笑いが怖くなる日
第21話
「笑いが怖くなる日」
舞台に向かう足が、少しだけ重くなっていた。
無音の夜。
拍手のない夜。
それでも立った。
それでもやり切った。
でも、そのあとからだった。
(また届かんかったらどうしよう)
(次も無音やったらどうしよう)
珠江は、劇場の入口で立ち止まった。
中に入れば、いつも通りの楽屋。
いつも通りの舞台。
でも、心の中だけが違っていた。
「……怖いな」
初めてだった。
舞台に立つのが、怖いと感じたのは。
その日の珠江は、出番を終えても、どこか上の空だった。
笑いは取れた。
でも、心がついてこない。
帰り道、珠江はスマホを握りしめた。
連絡先を開く。
迷った末に、通話ボタンを押した。
相手は、光子と優子。
少しの呼び出し音のあと、優子の声が聞こえた。
「珠江さん?どうしたと?」
珠江は少しだけ黙ってから言った。
「……ちょっと、聞いてほしいことがあって」
数分後、オンライン通話がつながった。
画面の向こうに、光子と優子の顔が映る。
その瞬間、珠江の肩の力が少し抜けた。
「どうしたと?顔、ちょっとしんどそうやね」
珠江は正直に話した。
無音の舞台。
拍手のない夜。
それでも立ったこと。
でも、そのあとから怖くなったこと。
「次に滑ったらどうしようって思うようになって……舞台に立つのが、ちょっと怖いんです」
画面の向こうで、光子と優子は静かに聞いていた。
そして、光子がゆっくり言った。
「……うちらもあったよ」
珠江は顔を上げた。
優子が続ける。
「小学校四年生の時に、事故に巻き込まれてね。二人とも重傷で、一時は意識不明になったと」
珠江は息をのんだ。
その話は、知ってはいた。
でも、直接聞くのは初めてだった。
光子が静かに言う。
「目が覚めても、しばらくは手も足も動かせんでね。“もう舞台に立てんのやないか”って、本気で思った」
優子も頷く。
「体もやけど、心が怖くなったと。もう一回あの場所に戻れるんかって」
珠江は画面を見つめた。
光子が続ける。
「復帰して最初の舞台に立つ時、めちゃくちゃ怖かったよ。足が震えて、声も出るか分からんくて」
優子が少し笑う。
「でもね、それでも立ったと」
「なんで……立てたんですか」
珠江は思わず聞いた。
光子は少し考えてから言った。
「必要としてくれてる人がおったからやね」
優子も続ける。
「“また見たい”って言ってくれる人がおった。“戻ってきてほしい”って思ってくれる人がおった」
珠江の胸に、涼子の顔が浮かぶ。
あの言葉。
“ホッとできる”
“今の芸風でいてほしい”
優子が画面越しに優しく言った。
「珠江さんにも、必ずおるよ」
光子が続ける。
「大きな拍手くれる人やなくてもええ。たった一人でも、“その人のために立てる”って思える人がおったら、それでええんよ」
珠江は、何も言えなかった。
言葉が、胸の奥に沈んでいく。
優子が少しだけ笑う。
「怖いのはね、ちゃんと向き合ってる証拠たい」
光子も頷く。
「怖くない時期なんて、逆に危ない。何も見えてへんだけやから」
珠江は、小さく笑った。
「それ、ちょっと安心しました」
「怖いままでええよ」
優子が言う。
「怖いままでも、声は出せる」
通話が終わったあと。
珠江は、しばらく動けなかった。
怖さは、消えていない。
でも、形が変わっていた。
ただの不安じゃない。
ちゃんと大事にしたいものがあるから、怖い。
珠江はネタ帳を開いた。
《舞台が怖くなる日がある》
《それは終わりじゃない》
《必要としてくれる人がいる》
《一人でもいい》
《怖いままでも立てる》
《声は出せる》
最後に、こう書いた。
《笑いが怖いのは、まだ笑いを信じてるから》
その夜。
珠江は、次の舞台のことを考えた。
まだ怖い。
でも、少しだけ、また立てる気がした。
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次回予告
第22話「一人のための舞台」
恐怖を抱えながらも、再び舞台に向かう珠江。
大きな笑いではなくてもいい。
たった一人に届けばいい。
そう思って立った舞台で、珠江は初めて“誰か一人のために話す”感覚を知る。
次回、第22話
「一人のための舞台」
すべての客ではなく、一人に届く声がある。




