表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/27

初めての無音

第19話


「初めての無音」


その日の客席は、最初から重かった。


疲れているのか。

警戒しているのか。

それとも、ただ珠江の笑いを待っていないのか。


笠木珠江は、マイクの前に立った瞬間に分かった。


「あ、今日あかんかもしれん」


それでも、始めるしかない。


「どうも、笠木珠江です。最近、南海電車の普通列車に感情移入してます」


反応がない。


珠江は続けた。


「普通列車って、遅いって言われるんですけどね。でも、各駅に停まるからこそ、誰かの家の近くまで行けるんです」


静かだった。


笑いどころの前の静けさではない。

ただ、音がない。


珠江は一瞬、息を吸い直す。


「急行さんは速いです。でも、通過する駅のホームで、めちゃくちゃ恨まれてると思うんです。“お前も停まれや”って」


数人が小さく笑う。


けれど、広がらない。


珠江は焦った。


間を取ろうとする。

客席を見る。

誰かの呼吸を探す。


でも、何もつかめない。


まるで客席全体が、分厚いガラスの向こうにいるようだった。


次の言葉が喉に引っかかる。


「特急さんは……」


声が少し揺れた。


その揺れが、自分でも分かった。


(あかん)


珠江は立て直そうとした。


「特急さんは座席指定です。ちょっと偉そうです。でも遅れたら、車内の空気が一気に裁判所になります」


本来なら、ここで笑いが起きるはずだった。


起きなかった。


無音。


珠江の耳に、自分の呼吸だけが聞こえた。


舞台の照明が、いつもより熱い。


客席の顔が見えない。


自分の声だけが、空中に浮いて、どこにも着地しない。


持ち時間が、永遠に感じられた。


最後までやり切った。


拍手はあった。


礼儀としての拍手だった。


珠江は頭を下げ、舞台袖に戻った。


足元が少しふらついた。


楽屋の椅子に座ると、何も考えられなかった。


滑ったことはある。

ウケなかったこともある。


でも、今日の沈黙は違った。


笑われなかったのではない。


存在ごと、通り過ぎられたような気がした。


「初めてやな……こんなん」


珠江はネタ帳を開いた。


何かを書こうとする。


でも、ペンが動かない。


そこへ北川レンが入ってきた。


「珠江さん……」


珠江は苦笑した。


「見てた?」


「はい」


「ひどかったやろ」


レンはすぐには答えなかった。


その沈黙が、逆に優しかった。


珠江は小さく言う。


「今日、声が消えたみたいやった」


レンは椅子に座った。


「俺もあります。AIネタでウケてるのに、自分の声だけ消えてる感じの日」


珠江はレンを見る。


「ウケてても?」


「はい。客席は笑ってる。でも、自分がそこにいない感じです」


珠江は目を伏せた。


ウケても消える声がある。

ウケなくても消える声がある。


笑いは、なんて厄介なのだろう。


その夜、珠江は南海電車に乗った。


窓の外は暗い。


車内の音が妙に遠い。


ネタ帳を開く。


ようやく、一行だけ書けた。


《無音は、失敗より怖い》


その下に、少し時間を置いて書く。


《声が届かない夜がある》


家に帰ると、勝一がテレビを見ていた。


「おかえり」


「ただいま」


美沙子が台所から顔を出す。


「ごはん、温めよか」


珠江は首を振った。


「今日はええわ」


一郎がソファから起き上がる。


「姉ちゃん、舞台どうやった?」


珠江は笑おうとした。


でも、うまく笑えなかった。


「無音」


一郎は黙った。


勝一も、美沙子も、何も言わなかった。


その沈黙は、劇場の沈黙とは違った。


責めていない。

急かしていない。

ただ、そこにいてくれる沈黙だった。


珠江はその場に座り込んだ。


「今日、ほんま怖かった」


美沙子がそっとお茶を置く。


勝一がテレビの音を少し下げる。


一郎が小さく言う。


「無音でも、帰ってきたやん」


珠江は一郎を見た。


「何それ」


「いや、普通列車でも終点には着くやろ」


勝一がすぐに言う。


「お前、ええこと言うやないか。腹立つな」


美沙子が笑った。


珠江も、ほんの少しだけ笑った。


大きな笑いではない。


でも、劇場で消えた声が、家の中で少し戻った気がした。


その夜、珠江はネタ帳に書き足した。


《無音でも、帰ってきた》

《責めない沈黙もある》

《舞台の沈黙は怖い。でも家の沈黙は、待ってくれる》

《声が消えた夜にも、声を戻してくれる場所がある》


最後に、こう書いた。


《明日も、声を出す》



次回予告


第20話「拍手のない舞台」


初めての無音を経験した珠江。


それでも舞台に立とうとする彼女に、さらに厳しい現実が待っていた。


客席は笑わない。

拍手も薄い。

自分の存在が、舞台から消えていくような感覚。


それでも珠江は、なぜ声を出すのか。


次回、第20話

「拍手のない舞台」


届かない夜にも、声を捨てない理由がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ