話すと、涼子はしばらく黙っていた。
そして言った。
「私も、最初は救われませんでした」
珠江は驚く。
「そうなん?」
「はい。珠江さんのネタを見ても、最初は何も変わりませんでした。笑えなかったし、遠かった」
涼子は静かに続ける。
「でも、何度か見ているうちに、少しずつ近くなったんです」
「少しずつ……」
「笑いって、薬みたいにすぐ効くものじゃないのかもしれません」
珠江は黙って聞いた。
「届かない日があっても、それで終わりとは限らないです。今は届かなかっただけかもしれない」
その言葉に、珠江の胸が少しだけ緩んだ。
全員を救えない。
でも、今日届かなかった声が、明日も絶対に届かないとは限らない。
珠江はネタ帳に書いた。
《あなたの笑いでは救われなかった》
《その言葉を消さない》
《全員を救える笑いはない》
《でも、届かない日が終わりとは限らない》
《笑いは即効薬ではない》
《時間が必要な人もいる》
最後に、こう書いた。
《届かなかった声にも、背を向けない》
配信の夜。
珠江は、少しだけその話をした。
「私の笑いで救われなかった、という声をもらいました」
コメント欄が止まる。
珠江は続ける。
「正直、めちゃくちゃ刺さりました。でも、考えました。笑いは万能じゃない。誰かを必ず救えるもんやない」
一拍置く。
「でも、だからやめるんやなくて、届かなかった人のことも忘れずに、また声を出そうと思います」
コメントが少しずつ流れ始める。
《それでいいと思う》
《救えない人がいるからこそ続けてほしい》
《今日届かなくても、いつか届くかもしれない》
珠江は画面の向こうに頭を下げた。
信念は揺らいだ。
でも、折れたわけではなかった。
次回予告
第28話「雨が止まない街」
珠江の心が揺れる中、各地で大雨が続き始める。
ニュースには、冠水した道路、避難所、被災した街の映像。
笑いを届ける意味を問い続ける珠江の前に、さらに重い現実が迫る。
次回、第28話
「雨が止まない街」
笑いより先に、守らなければならないものがある。




