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皇太后ルキッラ様との『紫苑宮の死闘』から、早くも一週間が経過していた。
ドミティウス殿下の追放、テレンティウス侯爵の逮捕、そして皇太后様の宮廷政治からの実質的な引退。
帝国を揺るがした一連の巨大な政治劇は、表向きは「王家の血筋の乱れと悪徳貴族の粛清」という形で収束を迎えつつあった。
そして、その中心で華麗にハシゴを外し、毒を振りまいて生き残った私――ウアルバナ・セルウィリアの日常は、平和になる……どころか、混迷の度合いを急速に深めていた。
「――おい、ウアルバナ。このスープはぬるい。毒殺防止の呈味検査をやり直す」
「ウァレリウス様……。それ、私が今まさに口に運ぼうとしていた、公爵家の最高級コンソメスープなのですけれど。冷めちゃいますわ」
「黙れ。刺客はいつ、いかなる隙を突いて毒を仕込んでくるか分からん。特に現在のようにお前が反公爵家派の残党から命を狙われやすい状況では、私の目の前で口にする全ての食べ物、飲み物は私が確認する」
「だからって……私のスプーンを奪って、自分で一口飲んでから『よし、毒はない』って私の口に運ぶのは、色々とマナー的にも倫理的にもアウトじゃないですかね!?」
ここは公爵邸の豪華な食堂である。
朝の光が窓から差し込む中、私は目の前に座る男――帝国監察庁長官、ウァレリウス・フラウィウス伯爵の奇行に対して、眉をひそめて抗議の声を上げていた。
ウァレリウスは相変わらず、一切の隙がない完璧な軍服姿だ。その彫刻のような美貌で、平然と「間接キス経由の毒味サービス」を行ってくるのだから、私の前世社畜脳の処理限界を超えている。
「何がアウトだ? 私は監察官として、命じられた監視と保護の職務を全うしているだけだ」
「保護の範囲を大幅に踏み越えて『飼育』の領域に入ってきてるんですよ! そもそも、毒味なら毒味役の侍女にやらせてください!」
「他の者は信用せん。お前の身の安全を保証できるのは私だけだ」
ウァレリウスは氷灰色の瞳でまっすぐに私を見つめ、何食わぬ顔でコンソメスープの残りを私に差し出してきた。
その瞳の奥には、氷の奥で静かに燃え盛る青い炎のような、恐ろしいほどの熱量と執着が宿っている。
(ひえええ……! なんなのこの男! 皇太后様の一件以来、護衛という名目の「過保護」が完全にバグってるんだけど!!)
前世の社畜時代、私はこれほど重くて密度の高い感情を他人から向けられたことなど一度もなかった。
営業成績トップの先輩から「お前、優秀だけど愛嬌がないな」と冷笑され、残業の合間に缶コーヒーを飲むのが関の山だった私だ。
それが今や、帝国最高峰の美貌と武力を持つ「死神」から、一分一秒単位で行動を監視され、食べ物まで管理される生活。恋愛感情というより、危険な猛獣の檻の中に閉じ込められている気分である。
「あらあら。朝から仲がよろしいことですわね、ウアルバナ様、ウァレリウス」
食堂のドアが開き、艶やかな黒髪を揺らしながらポンポニア様が入ってきた。
彼女はテーブルの上のやり取りを一目見ると、扇子で口元を隠し、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「ポンポニア様! 助けてください! ウァレリウス様が私の朝食を奪うんです!」
「あら、奪っているのではなく『与えて』いらっしゃるのでしょう? 微笑ましい光景ですわ。……まあ、今の貴女の状況を考えれば、ウァレリウスが過敏になるのも理解できますけれど」
ポンポニア様は優雅に椅子腰を下ろすと、侍女から受け取った一通の招待状をテーブルの上に滑らせた。
漆黒の紙に、銀色のろうそくの蝋で封がされた、いかにも物々しい手紙だ。
「……これは?」私が尋ねる。
「『カイウス・ファビウス伯爵』からの、帝国新春大夜会の招待状ですわ」
その名前を聞いた瞬間、私の脳内の「旧ドミティウス派データベース」が即座に呼び起こされる。
カイウス・ファビウス伯爵。
帝国軍部の保守派に太いパイプを持つ大貴族であり、逮捕されたテレンティウス侯爵の義理の弟にあたる男だ。
ドミティウス殿下が失脚し、テレンティウス侯爵が牢にぶち込まれた今、反公爵家勢力および旧ドミティウス派の「最後の大物残党」として、密かに力を蓄えている男である。
「カイウス伯爵……。あのアブラギッシュで、いつも軍服の金ボタンを弾け飛ぶ寸前までお腹に詰め込んでいる、あの伯爵ですね?」
「言葉を選びなさいウアルバナ様。……まあ、概ね正解ですけれど」ポンポニア様がクスクスと笑う。
「カイウス伯爵は、テレンティウス侯爵の失脚によって公爵家に強い怨嗟を抱いていますわ。ですが、武力で挑めば監察庁に潰されることを知っている。だからこそ……明晩開催される『帝国新春大夜会』の場において、私と、そして『貴女』を陥れようと画策しているという情報が入ってきましたの」
「私を……ですか?」
私は思わず自分の指先を指した。
「ええ。カイウス伯爵は、ドミティウス殿下の失脚も、テレンティウス侯爵の逮捕も、全て『公爵家の性悪な参謀となったウアルバナ』の仕業だと突き止めたようですわ。彼らにとって、貴女は『公爵家の最も危険な毒』。……ならば、その毒を夜会という公衆の面前で無力化し、あるいは貴女を利用して我が公爵家に『毒殺嫌疑』を掛けようとしているのです」
(また私かーーーーーッ!!)
私は心の中で頭を抱え、天を仰いだ。
なんでだ。なんで私は、前世の記憶が戻ってからというもの、バカ王子、悪徳侯爵、毒親皇太后、そして今度は軍人伯爵からと、代わる代わる標的にされなきゃならないのだ!
「私、ただの貧乏男爵家の娘ですよ!? 前世はしがないオフィスワーカーですよ!? なんでこんな『世界の危機』みたいな政治闘争の渦中に常に放り込まれてるんですか!?」
「それは貴女が優秀だからですわ、ウアルバナ様」
ポンポニア様は華麗にスルーし、極上の笑みを浮かべた。
「逃げますか? 今なら実家の男爵家に帰って、一生田舎でイモでも作って暮らす手もありますけれど?」
(うぐっ……!)
言葉に詰まる。
実家への資金援助、破格の給与、公爵家の庇護。そして何より、前世の社畜時代に叩き込まれた「一度引き受けたプロジェクトは最後まで完璧にやり遂げる」という病のプロ根性が、私の足を止めさせる。
「逃げませんわ!」私は胸を張った。「仕掛けられた仕事……じゃなくて、仕掛けられた罠なら、倍返しで買い叩いて差し上げます!」
「頼もしいことですわ。……で、ウァレリウス? 貴方はどう動くの?」
ポンポニア様がウァレリウスへ視線を向けると、彼は冷ややかな手つきで自らの剣の柄に触れた。
「決まっている。カイウスが夜会で鼠のような真似を企んでいるなら、その尻尾を掴んで叩き潰すまでだ。……それに」
ウァレリウスは私の方を振り向き、その氷灰色の瞳を怪しく光らせた。
「ウアルバナ。明晩の夜会、お前の『パートナー』としてエスコートするのは私だ。一瞬たりとも私の視界から外れるな」
「え……? ウァレリウス様がエスコート!? 監察庁の長官が夜会で女を伴って出席するなんて、前代未聞じゃないですか!?」
「文句は許さん。……私以外の男の手を取るなど、万死に値するからな」
(ひぇっ……! 嫉妬と過保護のベクトルが、完全に監察庁の職務権限を越えてる!!)
こうして、カイウス伯爵の罠が待ち受ける「帝国新春大夜会」への出陣が決まったのであった。
─
翌晩。王城・絢爛たる金箔とクリスタルガラスで彩られた「太陽の大広間」。
重厚な管弦楽の調べが響き渡り、最高級のドレスと貴金属に身を包んだ数百人の上流貴族たちが、酒杯を手に歓談している。
その大広間の扉が重々しく開かれた瞬間、会場の視線が一斉に一箇所へと集中した。
「あ……あの者は……!?」
「監察庁長官、ウァレリウス・フラウィウス伯爵……!?」
「まさか、あの『氷の死神』が女性をエスコートして夜会に現れるなど……!」
貴族たちの間に、波紋のように動揺と驚愕が広がっていく。
無理もない。
ウァレリウスは、夜会や社交界の華やかな場を「時間の無駄」と切って捨て、これまで一切の女性を寄せ付けてこなかった男だ。その彼が、漆黒の礼装を完璧に着こなし、一人の女性の腰に優しく手を添えて歩いているのだから。
そして、その彼にエスコートされている女性――私、ウアルバナ・セルウィリア。
今夜の私は、ポンポニア様が極秘に手配してくださった深紅のシルクドレスを纏っていた。胸元と背中が大きく開いた、妖艶かつ気品あふれるデザインだ。前世のOL時代なら恥ずかしくて悶絶していたであろう露出度だが、今の私は「公爵家の毒の参謀」である。腹を括って、堂々と胸を張って歩く。
(よし……周囲の視線は上々。注目度は百点満点よ)
ウァレリウスの大きな手が、私の腰にしっかりと添えられている。
彼の体温がドレスの生地越しに伝わってきて、なんだか落ち着かない。心臓がトクトクと妙なリズムを刻んでいるのは、夜会の緊張のせいだということにしておこう。
「……ウアルバナ」
耳元で低く魅力的な声が囁かれた。ウァレリウスだ。
「な、なんですかウァレリウス様?」
「そのドレスは露出が多すぎる。……今すぐ私の上着を羽織れ」
「駄目です! これポンポニア様が用意してくださった勝負服なんですから! 脱いだら作戦台無しです!」
「……くそ、他の男どもが嫉妬と不躾な視線でお前を見ている。全員の目を潰したくなってきた」
(ぶっ飛んだ思想をサラッと言わないで!? 怖いから!!)
私が心の中でツッコミを入れまくっていると、人ごみを割って、一人の巨大な男が近づいてきた。
仕立ての良い軍服を着込んでいるが、はち切れんばかりの腹が金ボタンを痛めつけている。油ぎった顔に、歪んだ笑みを貼り付けた中年男――カイウス・ファビウス伯爵である。
「おお、これはこれは! 監察庁長官ウァレリウス閣下ではありませんか! 本日のお召し物も実に素晴らしい」
カイウス伯爵は揉み手をしながらウァレリウスに一礼し、それから冷酷な視線を私へと向けた。
「そして……こちらが噂の『小悪魔』、ウアルバナ・セルウィリア男爵令嬢ですな? ドミティウス殿下を狂わせ、テレンティウス侯爵を失脚させたという……恐ろしいお嬢様だ」
あからさまな敵意と蔑みを含んだ言葉。
会場の貴族たちが息を呑み、私たちのやり取りを遠巻きに見守り始める。
「お初にお目にかかります、カイウス伯爵様」
私は完璧な角度で微笑み、優雅に扇子を開いた。
「私のことを『恐ろしい』などと……光栄でございますわ。ですが、私はただ、己の身を守るために『愚かなお方々の自爆』をお手伝いしたに過ぎませんの。……賢明なカイウス伯爵様なら、そのような愚行はお犯しになりませんわよね?」




