5.鍵は過去にある
その画像を見た瞬間、クレアの意識は、はっきりと過去へと引き戻された。
──脳裏に浮かび上がったのは、魔術学院旧図書棟の、さらに奥まった一角だった。
人の気配が薄れ、書架の背表紙が年月に煤け、紙と埃の匂いが混じり合う場所。講義の合間、学生たちがそれぞれの時間を過ごす中でも、わざわざ足を踏み入れる者は少ない静域だ。
香月が、コルテス兄妹──学院内では名の知れた二人の生徒と話していた、あの時の光景。あれはいつ頃の事だったか。
確か、自分が入学してから季節は秋の終わりになったぐらいだった。
高窓から差し込む夕暮れの光が、斜めに床を切り取り、空気中の微細な埃を橙色に染め上げていた。沈みゆく太陽の光は、図書棟の奥まで届くころには柔らかく、現実から遠ざかった幻想的な空間を作る。旧図書棟には古めかしい蔵書も多く雰囲気も良いのでよく通っていた。
古びた木机の上には、無造作に紙切れが三枚置かれていた。
インクの濃淡がまばらな線。規則性があるようで、意図的に外された数字。意味を持ちそうで、しかし途中で切り捨てられた単語の断片。
どれも一見すれば、誰かの思いつきや暇つぶしの落書きにしか見えない代物だった。
その沈黙を破ったのは、ソル・コルテスだった。
「……これでなら、十分だろう」
低く、抑揚の少ない声。
誰に向けた言葉なのか、即座には判断がつかない。ソルという名はスペイン語で太陽を意味するが、その響きとは裏腹に、彼の佇まいは常に影をまとっていた。
魔術学院でも指折りの技師課でもトップの才を持ちながら、寡黙すぎるがゆえに内心が読めない──それが、他の学生からのソル・コルテスという人物に対する共通認識だった。
香月が言うには「そうでもないぞ?」らしいが、それは交流のある彼だから言える発言なのだろう。少なくともコルテス兄妹は学院内で名の轟く『畏怖の対象』の代表の一つだった。
彼は椅子に深く腰を沈めたまま、紙切れの一枚を指先で軽く押さえる。その動作ひとつにも、無駄な力は一切感じられない。
「解ける人物にだけ、意味があればいい。全員に分かられてはならない」
切り落とすような言葉だった。
簡潔すぎて、背景を知らない者には意図が掴めない。しかし、その裏には一切の迷いがなく、結論だけが静かに据えられている。
感情を削ぎ落とし、判断だけを残したような口調──それこそが、ソル・コルテスという先輩の話し方だ。
「うわあ、相変わらずだね」
場の空気を軽く揺らすように、間に割って入った声があった。
「ソル、それじゃカヅキに何にも伝わらないよ。あー……つまりね?」
そう言って、肩をすくめながら笑ったのは、ノーチェ・コルテスだ。
兄と瓜二つの顔立ちでありながら、表情は明るく、声には人懐っこい響きがある。立ち居振る舞いひとつで、場の温度を一段上げてしまうような、そんな人物だった。
あの当時の世代の学生にとって、『畏怖の対象』と呼ばれる存在は何人かいた。
だが、ノーチェ・コルテスはその中でも、少し異質だった。
スペイン出身のノリだからか脳天気に陽気な様子を見せるが、彼女自体はかなり思慮深い人物だ。いわゆる『頭の回転が早くて空気の読める』人物なのだろう。そんな彼女は兄のソルとは対象的に、その話しやすさで他の学生から好意の対象にされるような人物だった記憶がある。少なくとも自分とは正反対の人物だ。
「私達だけの暗号を作ろうって話。そういう遊びをしようって提案なんだよ、カヅキ」
ノーチェは軽やかに机へ身を乗り出し、紙切れを覗き込む。
兄が太陽なら、妹は夜──そう名付けられた理由を忘れさせるほど、彼女は快活だった。むしろ、名前を交換した方がしっくり来るのではないかと、誰もが一度は思うほどに。
「ほらさ、暗号って、そもそも選ぶためのものだし。分かる人だけ分かればいいって、ちょっとロマンあると思わない?」
指先で紙をつつきながら、楽しげに続ける。
「これとかさ。意味ありそうな顔してるのに、実は意味ないんだよ。だけど、分かる人には一発で本質がわかる──そういう感じになってると思うんだ」
香月は机に肘をつき、紙を一枚、静かに手に取った。
表情は相変わらず淡々としているが、その視線の奥には、わずかな興味の色が滲んでいる。
「三層、だな」
淡々とした声で、そう告げる。
「一層目は遊びだ。誰でも見られる。その代わり、フェイクの情報も多い」
紙の端を指でなぞりながら、続けた。
「二層目に必要なのは、魔術師としての基礎知識。しかも学院式は学院でしか使われない。現場じゃ各国が独自の解読方式を使うから、忘れちまう魔術師も多い。ここで大半が落とされる」
そこで一拍置き、香月は顔を上げた。
黙って話を聞いていたクレアと、ちょうど視線が交わる。
「三層目は……確認だ。あらかじめ決めておいた暗号表がなければ解けない構造にする。身元確認も兼ねるなら、使う素材は、かなり突飛なものの方がいい」
そう言って、香月は手にしていた一冊の本を、ソルとノーチェの前へと差し出した。
「──これとか、どうだ?」
夕暮れの光を受けて、その光沢のあるカバー表紙が静かに輝いた。
◆
──そして、現在。フォード邸、クレアの部屋。
クレアはスマートフォンの画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
夜景の写真。散りばめられた光点。意味深な文字列と数字列。これは、香月とコルテス兄妹が暗号遊びで三人の間で決めた法則と全く同じだ。構造が、あの時の物と酷似している。
『……シャルロット』
名前を呼ぶと、隣に座っていた彼女が顔を上げた。
「はい?」
『これ、学院時代の標準暗号に似てる。たぶん、カヅキがよく使ってたやつだよ』
シャルロットはスマートフォンを受け取り、画面を覗き込む。
最初は首をかしげていたが、やがて表情が引き締まった。
「……配置の癖が、学院式ですわ」
画面を拡大し、幾何学模様と数字の配置を指でなぞる。
「これは偶然ではありませんわ。表層は一般向けの悪戯のような謎かけ。でも内部はおそらく三層構造……」
クレアの胸が、どくりと鳴る。
「数字列の位置関係……。末尾の数字……これは多分大して意味がない……フェイクですわね。それにこれは鍵ではなく索引かしら……講義資料番号と実習課題番号を使ってた物と近いような……」
確信が、静かに形を持つ。
「……最後の三層目、がわからないですわね。学院式の標準コード表では解けませんわ」
シャルロットの言葉を聞きながら、クレアはコルテス兄妹としていた暗号遊びをしている、香月の横顔を思い出していた。
淡々としていて、それでも暗号を解くのを真剣に楽しんでいた目。
『……たぶん、コルテス兄妹に連絡を取ろうとしているんだよ』
「コルテス兄妹……ですの? あの、技師課の天才双子の……。魔術学院在学中に協会に新型の情報統制サーバーのシステムを提供したと名高い……暗号絡みなら名前が挙がってもおかしくない二人ですわね」
シャルロットはそう言ってから、もう一度スマートフォンの画面に目を落とした。
「ですが……それにしては、三層目が妙ですわ。どこか……魔術学院の資料では無さそうな……」
言葉が、そこで途切れる。
クレアは、ぎゅっと唇を噛んだ。
胸の奥に、はっきりとした違和感が形を持ち始めていた。
『……違う。学院の資料じゃない』
小さく、しかし確かな声だった。
シャルロットが顔を上げる。
「クレア?」
クレアはスマートフォンから目を離し、天井を見上げた。
夕暮れ色の旧図書棟。埃の匂い。木机の感触。
そして──香月が差し出した、あの本。
『三層目の鍵は……ボク、知ってる。いや、持ってる』
一瞬、空気が張り詰める。
「それは……?」
シャルロットの問いに、クレアは視線を落としたまま答えた。
『Hidden Leaf Story』
シャルロットが目を瞬かせる。
「ヒドゥン……? 何ですの、それは……」
『日本の漫画・葉隠忍法帖の海外版コミックス。翻訳が微妙で、擬音も独特で……でも、ボクが好きで』
指先が、無意識にシーツを掴んでいた。
『魔術学院にいた頃、寮に持ち込んでたんだ。カヅキに貸したこともある』
あの時。
香月はページをめくりながら、妙に真剣な顔をしていた。
『本来の暗号としての目的で使うならページ番号より、コマ割りの方が向いてるかもしれないな』
そんなことを、確か言っていた。
「……あ」
そこで何かに気付いて思わず口から直接吐息が漏れた。クレアは、そこで言葉を失った。
背筋を、冷たいものが走る。
『巻数……どれだっけ……』
シャルロットが、静かに促す。
「クレア?」
クレアは、はっとして首を振った。
『どの巻か……覚えてない』
喉が、ひどく乾いた。ゆっくりと、現実を確かめるように続ける。
『しかも……日本に行く時、名古屋のボクの家に持って行ったんだ。……それ、忘れてた』
シャルロットの表情が、凍りつく。
「まさか……」
『今ここには、無い』
はっきりと言い切った瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
──そうだ。今ここには無い。
鍵になるコミックスは、確実に日本にある。少なくとも香月がコルテス兄妹との暗号遊びの解読に使っていたのはクレア自身が寮に持ち込んでいた物だ。
だが、あの当時どの巻を香月が読んでいたかを覚えていない。第一部の少年期が終わって、第二部が始まるかもう少しあとだったか。それとも最終巻近くだったか。好きなアニメではあるものの、コミックスのどの巻数がどの内容かまではいちいち覚えてはいないし、魔術学院の領に居た頃でも翻訳コミックスの新刊が発売される度に買っては全巻揃えてた物だからだ。
つまり、全巻を買うしかない。発行出版社はイギリスのウィズ・メディアだ。それは間違いない。
──そう思った、次の瞬間。
クレアは、はっきりとした壁に突き当たった。
(深夜だ──)
時計を見なくても分かる。現在は0時頃だ。
この時間に、開いている書店は限られている。
ましてや、海外版コミックスなど、通常の棚に並ぶ類ではない。
ネット注文。
倉庫に直接交渉。
書店の配送サービス。
どの方法を使って手に入れるかも考えてみるが、どれも今すぐには届かない物だ。
魔術なら、どうにか出来るかもしれない。暗号なら、時間をかければ解けるかもしれない。
けれど──営業時間だけは、どうにもならない。
胸の奥で、焦りが形を持つ。
香月は、今もどこかで動いているかもしれない。あるいは、誰かに追われているかもしれない。
それなのに、自分は。
『夜が明けるのを待つしかないなんて──』
その結論が、何よりも重かった。
──静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。
こん、こん。
二人が同時に息を止めた、その直後。
「……失礼いたします」
静かに扉が開き、銀のトレイを手にしたメイド──オウカが姿を見せた。
湯気の立つティーポットと、白磁のカップが二つ。ほのかに、ラベンダーとカモミールの香りが部屋に広がる。
「睡眠前のお時間でしたので、ハーブティーをご用意いたしました」
いつも通りの、落ち着いた所作。
だが一歩踏み出したところで、彼女はふと動きを止めた。
視線が、クレアとシャルロット、そして開いたままのスマートフォンへと向く。
一瞬の沈黙の後、オウカは小さく頭を下げた。
「……クレア様。申し訳ありません」
その声は、わずかに硬い。
「立ち聴きするつもりは、ございませんでした。ただ……廊下まで、話が聞こえてしまいまして」
クレアの肩が、ぴくりと揺れた。
『オウカさん……』
オウカはトレイをそっとサイドテーブルに置き、改めて膝を折る。
「お叱りは、後ほどいくらでも受けます。ですが──」
顔を上げたその目は、使用人のものというより、長くフォード家に仕えてきた内部の人間のそれだった。
「お嬢様のお探しの物は必ずや──」
そこまで言いかけて、オウカは一度、言葉を切った。
深く息を吸い、そして、はっきりと続ける。
「必ずや、今夜のうちに見つけ出します」
断言だった。
躊躇も、迷いもない声音だった。
クレアは思わず顔を上げた。
『……こ、今夜? オウカさん、流石にそれは……』
「はい、問題ありません」
オウカは静かに頷く。
「フォード家の蔵書庫は、本邸と別棟に分かれております。データベースには国内外の出版物、魔術関連資料、旧版・絶版書籍も含め、把握はしております」
淡々とした口調だが、その裏には、長年積み重ねてきた管理の自負がにじんでいた。
「海外翻訳版の漫画──葉隠忍法帖。お嬢様が所蔵されていた物と同一でなくとも、同版・同刷の物を特定することは可能です」
シャルロットが、わずかに目を見開く。
「……全巻、ですの?」
「はい」
迷いなく、オウカは言い切った。
「巻数が特定できていない以上、候補を絞ることは出来ません。であれば、フォードのメイド達の力を結集して全てを揃え、検証するまでです」
それは効率ではなく、責務の論理だった。
「フォード家の名において、お嬢様がお探しの物を曖昧なまま放置することは出来ません」
クレアの胸が、きゅっと締め付けられる。
『オウカさん……そんな、無理を……』
「無理ではございません」
オウカは静かに首を振った。
「これは、務めです」
短い言葉だったが、それ以上の説明は不要だった。
彼女にとって、クレアの『探している物』は、単なる漫画ではない。
──フォード家の当主の末娘が必要としている鍵。
それだけで、動く理由としては十分だった。
一瞬、室内に緊張が満ちる。
だが、その空気を切り裂くように、シャルロットが口を開いた。
「……少し、よろしいですかしら?」
二人の視線が、彼女へと向く。
シャルロットは顎に指を当て、思案するように首を傾げた。
「その……前提を一つ、確認したいのですけれど」
言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。
「暗号の解読に必要なのは、海外翻訳版の『葉隠忍法帖』──それ自体、ですの?」
『……うん、そうだよ』
「でしたら」
シャルロットは、ごく自然な調子で言った。
「電子書籍では、駄目ですの?」
その一言で、場の空気が微妙に揺れた。
オウカが、わずかに眉を動かす。
クレアは、思わず言葉に詰まった。
『あ……』
「合理的なお話ですわ」
シャルロットは慌てる様子もなく、続ける。
「海外版コミックスであれば、電子配信されている可能性が高いですし、この時間でも即座に入手出来ます」
指先でスマートフォンを軽く示す。
「全巻を紙で探すより、電子で確認して、必要な巻数を特定してから動いた方が、時間的には──」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。
クレアの表情が、はっきりと曇ったのを見たからだ。
『……ダメ、かもしれない』
小さな声だったが、迷いはなかった。
シャルロットが、そっと問い返す。
「理由は……?」
クレアは視線を落とし、しばらく考え込む。
理屈として説明しきれない。
けれど──感覚が、強く拒んでいた。
『ページが……合わない可能性がある』
「ページ?」
『電子だと、表示が変わる可能性があるんだ。下手すればイギリスのウィズメディアが発行してないかもしれない。そうしたら、翻訳だって変わってくる可能性がある……』
脳裏に浮かぶのは、香月の横顔だった。
ページをめくりながら、何かを測るような視線。
『カヅキ、言ってたんだ。『本来の暗号としての目的で使うならページ番号より、コマ割りの方が向いてるかもしれない』って』
シャルロットの瞳が、わずかに見開かれる。
「……なるほど」
オウカが、そこで静かに口を挟んだ。
「それでは、私が日本に飛んでお嬢様の部屋に──」
そこまで言いかけて、オウカは言葉を切った。
わずかに視線を伏せ、思案するような間。
その仕草は、衝動ではなく、段取りを再構築している人間のものだった。
「……いえ」
静かに、しかしはっきりと否定する。
「その前に、確認すべきことがございます」
クレアが顔を上げる。
『確認……?』
「はい。現地の状況です」
オウカはトレイから一歩離れ、控えめに手を胸元で組んだ。
「お嬢様の名古屋のお部屋は、現在どなたが管理を?」
『……協会経由で、日本中部支部が最低限の保全をしてるはず。責任者は……』
言いかけて、クレアははっとする。
『ジェイムズのおじ様……』
その名前が出た瞬間、空気が一段引き締まった。
日本中部支部長であり、父であるリーヴァイの伝がある人物である事から、今回の香月の捜索の任務にあたって部屋の管理を任せてきたのだ。
オウカが、わずかに頷く。
「でしたら、まずはそちらに確認を取るのが筋かと存じます」
余計な推測を挟まず、事実から詰める。
フォード家に長く仕える者らしい判断だった。
クレアは一瞬、躊躇したが、すぐにスマートフォンを手に取った。
『……うん。そうだね』
通話アプリを開き、登録済みの連絡先を選ぶ。
深夜だということは分かっている。
だが──状況を考えれば、躊躇している余裕はなかった。
数回のコール音が鳴った後、通話が繋がった。
『──はい、こちらジェイムズだ』
予想よりも早く、落ち着いた声が返ってくる。
起こされた様子はない。最初から、起きていたのだろう。
『ジェイムズのおじさま、そっちは朝だよね? 朝早くにごめんなさい。クレアです』
『構わない。こちらも、少し気になっていたところだ。順調か?』
『順調かはまだわからない。でも、カヅキの足取りを掴めるかもしれないんだ。それでおじ様にお願いがあって──ひとつ、確認してほしいことがあるんだ』
クレアは深く息を吸い、通話口に言葉を落とした。
『名古屋の私の部屋。英国から持ち込んだ海外翻訳版の漫画があるの……覚えてる?』
『ああ、結構な数揃ってたな』
即答ではあるが、そこに「今見ている」感じはない。
『君が英国にいる頃に集めていた物だな』
『その中に、欠けている巻がないか調べてほしい』
一拍。
『……今すぐには分からないぞ』
ジェイムズは率直に言った。
『鍵は預かっているが、部屋までは少し距離がある。確認に行く必要がある』
『ごめん。急ぎで』
『構わない』
短い沈黙の後。
『だが、少し時間をくれ。正確に確認する』
通話は一旦、そこで切れた。




