第五十三話 幻獣
「旦那様。もう終わりにしませんか? 知っているとは思いますがクローンの作成は犯罪です。あなたは危険な橋を渡っているのです」
「……」
無言。懊悩故か。以前よりも私の言葉は響いている。
「このままではあなたも、あなたの家族も傷つくだけです」
「まだだ。完全なクローンさえ完成すれば……」
「いいえ。それが間違いです」
「何だと?」
「坊ちゃまがシュトートから教えていただいたことですが、クローンとは誰かと全く同じ個体、というわけではありません」
地球でもたまに勘違いしている人がいるらしいが、そもそもクローン技術とは人為的に双子を作り出すようなものだ。双子でも性格が全く違う人は珍しくもない。
「シュトートから授けられる知識は寓意的だと教わりました。旦那様はクローンを記憶、体力などが完全に同一の個体と思い込んでいるのではないですか? ですがそれはおかしいはずです。勇者の遺産の効力はホムンクルスの製造の高速化、能力の向上が限界でしょう」
「それは……いや、違う。勇者の遺産が本領を発揮すれば話は別だ。お前のように知能の高いホムンクルスや、雫のように運動能力の高いホムンクルスが作成されることもある。これは、何らかの方法で記憶が受け継がれたはずなのだ。完全なクローンの作成は夢物語では……」
「無理です。坊ちゃま曰くクローンは同じ形質を持った個体を作り出すこと。例えば株分けした草花は同じ個体です。ですが土によって育ちはもちろん花の色が違うことさえあるのです」
シュトートから与えられる知識は曖昧だ。だからこそ契約者によって曲解してしまうことがあるらしい。
旦那様は唇をかみしめる。ここまでくれば駄々をこねる子供と変わらない。頭ではわかっているはずなのだ。
「ましてや、複雑な動物が環境の影響を受けないはずはありません。犬や猫だって同じ母から全く違う毛並みの子供が産まれてくることもあるでしょう?」
実際に猫のクローンは毛の色が違うらしく、それを踏まえての発言だ。
だが、旦那様は明らかに態度を豹変させた。
「猫、だと」
どす黒い悪意がにじみ出た声に驚く。
「え、ええ。それが何か?」
「猫は、そんなに毛が色々あるのか?」
「そうですが……」
私としては何が何だかわからない。何故そんなことを気にするのか。
「それは誰から聞いた」
「それは、ただの一般論ですが……」
「そうか。知らなかったよ。猫はそうなのか。誰も知らないだろうな」
「……はい?」
いや、普通知っているだろう。猫が……猫……ね……こ。
(あれ? もしかして私、この世界に来てから一度も、猫を見てない?)
野良犬について話したことはあった。そもそもポチがいる。犬はいる。熊の姿をしたグリズリーもいる。豚や羊の肉を食べたことはある。
でも、猫の異種族やネコ科動物、果ては招き猫のような置物でさえ見たことはない。それにアイシェさんや旦那様が猫という言葉を聞いて何度か妙な反応をしたことがあった。
(まさか、この世界には……)
「猫とは異世界地球に住まう伝説の幻獣。何故貴様がそれを知っている⁉」
(猫がいない⁉)
愕然とする。確かに地球にいる生物がこの世界にいるとは限らない。だがしかし、地球の知識持ち込み禁止はどうなったのだろうか。
いや、私は神様が私を監視して失言しそうになるとそれを止めるようなものだと思っていた。だが、実際は催眠術のようなもので私が地球の知識を喋りそうになると止める仕組みなのだとしたら?
私が当然のようにあると思っているものは……しゃべってしまうのかもしれない。
やってしまった。
旦那様は私に親の……いや妻の仇を見るような視線を浴びせている。これでは交渉も説得も無意味だ。
私はたまに、あと一歩ですべてが上手くいくときに限って大ドジをしてしまう。
ああでも。むしろ。こうなることを望んでいたのかもしれない。
旦那様とは対照的ににっこりと微笑んで目を合わせる。
「実は私、日本からの転生者なんです」
「そうか。死ね」
旦那様は人間とは思えないほど力強く地面を踏みしめ轟音と共に拳を繰り出した。




