初めての無音
第19話
「初めての無音」
その日の客席は、最初から重かった。
疲れているのか。
警戒しているのか。
それとも、ただ珠江の笑いを待っていないのか。
笠木珠江は、マイクの前に立った瞬間に分かった。
「あ、今日あかんかもしれん」
それでも、始めるしかない。
「どうも、笠木珠江です。最近、南海電車の普通列車に感情移入してます」
反応がない。
珠江は続けた。
「普通列車って、遅いって言われるんですけどね。でも、各駅に停まるからこそ、誰かの家の近くまで行けるんです」
静かだった。
笑いどころの前の静けさではない。
ただ、音がない。
珠江は一瞬、息を吸い直す。
「急行さんは速いです。でも、通過する駅のホームで、めちゃくちゃ恨まれてると思うんです。“お前も停まれや”って」
数人が小さく笑う。
けれど、広がらない。
珠江は焦った。
間を取ろうとする。
客席を見る。
誰かの呼吸を探す。
でも、何もつかめない。
まるで客席全体が、分厚いガラスの向こうにいるようだった。
次の言葉が喉に引っかかる。
「特急さんは……」
声が少し揺れた。
その揺れが、自分でも分かった。
(あかん)
珠江は立て直そうとした。
「特急さんは座席指定です。ちょっと偉そうです。でも遅れたら、車内の空気が一気に裁判所になります」
本来なら、ここで笑いが起きるはずだった。
起きなかった。
無音。
珠江の耳に、自分の呼吸だけが聞こえた。
舞台の照明が、いつもより熱い。
客席の顔が見えない。
自分の声だけが、空中に浮いて、どこにも着地しない。
持ち時間が、永遠に感じられた。
最後までやり切った。
拍手はあった。
礼儀としての拍手だった。
珠江は頭を下げ、舞台袖に戻った。
足元が少しふらついた。
楽屋の椅子に座ると、何も考えられなかった。
滑ったことはある。
ウケなかったこともある。
でも、今日の沈黙は違った。
笑われなかったのではない。
存在ごと、通り過ぎられたような気がした。
「初めてやな……こんなん」
珠江はネタ帳を開いた。
何かを書こうとする。
でも、ペンが動かない。
そこへ北川レンが入ってきた。
「珠江さん……」
珠江は苦笑した。
「見てた?」
「はい」
「ひどかったやろ」
レンはすぐには答えなかった。
その沈黙が、逆に優しかった。
珠江は小さく言う。
「今日、声が消えたみたいやった」
レンは椅子に座った。
「俺もあります。AIネタでウケてるのに、自分の声だけ消えてる感じの日」
珠江はレンを見る。
「ウケてても?」
「はい。客席は笑ってる。でも、自分がそこにいない感じです」
珠江は目を伏せた。
ウケても消える声がある。
ウケなくても消える声がある。
笑いは、なんて厄介なのだろう。
その夜、珠江は南海電車に乗った。
窓の外は暗い。
車内の音が妙に遠い。
ネタ帳を開く。
ようやく、一行だけ書けた。
《無音は、失敗より怖い》
その下に、少し時間を置いて書く。
《声が届かない夜がある》
家に帰ると、勝一がテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
美沙子が台所から顔を出す。
「ごはん、温めよか」
珠江は首を振った。
「今日はええわ」
一郎がソファから起き上がる。
「姉ちゃん、舞台どうやった?」
珠江は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「無音」
一郎は黙った。
勝一も、美沙子も、何も言わなかった。
その沈黙は、劇場の沈黙とは違った。
責めていない。
急かしていない。
ただ、そこにいてくれる沈黙だった。
珠江はその場に座り込んだ。
「今日、ほんま怖かった」
美沙子がそっとお茶を置く。
勝一がテレビの音を少し下げる。
一郎が小さく言う。
「無音でも、帰ってきたやん」
珠江は一郎を見た。
「何それ」
「いや、普通列車でも終点には着くやろ」
勝一がすぐに言う。
「お前、ええこと言うやないか。腹立つな」
美沙子が笑った。
珠江も、ほんの少しだけ笑った。
大きな笑いではない。
でも、劇場で消えた声が、家の中で少し戻った気がした。
その夜、珠江はネタ帳に書き足した。
《無音でも、帰ってきた》
《責めない沈黙もある》
《舞台の沈黙は怖い。でも家の沈黙は、待ってくれる》
《声が消えた夜にも、声を戻してくれる場所がある》
最後に、こう書いた。
《明日も、声を出す》
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次回予告
第20話「拍手のない舞台」
初めての無音を経験した珠江。
それでも舞台に立とうとする彼女に、さらに厳しい現実が待っていた。
客席は笑わない。
拍手も薄い。
自分の存在が、舞台から消えていくような感覚。
それでも珠江は、なぜ声を出すのか。
次回、第20話
「拍手のない舞台」
届かない夜にも、声を捨てない理由がある。




