拍手のない舞台
思考時間: 2 ~ 3 秒
第20話
「拍手のない舞台」
師匠の言葉は、珠江の胸に残っていた。
「人に笑われたらあかん。人を笑わせてあげるんや」
「笑いを取りに行くんやない。笑える場所まで、お客さんを迎えに行くんや」
その言葉を抱えて、珠江は再び舞台に立った。
けれど、その日の客席も重かった。
前の芸人がAIネタで大きな笑いを取った直後。
客席はすでに“速い笑い”に慣れていた。
珠江はマイクの前に立つ。
「どうも、笠木珠江です」
拍手は、薄かった。
ほんの数人が、礼儀のように手を叩く。
珠江は一瞬、胸の奥が縮むのを感じた。
拍手がない。
いや、ゼロではない。
でも、熱がない。
昨日の無音とは違う。
今日は、最初から期待されていないように感じた。
それでも珠江は、師匠の言葉を思い出す。
笑いを取りに行くんやない。
迎えに行くんや。
珠江は予定していたネタを、少しだけ変えた。
「最近、拍手ってありがたいなと思うんです」
客席が少しだけ動く。
「舞台に出た時、拍手が薄いとね、芸人は心の中でこう思います。“あ、今日の客席、私をまだ人間として認識してないな”って」
数人が笑う。
珠江は、そこへ寄せる。
「でも考えたら、拍手ってすごいですよ。両手をわざわざぶつけて、“あなたを見てます”って伝える行為ですからね」
少し笑いが広がる。
「逆に拍手がないと、こっちは一瞬、自分が透明人間になった気がするんです。透明人間になったらなったで、もっとええ使い道あるやろと思うんですけど。せめて電車で座席確保するとか」
ようやく客席の一部が笑った。
爆笑ではない。
けれど、少しだけ温度が戻った。
珠江は息を整える。
「でも、拍手が薄い日ほど思います。私、まだここに立ってる意味あるんかなって」
客席が静かになる。
珠江は続けた。
「師匠に言われました。笑いを取りに行くんやない。笑える場所まで、お客さんを迎えに行くんやって」
奥の席で、涼子が真っ直ぐ珠江を見ていた。
「だから今日は、拍手がなくても、笑いが少なくても、迎えに行こうと思います」
珠江は少し笑った。
「まあ、迎えに行ったら行ったで、“今ちょっとしんどいんで結構です”って断られる日もありますけどね」
客席から、ふっと笑いが起きる。
その笑いは小さかった。
でも、確かに誰かの口元からこぼれたものだった。
珠江は、その小さな笑いを拾った。
「ええんです。無理に笑わんでも。こっちは芸人やから、勝手に何回でも迎えに来ます」
そこから珠江は、南海電車の普通列車ネタにつなげた。
「普通列車って、急行に抜かれても、特急に抜かれても、ちゃんと各駅に停まるんです。たぶん内心では言うてます。“先に行け。こっちは近所担当や”って」
今度は、少し大きな笑いが起きた。
「私の笑いも、たぶん普通列車なんです。速くはない。派手でもない。でも、どこかの小さい駅で待ってる人にだけは、停まりたい」
客席が、静かに聞いていた。
珠江は最後に頭を下げた。
「今日は、薄い拍手から始まりました。でも、最後まで聞いてくれてありがとうございました。笠木珠江でした」
一拍。
それから、拍手が起きた。
大きくはない。
けれど、最初よりずっと温かい拍手だった。
舞台袖へ戻ると、珠江は壁にもたれた。
足が少し震えていた。
そこへ北川レンが来た。
「珠江さん、今日……すごかったです」
「拍手少なかったけどな」
「でも、増えました。最後、ちゃんと増えました」
珠江は小さく笑った。
「拍手を育てた芸人って、なんか地味やな」
レンも笑う。
「でも、今日の珠江さん、客席を迎えに行ってました」
その言葉に、珠江は少しだけ目を伏せた。
師匠の言葉が、やっと舞台の上で少し形になった気がした。
終演後、涼子がロビーで待っていた。
「珠江さん」
「涼子さん。今日、どうやった?」
涼子は静かに言った。
「迎えに来てもらった気がしました」
珠江は、息を止めた。
涼子は続ける。
「笑わなきゃいけないんじゃなくて、笑えるところまで待ってもらえた感じがしました」
珠江は、胸の奥がじんわり熱くなった。
「それ、師匠に聞かせたいわ」
帰りの南海電車。
珠江はネタ帳を開いた。
《拍手がないと、自分が透明になる》
《拍手は“見てます”の音》
《笑いを取りに行くな。迎えに行け》
《無理に笑わせるんじゃない》
《笑えるところまで待つ》
《拍手は育つ》
最後に、こう書いた。
《拍手のない舞台でも、終わりまで立っていれば、誰かが手を叩いてくれることがある》
珠江はペンを置いた。
拍手のない舞台。
それは、敗北ではなかった。
客席までの距離を、初めて本気で歩いた夜だった。
次回予告
第21話「笑いが怖くなる日」
無音の舞台。
拍手のない舞台。
それでも立ち続けた珠江だったが、心の奥には少しずつ恐怖が積もっていく。
次に滑ったらどうしよう。
また届かなかったらどうしよう。
笑わせるはずの舞台が、怖い場所に変わっていく。
次回、第21話
「笑いが怖くなる日」
笑いを愛しているからこそ、笑いが怖くなる夜がある。




