第五十四話 外道
剛腕がうなる。
拳の風圧で花びらが舞う様子はいっそ幻想的に見えた。直撃していれば肉と血の塊になっていただろう。
焦りながら旦那様と距離を取る。
(躱した? いや、外した?)
こんな時でも冷静なふりをして声をかける。
「ずいぶんとお怒りのようですね」
「当然だ。お前が日本人だというだけでお前を殺す理由はいくらでもある」
鬼神の如き形相の旦那様は一歩ずつ近づいてくる。もちろん逃げ一択。
もともといた森へひた走る。だがひとっ飛びで私に追いついた旦那様は拳を振り下ろした。何とか躱したが、その威力は地面をえぐるほどだった。
ただし反動で旦那様の指は奇妙な方向に折れ曲がっていた。しかし次の瞬間には巻き戻しでもされたように傷は完治していた。
白魔法じゃこんな真似はできない。
「それも勇者の遺産の効果ですか?」
「そうだ。恐らくこれが本来の使い方なのだろうな。あれに触れたものの体を強力にし、治癒力を異常に増大させる。だが、驚いていないようだな」
「ええ。だって旦那様は一度雫に殺されていますから」
雫から聞き出したことの一つ。旦那様に襲われた際、反撃によって明らかに重傷を負わせたが、すぐに立ち上がったらしい。どうやら自分の知らない魔法によって再生したと思ったらしい。が、重傷を一瞬で治癒する魔法は存在しないということを雫は知らなかった。
「あそこまで獰猛だとは思わなかった」
全くだ。かわいい顔をしているくせに獣のような凶暴性を秘めている。ま、流石の雫でもこんな化け物相手では太刀打ちできないだろう。
「よろしいのですか? 旦那様の体調が思わしくないのはそれの使い過ぎが原因では?」
「関係ない。お前を殺せるなら今ここで死んでも構わん」
随分と恨まれたものだ。
「日本人が嫌いなのですか? 一体どうしてそこまで日本人を恨むのです?」
「……奴らはこの国の文化をないがしろにし、自分たちの文化を押し付けた」
「おやあ? あなたはもっと、個人的な事情で日本人を、勇者を憎んでいるのでは?」
「黙れ」
「あなたが勇者を憎む本当の理由。国を侵された? 文化を穢された? いいえ。違いますよね。そんなものは些細な問題でしかありません。本当は——」
「黙れ!」
私の言葉を遮るように疾駆する。剛腕によって抉られた木屑が私の頬を掠めて小さな傷をつけた。しかし言葉は止めない。
「本当は。藤太様の父親は勇者なのでしょう?」
私の口から告げられた真実に対して迷子の子供のように顔をゆがめていた。
「貴様……何故それを……いや、オーマーか?」
「正解です。あの方に教えていただきました」
オーマー様から教えていただいた真実は衝撃的だった。この国が安定するに伴って、勇者はその本性を見せ始めた。
身分の高い娘の肉体を求めたのだ。一人や二人ではない。少なくとも公然の秘密として知れ渡る程度には派手に遊んでいたらしい。ひどいことに他人の伴侶にさえ手を出していた。その結果生まれたのが藤太様や菜月様の弟だ。
その人たちの類縁は当然、勇者に対して途轍もない恨みがあるのだろう。
……この国は不倫に厳しく、夫婦仲睦まじく、という生活を理想とする。同時に男は女を守れるほど強くあることを渇望する。そんな価値観を持つ国民にとって伴侶を譲り渡すことがどれほどの苦痛なのか。
例えば、菜月様のお父様は妻を許すことができなかった。それが何の責任もなく、理不尽な怒りだとわかっていても勇者と体を重ねた妻、そして彼女から生まれた子供たちに怒りを抱いてしまった。
運がよかったのか、オーマー様の奥様は子供を身籠らなかったらしい。
そして旦那様はストレスのあまり勃起不全を発症してしまった。
「一体どんな気分なんでしょうね? 伴侶を守れず、ただ指をくわえて見ていることしかできないなんて」
唇を吊り上げて、悪魔のように囁く。
「屈辱だ」
旦那様に表情はなかった。いったい何度その言葉を繰り返したのか。擦り切れて感情は見えなくなっていた。
「一生の後悔だ。だが、だからこそ! 私は彼女を取り戻す! 他の何を犠牲にしても! 自分自身がいなくなったとしても!」
足を踏みしめる旦那様にはいかなる障害に屈さない強さがあった。
ああ。この人も。見ていて愉しい。幾度もの絶望を、苦痛を、乗り越えてきたのだろうか? だからこそ、もう止まれない。道が誤っているのだとしても。




