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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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21/22

拍手のない舞台

 思考時間: 2 ~ 3 秒

 第20話

「拍手のない舞台」


 師匠の言葉は、珠江の胸に残っていた。


「人に笑われたらあかん。人を笑わせてあげるんや」


「笑いを取りに行くんやない。笑える場所まで、お客さんを迎えに行くんや」


 その言葉を抱えて、珠江は再び舞台に立った。


 けれど、その日の客席も重かった。


 前の芸人がAIネタで大きな笑いを取った直後。

 客席はすでに“速い笑い”に慣れていた。


 珠江はマイクの前に立つ。


「どうも、笠木珠江です」


 拍手は、薄かった。


 ほんの数人が、礼儀のように手を叩く。


 珠江は一瞬、胸の奥が縮むのを感じた。


 拍手がない。


 いや、ゼロではない。

 でも、熱がない。


 昨日の無音とは違う。


 今日は、最初から期待されていないように感じた。


 それでも珠江は、師匠の言葉を思い出す。


 笑いを取りに行くんやない。

 迎えに行くんや。


 珠江は予定していたネタを、少しだけ変えた。


「最近、拍手ってありがたいなと思うんです」


 客席が少しだけ動く。


「舞台に出た時、拍手が薄いとね、芸人は心の中でこう思います。“あ、今日の客席、私をまだ人間として認識してないな”って」


 数人が笑う。


 珠江は、そこへ寄せる。


「でも考えたら、拍手ってすごいですよ。両手をわざわざぶつけて、“あなたを見てます”って伝える行為ですからね」


 少し笑いが広がる。


「逆に拍手がないと、こっちは一瞬、自分が透明人間になった気がするんです。透明人間になったらなったで、もっとええ使い道あるやろと思うんですけど。せめて電車で座席確保するとか」


 ようやく客席の一部が笑った。


 爆笑ではない。


 けれど、少しだけ温度が戻った。


 珠江は息を整える。


「でも、拍手が薄い日ほど思います。私、まだここに立ってる意味あるんかなって」


 客席が静かになる。


 珠江は続けた。


「師匠に言われました。笑いを取りに行くんやない。笑える場所まで、お客さんを迎えに行くんやって」


 奥の席で、涼子が真っ直ぐ珠江を見ていた。


「だから今日は、拍手がなくても、笑いが少なくても、迎えに行こうと思います」


 珠江は少し笑った。


「まあ、迎えに行ったら行ったで、“今ちょっとしんどいんで結構です”って断られる日もありますけどね」


 客席から、ふっと笑いが起きる。


 その笑いは小さかった。


 でも、確かに誰かの口元からこぼれたものだった。


 珠江は、その小さな笑いを拾った。


「ええんです。無理に笑わんでも。こっちは芸人やから、勝手に何回でも迎えに来ます」


 そこから珠江は、南海電車の普通列車ネタにつなげた。


「普通列車って、急行に抜かれても、特急に抜かれても、ちゃんと各駅に停まるんです。たぶん内心では言うてます。“先に行け。こっちは近所担当や”って」


 今度は、少し大きな笑いが起きた。


「私の笑いも、たぶん普通列車なんです。速くはない。派手でもない。でも、どこかの小さい駅で待ってる人にだけは、停まりたい」


 客席が、静かに聞いていた。


 珠江は最後に頭を下げた。


「今日は、薄い拍手から始まりました。でも、最後まで聞いてくれてありがとうございました。笠木珠江でした」


 一拍。


 それから、拍手が起きた。


 大きくはない。


 けれど、最初よりずっと温かい拍手だった。


 舞台袖へ戻ると、珠江は壁にもたれた。


 足が少し震えていた。


 そこへ北川レンが来た。


「珠江さん、今日……すごかったです」


「拍手少なかったけどな」


「でも、増えました。最後、ちゃんと増えました」


 珠江は小さく笑った。


「拍手を育てた芸人って、なんか地味やな」


 レンも笑う。


「でも、今日の珠江さん、客席を迎えに行ってました」


 その言葉に、珠江は少しだけ目を伏せた。


 師匠の言葉が、やっと舞台の上で少し形になった気がした。


 終演後、涼子がロビーで待っていた。


「珠江さん」


「涼子さん。今日、どうやった?」


 涼子は静かに言った。


「迎えに来てもらった気がしました」


 珠江は、息を止めた。


 涼子は続ける。


「笑わなきゃいけないんじゃなくて、笑えるところまで待ってもらえた感じがしました」


 珠江は、胸の奥がじんわり熱くなった。


「それ、師匠に聞かせたいわ」


 帰りの南海電車。


 珠江はネタ帳を開いた。


 《拍手がないと、自分が透明になる》

 《拍手は“見てます”の音》

 《笑いを取りに行くな。迎えに行け》

 《無理に笑わせるんじゃない》

 《笑えるところまで待つ》

 《拍手は育つ》


 最後に、こう書いた。


 《拍手のない舞台でも、終わりまで立っていれば、誰かが手を叩いてくれることがある》


 珠江はペンを置いた。


 拍手のない舞台。


 それは、敗北ではなかった。


 客席までの距離を、初めて本気で歩いた夜だった。


 次回予告

 第21話「笑いが怖くなる日」


 無音の舞台。

 拍手のない舞台。


 それでも立ち続けた珠江だったが、心の奥には少しずつ恐怖が積もっていく。


 次に滑ったらどうしよう。

 また届かなかったらどうしよう。

 笑わせるはずの舞台が、怖い場所に変わっていく。


 次回、第21話

「笑いが怖くなる日」


 笑いを愛しているからこそ、笑いが怖くなる夜がある。

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