屋根の上のお話
小さなベビーベッドの中には、白い柔らかそうな服に包まれたふくふくした赤ん坊が寝ている。その寝顔を覗き込んでいたヒルデガルトは、目をキラキラとさせて「はぁぁぁ……ッ」と感嘆の声を小さく上げた。
「ルーカス」
小さく優しく弟の名前を呼ぶ。姉の声など聞こえてもいない赤ん坊はすやすやとよく眠っている。ヒルデガルトがうずうずしてそのふっくらとした頬をつつくと、眠りながらも小さな口をはくはくと動かした。その様子に覗き込んでいた女三人、ヒルデガルトとクラウディアとゲルトルートは何かを噛みしめながら相好を崩す
「お、お母様、小さい、小さいですわ、こんな、こんなに小さいんですの? 見てくださいこの小さな手! 小さいのに爪がついて! かわい、可愛いぃ……!」
「貴方もこんな感じだったのよ」
ふふっと笑う母クラウディアは少しやつれていたが、声に張りがある。カールが言うには日ごと元気を取り戻しているとの事だが、久しぶりに会うヒルデガルトとしては心配だ。
「お母様、大丈夫ですか?」
「ディディ、無理はするなよ」
ゲルトルートがどこからともなく椅子を出現させれば、クラウディアは「ありがとうございます」と座ってふぅと息をついた。
「お手紙では私の時とは違って楽だと仰ってましたのに」
もうすぐ出産だという手紙が来て、それでは見守ろうとゲルトルートがジレアウト領に出向いてから連絡がぱたりと途絶えた。ゲルトルートは魔法で手紙よりも早く連絡をすることが出来るのにも関わらず。
一体何が起こったのかとやきもきしていれば、ぐったりした様子のゲルトルートが現れて「何とか生まれた……男だ……ディディは、無事、とは言えんが無事だ……駄目だ寝かせてくれ」とだけ言ってヒルデガルトのベッドを占領して熟睡してしまったのだ。
混乱したのはヒルデガルトと王宮である。
何とか生まれたとはどういう事なのか、五体満足なのか、母は、ジレアウト侯爵夫人の無事とは言えないが無事とは何なのか。命の別状はないという事なのか。それは一時的なものなのかどうなのか。気になる事ばかり言い残してぐっすり眠るゲルトルートをヒルデガルトは涙目で「お師様! 起きて!! お母様に何があったの?! ねぇ!!」と揺さぶったが、ゲルトルートは一切起きなかった。
たっぷり寝たゲルトルートが「あ~、良く寝たぁ」と起きた時、涙をためたヒルデガルトとヒルデガルトを守るように寄り添っている子供達と話を聞くために待ち構えていた役人が一斉に問いただしたのだった。
「楽だったわよ。ヒルデガルトの時にはつわりがもう酷くて酷くて。二度と妊娠してやるものかと思ったけれど、生まれる時は痛みが来てすぐにポーンと生まれてしまったからとても楽だったのよ。それなのにルーカスはつわりが一切なかった代わりなのか、痛みが来てからもう全然生まれなくて苦しくて痛くて苦しくて」
神の御許へ行くのかと思ったわ、と遠い目をするクラウディアに、ヒルデガルトは思わずひしと抱き着いてしまう。
「私もなぁ、ヒルデの時を知っていたから大丈夫だろうとのんびり構えていたら、まさかの非常事態で。あんなに一日中、いや、結局丸二日か? あんなに寝ないで色々な魔法をかけた事もこの五十年ほどなかったぞ」
無事でよかった、とクラウディアの頭を撫でるゲルトルートに、ヒルデガルトは母に抱き着きながら「お師様本当にありがとうございますぅ」と心の底からの感謝をささげた。ちょっと泣きそうだった。実際、ゲルトルートの様々な魔法が無かったら母の命は子と引き換えになっていただろう、と産婆が言っていたというのだから、感謝してもし足りない。
「あら、起きたわ」
子猫のようなか弱い鳴き声が聞こえたと思ったら、近くに控えていた乳母が三人に礼をしてからルーカスを抱き上げる。授乳の時間のようだ。
「魔力量も問題なさそうだな」
「ええ、正確に測るのはもう少ししてからですけど、恐らく一般的な量かと」
雇っている乳母は魔女ではないので、普通に触れて何も無い事を見れば魔弱児ではない事がわかる。
魔弱児ではないし、エリアスのような魔力過多でもない。
ヒルデガルトは不意に乳を飲む弟がとても尊いものに思えた。そして同時に、胸が締め付けられることに気付いた。
(……エリアス様は、こんな風ではなかったんだわ)
今は書類を整えているためにこの場にはいないが、さっきまではカールもいた。穏やかに眠るルーカスの頭を優しく撫でてから部屋を出た。
恐らく、いや、間違いなく、エリアスにそんな過去は無いのだろう。
(国王陛下は、あんなに可愛い赤ん坊に触れられなかったのよね……)
勿論魔女である王妃は抱きしめる事も撫でることも出来た筈だ。けれど王は。隠居している前王と前王妃は、王弟は。
あの柔らかな髪を、ふくよかな頬を、ただ撫でるというそれだけすら許されず。
ヒルデガルトは知らずに自分の胸のあたりをギュッと掴んでいた。
誰も悪くない。
誰も何も悪くないのに。
* * *
「いくら王宮で出来ない事をやるといっても、夜更かしは子供の体には毒だぞ」
ヒルデガルトは背後からかけられた声に驚きもせず、座ったままただ首だけをひねってその相手を見た。
「まだ月が低いです」
「王宮では寝てる時間だろう。というか、カールとディディが泣くぞ」
「夜更かし程度なら見逃してくれますわ」
「夜更かしは見逃すだろうがこの場所は見逃さないだろうが」
言ってゲルトルートはヒルデガルトの頭をがしりと掴む。言い返せないヒルデガルトは小声で「だってこの機を逃したらぁ……!」とか弱い抵抗をした。
二人がいるのは屋根の上。ヒルデガルトがここで生活していた時に魔術研究や貴族としての教育で壁にぶつかると、たまにこっそりと逃げ込む場所でもあった。一度見つかって両親に「この野生児が!!」と大目玉を食らった事もあるのだが、折れぬ心でその後も隠れて登っていた。
高いところから見る景色が好きだった。
初めての浮遊魔術に失敗した時、ポーンと宙に放り出された。その時に見た景色がいつもとあまりにも違い過ぎてずっと印象に残った。
はるか遠くまで見えるのも、多くのものが小さく見えるのも好きだった。そうするとその時考えている事や思っている事が大した事の無いように感じた。大した事の無いように感じて、何だって出来るような気がした。
「ヒルデガルト、お前は頑張っているよ」
頭を締め付けていた手が緩んだと思えば優しく撫でられ、甘い声が降ってくる。ヒルデガルトが仰ぎ見ると、ゲルトルートは微笑んで隣に座り込んだ。
「エリアスにも王国にもお前が必要なんだろう。それをお前はわかってるし、勿論魔術の研究にも利点があるから王宮に入り教育を受けているが、それでもどうしてもお前が嫌なら私が連れ去ってあげるよ」
この地で生き生きと自由過ぎるほど自由に過ごしていたヒルデガルトを知っている。そしてゲルトルートが守ると決めているのは本来はこの地。だからこそ出てくる言葉に、ヒルデガルトは喉が苦しくなる。
「……だけどそれだとエリアス様が一人になるわ」
潰れそうになる喉からようやくの事で出てきた声は泣き声に近かった。それでも泣いてはいない。
「お師様、ルーカスが可愛いの」
「うん」
「すごく可愛くて触りたくて抱きしめたくて……赤ちゃんはきっと誰でもそうなんだと思う。そりゃ色々な事情があって捨てられる子とか愛されない子とかがいるのも、もう私は知っているわ。だけど本当は、赤ちゃんは愛されて守られるべきものだと思うの」
「うん」
泣いてはいない。けれど泣きそうになる。この感情の名前が分からない。
「エリアス様は多くの人に愛されていて、そして期待されていると思う。私から見ても尊敬できる凄い方よ。それなのに……」
どうしてエリアスなのか。何気ない触れ合いも、事故のような接触も、当たり前の交流も、その立場と体質ゆえに許されていない。愛されている筈なのに誰もが近づくのを躊躇う。
『ありがとう』
いつの日かエリアスは確かにそう言った。王子として、国の道具としての感謝を。
王族としての責任感が強いのだと思った。それもあっているのだろう。だけど長く一緒にいると気付くのだ。
ただの一人の少年としてのエリアスは、なかなか見えてこない、見せてこないと。
「……エリアスは賢い子だからね、そうすると見えてくるしわかってくるのさ。愛されている事も敬われている事もわかっている。それならば、本来は頭などいつでも撫でてもらえたものだし、本来は配下の者が怯える事などなかったし、本来は婚約者や側近を決めるのに問題もなかったし、本来は誰もが国の未来を明るいものだと思える筈だった、と。そしてその本来あるべき現実と未来を歪めているのが自分なのだ、とね」
穏やかな優しい声色のまま告げられる内容に、ヒルデガルトの表情が歪む。
「……エリアス様のせいじゃないわ」
「そうだ、エリアスの咎ではない。だが、エリアスが原因だ。エリアス自身も自分に過ちは無いとわかっているが、同時に、自分が原因で世界が歪んでしまっているし世界から外れているという事もわかっている」
「それは、だけど……!」
何時だって何処か一線を引いた立ち位置。集団に交ざらず外側からまとめたり率いるやり方。上に立つ者だから、という事実で誰もが納得してしまっているけれど、あれは自らは関わろうとしていないのではないか。関わってはいけないと思っているのではないか。
「愛され敬われていても、いや、だからこそ罪悪感は強くなる。自分さえいなければこの愛する人々は辛い思いをしなくて済んだのだ、という考えは必ず抱え込む。何故なら、エリアスを取り巻く環境は考えうる限り最高のもので、そしてエリアスは哀れなほど賢く真っ当で責任感が強いからだ」
そう、きっとわかっているのだ。エリアスは誰よりも自分と自分を取り巻く環境の事を。
「……どうすれば、エリアス様は傷つかなかったの……?」
「ヒルデガルト、勘違いしてはならないよ。傷一つつかずに済む人生などあり得ない。もしそれを可能とするならそれは神がかった奇跡しかない。人は誰でも何らかの傷は負うものだ。傷の種類が違うだけで、治し方が様々なだけで、誰だって可哀そうで、そして誰だって強いんだよ」
誰だって強い。その言葉に納得も出来てしまう。ヒルデガルトがはじめにエリアスを純粋に尊敬したのは間違いなく役目を果たそうとするその強さだったのだから。
だけど誰だって可哀そうなら。エリアスも強さを見せながらも傷があるなら。
「それなら……傷を避けられないのだとしたら……それなら、悲しくないといいわ」
ヒルデガルトは考える。生まれたばかりの弟の事を、弟とは違う赤子時代を過ごしたであろうエリアスの事を、自分の事を、自分のやりたい事を。色々な事を考えながら夜の世界を見る。
「うん、そうだな」
ゲルトルートの声が、肯定が、ヒルデガルトの心を後押しする。
「傷を負っても、気にしない位別の何かに癒されればいいのよ。痛くても、立ち上がれる支えがあればいいのよ。世界にはもっと楽しくって嬉しくって心躍るものがあるって、知ってもらえば、私は……! 私は、エリアス様にはそうであってほしいと思うの……ううん、違う、私がそれを教えればいいのよ、そうよ、それがいいわ!」
月の光に照らされて、はるか遠くまでを見渡せる。すべてを小さく感じるこの場所なら、何だって出来る気がした。
屋根の上で立ち上がり前を見つめる小さな姿に、ゲルトルートが笑って自身も立ち上がる。
「お前は強い子だ。そうだな、エリアスが望むならそうしてあげればいい」
認められたような声色に急に照れ臭くなって、ヒルデガルトは誤魔化すように「それにしても」と話題を逸らそうとした。
「お師様はエリアス様の事がよくわかるのね」
やっぱり国の賢者として相談されているのですか? と尋ねれば、ゲルトルートも一度遠くを見つめ、その後でヒルデガルトの目を見つめる。
「そうじゃない。世界から外れる、もしくは世界を歪めている事実と感覚も、外魔女なら一度は味わうものだからさ」
何という事も無いように語られる事実に一瞬驚き、けれどゲルトルートの瞳があまりにも穏やかだったので、胸は苦しくならずただ疑問だけが口から出た。
「……お師様は悲しいままなのですか?」
「いいや、私はもう世界が光に満ち溢れている事を知っているよ」
ゲルトルートが鮮やかに笑った。




