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私を包み込んでいた冷たい空気と絶望の闇が、カッシア様の手を通して流れ込んでくる深紫の魔力によって、嘘のように溶けていくのを感じた。
「さあ、目を閉じて、ヴァレリアーナ。少しだけ浮遊感があるが、恐れることはない」
カッシア様のベルベットのように滑らかで落ち着いた声に従い、私は静かに瞼を下ろした。直後、足元の重力がふわりと消失し、空間そのものがぐにゃりと歪むような奇妙な感覚に包まれた。耳元を風が通り抜ける音すらなく、ただ、カッシア様の纏う甘く高貴な香りと、圧倒的な安心感だけが私を支えている。
「もう目を開けていいぞ」
促されてゆっくりと目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、言葉を失うほどの絶景だった。
眼下には果てしなく広がる純白の雲海。そして頭上には、手が届きそうなほど近くで瞬く満天の星々。私たちが立っていたのは、見上げるだけでも首が痛くなるような巨木であった『精霊樹』の、遥か雲の上に突き出た真の頂——『星降る天冠』と呼ばれる、伝説にのみ名を残す最上層の聖域だった。
そこには、滑らかな白亜の大理石で造られた壮麗な神殿が建っていた。神殿の柱には銀糸のような魔力の脈動が這い、周囲には季節を問わず咲き誇る幻の夜光花が、淡い光を放って咲き乱れている。
「ここは……」
「私の私宮だ。精霊樹の守護者として、この頂を管理している。平民はもちろん、王族であっても神の許可なくして立ち入ることはできない場所だ」
カッシア様は事もなげにそう言うと、震える私をふわりと横抱きにした。
「あ、カッシア様! 私、歩けます! それに、こんな薄汚れた姿で、カッシア様のお召し物を汚してしまいます……!」
十ヶ月間、まともな食事もとれず、魔力欠乏で倒れるようにして祭壇に通い詰めていた私の服は、擦り切れ、泥と埃にまみれていた。こんな美しい神殿に、ましてや王国最高位の御方の腕の中に収まっていいような状態ではない。
しかしカッシア様は、私の懇願を全く気にする素振りを見せなかった。
「お前のどこが薄汚れているというのだ? 私の目には、世界中のどんな宝石よりも純粋で美しく映る魂だ。それに、お前のその体は、自分自身が思っている以上に限界を迎えている。強がりはよせ」
そう言って私を胸に抱いたまま、カッシア様は優雅な足取りで神殿の奥へと進んでいく。彼女の腕の中は信じられないほど暖かく、強張っていた私の筋肉がゆっくりと解れていくのが分かった。
通されたのは、王城の謁見室よりも広いのではないかと思える豪奢な寝室だった。
部屋の中央には、天蓋付きの巨大なベッドが据えられ、床には足が沈み込むほどの深い毛並みを持つ絨毯が敷き詰められている。
カッシア様は私を、部屋の奥にある広い浴室へと連れて行った。そこには、絶え間なく魔力を含んだ温かい湯が湧き出る大理石の浴槽があった。湯からは、心を落ち着かせるハーブと花の香りが漂っている。
「まずは、その身に刻まれた十ヶ月の疲労を洗い流そう。私が手伝ってやる」
「えっ!? い、いえ、そんな、私一人で……!」
「遠慮は無用だ。これから誓約を結び、一生を共にする伴侶となるのだ。互いの体を隅々まで知ることは、決して早すぎるということはないだろう?」
紫水晶のような瞳が、悪戯っぽく、しかし情熱的な光を帯びて細められた。その魅惑的な笑みに射竦められ、私は抵抗する言葉を完全に失ってしまった。
カッシア様の手によってボロボロの衣服が剥ぎ取られ、温かい湯の中に沈められる。彼女の細く美しい指先が、魔力を帯びた香油をたっぷりと含み、私の背中から肩、そして腕へと滑っていく。
それは単なる湯浴みではなく、一種の魔法の儀式のようだった。彼女の手が触れるたび、肌から直接、極上の魔力が染み込んでくるのだ。
「あ……んっ……」
「気持ちいいか? お前の魔力は、あの愚かなファウスティーナによって無理やり吸い上げられ、ひどく乾燥し、傷ついている。こうして外部から上質な魔力をゆっくりと浸透させ、癒やしてやらねばならない」
カッシア様の指が、背骨に沿ってゆっくりと下へと滑るたび、私の体は甘い痺れに襲われ、思わず吐息が漏れた。
私自身の『起源の魔力』は、あまりに強力ゆえに、私自身の未熟な体では完全に制御しきれていなかったのだと、カッシア様は教えてくれた。ファウスティーナは、その溢れ出す魔力を、ただ自分の魔力を潤すための『使い捨ての燃料』として貪っていたのだと。
「彼女は……ファウスティーナは、私の魔力が無色だから、価値がないと……」
湯の温かさと心地よさに包まれながら、私はポツリとこぼした。まだ、心のどこかに棘のように刺さっている言葉だった。
カッシア様の指の動きがピタリと止まり、彼女の顔が私の肩越しに近づいた。耳元に、熱い吐息がかかる。
「無色透明。それはすなわち、いかなる属性にも染まることができ、同時にすべての属性を内包する『光』そのものだ。赤や青、黄金といった単一の色にしか染まれない低俗な魔力とは、次元が違うのだよ。あのアホな騎士は、強すぎる光を前にして目が眩み、それを『無』だと錯覚しただけのこと」
カッシア様は私の耳たぶに軽く唇を落とし、優しく囁いた。
「お前は価値がないどころか、この世界で最も尊い魔力の持ち主だ。ヴァレリアーナ。ガイアード様に仕える私の言葉だけを信じろ。私が、お前の価値を世界に証明してやる」
その言葉に、私の目から再び涙が溢れた。だが、それは先程までの絶望の涙とは違う。私の存在そのものを肯定し、深く包み込んでくれる彼女への、圧倒的な感謝と安堵の涙だった。
湯浴みを終えた後、カッシア様は私に、星屑を散りばめたような夜空色の美しい絹のドレスを着せてくれた。
私の銀色の髪は香油で艶やかに梳かれ、鏡に映る自分の姿は、まるで別人のように生き生きとしていた。十ヶ月間の疲労で落ち窪んでいた頬には赤みが戻り、瞳には光が宿っている。
続いて用意されたのは、見事な食事だった。
精霊樹の果実を使った琥珀色のスープ、とろけるような肉料理、そして魔力を回復させるという甘い蜜の菓子。ファウスティーナの魔力回復薬を買うために、ひび割れた黒パンと水だけで食いつないでいた私にとって、それは夢のようなご馳走だった。
「ゆっくり食べるがいい。お前が望むものは、これから何でも私が与えよう」
向かいの席で、カッシア様は銀のゴブレットを傾けながら、心底愛おしそうな目で私を見つめていた。その視線だけで、お腹がいっぱいになりそうなほど胸が満たされていく。
十分な食事と休息を取り、私の体内にカッシア様から与えられた魔力が隅々まで行き渡った頃。
夜の静寂がさらに深まる中、カッシア様は私の手を取り、神殿の最奥にある『星降る天冠』の中心部へと導いた。




