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「……愚かな女だ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
それは、夜の闇よりも深く、それでいて恐ろしいほどに澄み切った、不思議な響きを持つ声だった。
驚いて顔を上げると、いつの間にか私の目の前に一人の女性が立っていた。
息を呑むほどの美しさだった。夜空をそのまま切り取ったかのような、星屑を散りばめた漆黒の長い髪。深い紫水晶のような瞳。身に纏っているのは、王族か、それに連なる高位の神官しか着ることを許されない、純白に銀糸の刺繍が施された神聖衣だ。
彼女の周囲には、圧倒的なまでの魔力が、まるで目に見えるオーラのように立ち昇っていた。私のような平民でも分かる。この人は、桁違いの力を持つ、雲の上の存在だ。
「あ、あなたは……」
「私はカッシア。この精霊樹の守護者であり、王国魔導院の筆頭を預かる者だ」
カッシアと名乗ったその女性は、冷たい床に這いつくばる私を見下ろし、そして、私が抱きしめている黒い石へと視線を移した。
「その結晶が死んだのは、そなたの魔力が貧弱だったからではないぞ」
「……え?」
「逆だ。お前の魔力が、あまりにも純粋で、あまりにも強大すぎたからだ。そして、先ほどのファウスティーナという娘の魔力が、お前の圧倒的な魔力密度に耐えきれず、自ら崩壊してパスを切り離したに過ぎない」
カッシアの言葉に、私は呆然とした。
私の魔力が、強大すぎる?
無色透明で、誰からも見向きもされない、無価値な魔力だと言われ続けてきたのに?
カッシアは静かにしゃがみ込み、私の手から黒い石をそっと受け取った。彼女の指先が触れた瞬間、私の中に残っていた僅かな魔力が、彼女の強大な魔力と共鳴し、心地よい温かさとなって全身を駆け巡った。それは、十ヶ月間ファウスティーナに魔力を吸い取られ続け、冷え切っていた私の体を、優しく癒していくような感覚だった。
「無知とは罪なことだ。無色透明の魔力……それは『無』ではない。すべてに属する魔力を完全に内包し、いかなる色にも染まらない、究極の『起源の魔力』だ。数百年ぶりの発現という大歓喜の奇跡を前にしながら、あの騎士も、けばけばしい貴族の娘も、なに一つ見分けられないとはな。この国も落ちぶれたものだ」
カッシアは紫水晶の瞳を細め、ひどく冷酷な、しかし私にはなぜか心地よく感じる笑みを浮かべた。
「あのファウスティーナという女は、己が優秀だと勘違いしているようだが、この十ヶ月間、自身の魔力がお前の『起源の魔力』によって強制的に補完され、覚醒されていたことにすら気づいていないのだろう。お前という圧倒的な魔力供給源を失った今、あやつが他の者と魔力を繋げばどうなるか……魔力が暴走し、二度と魔法が使えない体になるやも。ガイアードのみぞ知る調だな」
「……え……?」
「当然の報いだ。神の授けし生命を泥の中に捨てた愚か者には、それに相応しい破滅が待っている」
カッシアは黒い石を祭壇に戻すと、今度は私の両頬をその美しく細い両手で包み込んだ。彼女の顔が近づき、甘く高貴なラズベリーの香りが鼻腔をくすぐる。
紫水晶の瞳が、私を射抜くように真っ直ぐに見つめていた。
「名は何と言う?」
「……ヴァレリアーナ、です」
「そうか。ヴァレリアーナ。お前のその美しく強大な魂を、あのような下劣な者たちのためにすり減らす必要はもうない」
カッシアの親指が、私の目尻に浮かんでいた涙を優しく拭い去った。その手つきは、彼女の冷徹な雰囲気とは裏腹に、とても温かく、慈愛に満ちていた。
「私と誓約を結べ、ヴァレリアーナ」
「……えっ!?」
あまりの唐突な言葉に、私は言葉を失った。
王国の頂点に立つ筆頭魔導神官であるカッシア様が、私のような平民の娘と?
ありえない。そんなことは、お伽噺でも起こり得ない。
「戸惑うのも無理はない。だが、私は本気だ。私は長い間、この王国の腐敗した貴族たちや、力ばかりを誇示する愚か者たちに辟易していた。真に純粋で、世界を包み込むような魔力を持つ伴侶を、ずっと探していたのだ。お前がこの十ヶ月、身を削ってまであの結晶に魔力を注ぎ続けていた姿を、私はこの精霊樹の玉座からずっと見ていた」
カッシア様はずっと、私を見ていてくれたというの?
ファウスティーナすら見向きもしなかった、私の孤独な戦いを?
「お前のその献身、その無償の愛、そして起源たる魔力。そのすべてが、私の魂を強く揺さぶったのだ。私ならば、お前を決して裏切らない。お前のその溢れるような魔力をすべて受け止め、誰よりも幸せにしてみせよう。お前を不当に扱った者たちには、地獄のような後悔を与えてやることも約束しよう」
カッシア様はそう言うと、私の手を取り、その甲にゆっくりと、誓いのキスを落とした。
ぞくりとするような甘い魔力が、接触した皮膚から私の心の奥底まで流れ込んでくる。これまで感じたことのないほどの安心感と、熱い感情が胸に込み上げてきた。
ファウスティーナとの誓約は、常に私がすり減るばかりの、一方的なものだった。
だが、カッシア様から流れ込んでくる魔力は、私を包み込み、私を肯定し、私に力を与えてくれる。
「……私なんかで、本当にいいのですか?」
震える声で問いかけると、カッシア様はふわりと、これまでで一番美しい微笑みを浮かべた。
「そなたがいいのだ、ヴァレリアーナ。さあ、私と共に、この精霊樹の頂で、真の『命の結晶』を咲かせに行こう」
私は、差し出されたその白く美しい手を取った。カッシア様の手は、とても丁寧に手入れされた、短く美しい清潔な切り揃えられた爪をしていた。そして、スッと伸びた細い指に触れられたときの滑らかさに、私の心は揺れ動いた。
十ヶ月間の苦しみと絶望が、嘘のように霧散していく。
私を嘲笑い、踏みにじって去っていったファウスティーナとトゥッリア。彼女たちが今後どのような悲惨な運命を辿るのか、この時の私にはまだ知る由もなかった。
ただ一つ分かっていたのは、私の本当の人生と、真実の愛が、今この瞬間から始まるということだけだった。




