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そして、
遠くで誰かの声がする。
「……体温、少し上がってきたわ」
「脈は安定してる」
「もう少しで……」
現実の声が、
夢の底にゆっくりと滲み込んでくる。
薫はまだ目を開けない。
けれど、
夢の中で握った“あの手の温もり”だけが、
かすかに残っていた。
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医務官のいない、ほんの短い隙
医務室の照明は、
昼間でもどこか淡くて、
静かな呼吸の音だけが漂っていた。
医務官は、
必要な器具を取りに別の部屋へ行ったところだった。
ほんの数分のこと。
けれど、その短い時間が、
研究所の空気をそっと変える。
医務官の背中が見えなくなった瞬間、
小さく息を吸った。
「……今のうちに」
誰に言うでもなく、
自分に言い聞かせるように。
キム・ジンは女性の担架をそっと押し、
医務室の奥にある、
白い扉の前へと運んでいく。
扉には、
“無菌室”
とだけ書かれていた。
普段は、
アンドロイドの精密部品や、
脳神経接続装置の調整に使われる場所。
外の人間が入ることなど、
本来はあり得ない。
でも、 キム・ジンは迷わなかった。
「……ここなら、誰にも邪魔されない」
その声は、
どこか震えていて、
どこか決意めいていた。
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無菌室の白い光
扉が開くと、
白い光がふわっと溢れ出した。
空気は乾いていて、
どこか無音に近い静けさがある。
キム・ジンは女性をそっとベッドに移し、毛布をかける。
彼女の呼吸はまだ浅く、
夢の中を漂っているようだった。
「……大丈夫。
すぐに医務官が戻る。
それまで、ここで休んでいて」
まるで、
眠る子どもに話しかけるような声だった。
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そのとき、廊下の向こうから足音
軽い足音が近づいてくる。
医務官ではない。
もっと軽くて、
もっとリズムが崩れている。
扉が開き、
マイケルが顔を覗かせた。
「……あれ?
ここ、何してるの……?」
紙袋を片手に、
二日酔いの薬を飲んだばかりの顔。
でも、
無菌室のベッドに横たわる女性を見た瞬間、
彼の表情がふわっと変わった。
驚きとも、
興味とも、
それとも“何かを思い出したような”影が、
ほんの一瞬だけ瞳に浮かぶ。
「……外の人……?
どうして……ここに……?」
キム・ジンは、
言葉を探すように口を開いた。
「医務官がいなくて……
このままでは危険だと思って……
ひとまず、ここに……」
マイケルはゆっくりと頷いた。
「……ふうん……
そうなんだ……」
その声は、
どこか遠くて、
どこか柔らかくて、
でも奥の方で何かが動き始めているようだった。
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無菌室の白い光の中で、
薫はまだ夢の底に沈んでいる。
外の世界で握った“ホワイトナイトの手”の温もりだけが、
かすかに残っている。
研究所の空気は、
静かに、静かに揺れ始めていた。
まるで、
誰も知らない物語の中心へ、
ゆっくりと吸い寄せられていくように。
薫が静かに眠る無菌室は、
どこか時間が止まったような静けさに包まれていた。
マイケルは、
二日酔いの薬の紙袋を手にしたまま、
ぼんやりと女性を見つめていた。
その横で、
彼女をここまで運んだキム・ジンが、
そっとマイケルの肩をつつく。
「……マイケルさん」
声は小さく、
でもどこか落ち着かない響きがあった。
マイケルはゆっくり振り向く。
「ん……なに……?」
キム・ジンは、
少しだけ周囲を気にしながら、
声をさらに落とした。
「……身元、知りたくないですか。
PCに接続してみませんか」
その声は、
まるで軽い提案のようでいて、
どこか奥にざらりとしたものを含んでいた。
マイケルは、
女性の眠るベッドをしばらく見つめていた。
白い光が彼女の頬を淡く照らし、
呼吸は静かで、
夢の底に沈んでいるようだった。
キム・ジンは、
マイケルの返事を待つように、
少し身を乗り出す。
「……どうです?
ちょっとだけなら……」
マイケルは、少しだけ考える。
規則。
倫理。
研究所のルール。
でも、そのどれもが、
この瞬間には少しだけ遠い。
目の前にあるのは――
“未知”
しかしマイケルは、
何も言わなかった。
ただ、
紙袋を握りしめた手をゆっくり下ろし、
視線を女性から外し、
そのまま無菌室の扉へ向かって歩き出した。
足音は軽く、
でもどこか遠い。
扉の前で一度だけ立ち止まり、
振り返ることもなく、
静かに言葉を落とす。
「……見なかったことにするよ」
それだけ。
その声は、
拒絶でもなく、
同意でもなく、
ただ“境界線を引いた”ような響きだった。
そしてマイケルは、
ふわっとした足取りで廊下へ消えていった。
キム・ジンは、
ぽつんと取り残されたように立ち尽くし、
無菌室の白い光の中で、
女性の寝息だけが静かに続いていた。
無菌室の白い光の中で、静かに始まる準備
マイケルが去っていったあと、
無菌室にはキム・ジンと、眠る女性だけが残った。
扉が閉まる音が、
やけに遠くに聞こえる。
キム・ジンは、
しばらくその扉を見つめていたけれど、
やがて小さく息を吐き、
静かに動き出した。
まるで、
誰にも聞こえない音楽に合わせているような、
そんな滑らかな動き。
機材を運び込む
無菌室の隅に置かれたワゴンを押し、
必要な機材を次々と並べていく。
- 脳波スキャナ
- 身元照合モニター
- 多層解析ユニット
- 音声出力用のマルチスピーカー
どれも研究所の奥でしか使われない、
“特別な用途”の機材ばかり。
それなのに、
キム・ジンの手つきは慣れていて、
迷いがない。
まるで、
これを何度も繰り返してきたかのように。
モニターが次々と光り始める
電源を入れると、
複数のモニターがふわっと明るくなり、
数値が流れ始めた。
脳波の揺れ。
体温の変化。
神経反応の微細な波。
そして、
身元照合のための複数のアルゴリズムが、
静かに走り出す。
画面はまだ“答え”を出していない。
ただ、
女性の存在を読み取ろうと、
淡い光を瞬かせている。
音声出力の準備
キム・ジンは、
マルチスピーカーを女性の枕元にそっと置いた。
「……もし、何か聞こえるなら」
彼はそう呟き、
自分用のオーバーヘッドホンを装着する。
耳を覆う柔らかなクッションが、
外の音をすべて遮断し、
機材の微かなノイズだけが響く。
その音は、
まるで深海の泡のように静かで、
どこか不思議なリズムを持っていた。
ワゴンの上に置かれた“人工皮膚の両手”
ワゴンの端には、
人工皮膚で覆われた両手が置かれていた。
人間の手にそっくりで、
温度まで再現されている。
本来は、
アンドロイドの触覚テストに使うもの。
けれど、
今はただ静かにそこにあり、
無菌室の白い光を受けて、
どこか生きているようにも見えた。
キム・ジンはその手を一瞥し、
何も言わずに視線を戻す。




