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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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浪速区、路地裏のネタ帳

 第2話「浪速区、路地裏のネタ帳」


 難波の小さな劇場を出ると、夜の空気は少し湿っていた。


 笠木珠江は、肩から下げたトートバッグを揺らしながら、南海なんば駅へ向かった。


 今日の舞台は、悪くなかった。


 けれど、爆笑ではない。


 以前なら、最初の一言で客席の空気をつかめた。

 今は、つかむまでに少し時間がかかる。


「……遅なったな」


 ホームには、最終に近い南海電車が待っていた。


 珠江は車内に乗り込み、空いた席に腰を下ろす。

 向かいには、酔っ払って上機嫌なおじさんが二人。


「ちゃうねん、部長はな、怒ってるんやないねん。顔が元から怒ってんねん」


「それ本人に言うたんか?」


「言うたら怒られた」


「ほな怒ってるやんけ」


 珠江は思わず、口元を押さえた。


「……このおっちゃん、おもろいな」


 スマホではなく、紙のネタ帳を取り出す。


 《部長は怒ってない。顔が元から怒ってるだけ》


 珠江は小さく書き込む。


 おじさんたちの会話は止まらない。


「最近の若い子はすごいで。AIで資料作るんやて」


「ええなぁ。わしもAIに謝罪文作ってほしいわ」


「何を謝るねん」


「昨日、嫁に“今日の味噌汁、実験か?”って言うてしもた」


「それはAIでも無理や」


 珠江、肩を震わせる。


「強いな……味噌汁実験は強い」


 またネタ帳に書く。


 《AIでも無理な謝罪文》

 《味噌汁、実験か?》


 電車は新今宮を過ぎ、夜の街を滑っていく。


 車内の広告。

 眠そうな会社員。

 イヤホンをした学生。

 そして、陽気なおじさん二人。


 珠江には、全部が舞台に見えた。


 やがて天下茶屋駅。


 珠江は電車を降りた。


 駅前の空気は、難波より少し生活の匂いが濃い。

 閉まりかけた店のシャッター。

 自転車のブレーキ音。

 どこかの家から漏れるテレビの音。


「ただいま、浪速の現実」


 珠江はそうつぶやいて歩き出す。


 その途中だった。


 細い路地の奥から、低いうなり声。


 見ると、三匹の猫が向かい合っていた。


 白黒の猫。

 茶トラの猫。

 そして、真ん中にいる小柄な三毛猫。


 珠江は足を止めた。


「……え、三角関係?」


 白黒猫が一歩前に出る。


「ニャアア」


 茶トラも負けじと鳴く。


「ナァアア」


 三毛猫は、二匹を見比べたあと、すっと横を向いた。


 珠江は小声で実況する。


「白黒選手、積極的に前へ。茶トラ選手も譲らない。三毛さん、まさかの興味なし」


 次の瞬間、三毛猫は二匹を置いて、塀の上へ軽やかに飛び乗った。


 残された二匹は、なぜか互いに見つめ合う。


 珠江は吹き出した。


「いや、男同士で決勝戦始めんな」


 すぐにネタ帳を開く。


 《猫の三角関係》

 《本命、先に帰る》

 《残された男たちの延長戦》


 家に帰ると、リビングの明かりがまだついていた。


 父・勝一が、寝巻き姿で麦茶を飲んでいる。


「遅かったな」


「最終の南海、ネタの宝庫やったわ」


「電車を交通機関として使え」


 そこへ母・美沙子が顔を出す。


「珠江、また外で変なもん拾ってきたんちゃうやろね」


「拾ってへん。猫の修羅場を見届けただけ」


「それ、十分変やで」


 弟の一郎も、スーツのままソファでぐったりしていた。


「姉ちゃん、俺も今日、会社で修羅場やった」


「猫とどっちが濃い?」


「猫に負けたら社会人として終わりやろ」


 珠江はネタ帳を開きながら笑う。


「ほな明日のネタ、決まったわ」


 勝一が眉を上げる。


「何や」


 珠江はペンを持ち、白いページに大きく書いた。


 《最終電車と猫の恋》


 そして、つぶやく。


「AIには拾われへん夜がある」


 その声は小さかった。


 でも、確かに自分の声だった。

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