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「――遅い。三分と四十秒の遅刻だ。我が監察庁であれば、これだけで懲罰対象だな」
翌朝、午前八時ちょうど。
コルネリア公爵邸の一角に与えられた私の執務室へ足を踏み入れた瞬間、待ち構えていたのは、朝日を浴びて無駄に神々しく輝く氷の監察官――ウァレリウス・フラウィウス伯爵であった。
彼は黒革のグローブを嵌めた手で懐中時計をパチンと閉じると、氷河のように冷ややかな瞳で私を射抜いてきた。
「あの……ウァレリウス様? ここは公爵邸であって、監察庁の取調室ではないのですが……。それに私、公爵邸の門を潜ったのは二十分前ですよ? 敷地が広すぎて、玄関からこの部屋にたどり着くまでに迷子になっただけで――」
「言訳は不要だ。参謀を名乗る者が、自身の置かれた環境の地理的構造すら把握していないなど、不覚の極み。今後は毎朝、屋敷の構造図を暗記してから出勤しろ」
(き、厳しすぎるだろこの上司!! ブラック企業の鬼上司でももうちょっと手加減するわよ!!)
私は前世のOL時代に鍛え上げた「引きつり笑顔」を限界まで張り付けながら、与えられた豪華なマホガニーのデスクへと着席した。
デスクの上には、高さ三十センチはあろうかという書類の山がうずたかく積まれている。
「な、なんですかこの紙の塔は……?」
「今日お前に与える最初の課題だ。ドミティウス殿下の周辺に集まっていた悪徳貴族、および商人たちの帳簿と手紙の写しだ。ドミティウスが失脚した今、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃走を図り、あるいは次の『庇護者』を求めて暗躍している。お前の『小悪魔的観察眼』とやらで、奴らの資金源と、次に接触しそうな人物を洗い出せ」
「……これを全部、今日中に?」
「そうだ。夕方までに分析結果を提出できなければ、お前を『無能な詐欺師』とみなし、即刻地下尋問室へ連行する」
ウァレリウスは冷酷に言い放つと、私のデスクの真向かいにあるソファーに優雅に腰掛け、自らも書類をめくり始めた。
どうやら本当に、私の一挙一動を至近距離で監視する気満々らしい。
(うぐぐぐ……! 死刑執行のカウントダウンを突きつけられながらのデスクワークなんて、前世の「納期当日のシステム障害対応」以来よ! でも負けない……! 私は生き残ってみせるわ!!)
私はフッと深く息を吐き出すと、前世の社畜魂にスイッチを入れた。
ペンを握り、帳簿の数字と手紙の束に目を通し始める。
文字通り、目を皿にして。
かつての私は、単なる男好きの性悪女だった。だが今の私は違う。前世の経理・営業事務で培った「数字の違和感を見抜く目」と、今世のウアルバナが持っていた「貴族たちの生々しい欲望と人間関係の記憶」が、奇跡的なシナジーを生み出し始めていた。
サッ、サッ、サッ――。
静かな部屋に、私が羊皮紙をめくる音と、羽ペンを走らせる音だけが響く。
三十分、一時間、二時間。
私は一度も席を立たず、脇目もふらずに書類を精査し続けた。
最初は冷ややかな目で見守っていたウァレリウスの気配が、徐々に変化していくのを肌で感じた。彼の刺すような視線に、戸惑いと驚きが混ざり始めている。
(ふふん、驚いたかしら? 前世で月八十時間の残業をこなしていた社畜の集中力を舐めないで戴きたいわね!)
「……おい、ウアルバナ」
昼過ぎ、ついにウァレリウスが耐えかねたように声をかけてきた。
「なんだ、その異常なまでの処理速度は。……ただの男爵家の娘が、なぜ複雑な二重帳簿の抜け穴を一目で見抜ける? なぜ手紙の暗号めいた隠語の意図を即座に解読できるのだ?」
私はペンを止め、ウアルバナ特有の「上目遣い+あざと可愛さ」を二割ほど混ぜた笑顔でウァレリウスを見つめ返した。
「ウァレリウス様。男を騙す基本は『相手の財布と人間関係を把握すること』ですのよ? 殿下の側近たちがどれだけ裏で甘い汁を吸っていたか、私、お喋りの最中に彼らの自慢話から全て聞き出しておりましたの。……『あらぁ〜、男爵様ってそんなにすごいお口座をお持ちなんですのぉ〜? すごぉい♡』って持ち上げれば、バカな男たちは自分から秘密をベラベラ喋ってくれますもの」
「……お前という女は、心底恐ろしいな」
ウァレリウスは眉間に深い皺を寄せ、心底呆れたように吐き捨てた。しかし、その瞳には明確な「評価」が灯っていた。
「よし、ウァレリウス様! 提出いたしますわ!」
私はバシッと、綺麗に整理された分析レポートをウァレリウスの前に突きつけた。
「分析完了です! ドミティウス殿下の資金源となっていた悪徳商人たちのリスト、および失脚後に彼らが頼ろうとしている『真の黒幕』の正体が判明いたしました!」
ウァレリウスは半信半疑のままレポートを手に取り、目を通した。
そして、数秒後――彼の美貌が凍りついた。
「……これは……! テレンティウス・アキリウス侯爵だと……!?」
「ええ、ビンゴですわ!」
私はニヤリと、性悪女特有の悪い笑みを浮かべた。
テレンティウス・アキリウス侯爵。
帝国議会において保守派の重鎮であり、表面上はポンポニア様の父であるコルネリア公爵とも穏和な関係を保っている、穏やかで好々爺として知られる大貴族だ。
「バカな……テレンティウス侯爵は中立派の重鎮だ。ドミティウスの愚行にも一貫して批判的な立場をとっていたはずだぞ?」
「それこそが彼の『狙い』ですのよ、ウァレリウス様」
私は立ち上がり、ウァレリウスの持つレポートの一箇所を指差した。
「テレンティウス侯爵は、最初からドミティウス殿下が『使えないバカ』であることを見抜いていました。だからこそ、表向きは彼から距離を置きつつ、裏でドミティウス派のバカ貴族たちに密かに高利で資金を貸し付け、弱みを握り、彼らの領地の利権を吸い上げていたのです。ドミティウス殿下が自爆して失脚した今、彼はその『債権』を盾にして、旧ドミティウス派の貴族たちを丸ごと自分の私兵として取り込もうとしています」
ウァレリウスの瞳が鋭く光った。
「なるほど……。ドミティウスという愚者を暴走させて王家の権威を失墜させ、なおかつ反公爵家派の貴族たちを裏から牛耳る……。すべてテレンティウスの描いたシナリオ通りだったというわけか」
「そして!」私は人差し指を立てて付け加えた。
「テレンティウス侯爵は今夜、自身が所有する王都郊外の別邸にて、失意に沈む旧ドミティウス派の若い貴族たちを集め、極秘の『慰労会』という名の秘密集会を開く予定ですわ。そこで彼らに『第二王子クイントゥス殿下を擁立し、ポンポニア公爵令嬢を排除する』という新たな謀反の計画を持ちかけるつもりです」
ウァレリウスはレポートから目を離し、私を凝視した。
「……なぜ、今夜の秘密集会のことまで知っている?」
「フフン。今朝、公爵邸に来る途中で、かつて私に気を持たせていたテレンティウス侯爵の側近(のバカ息子)に偶然会いましてね。『ウアルバナちゃん、ドミティウスなんて捨てて僕と一緒に来ない? 今夜、侯爵様がすごい計画を発表するんだ♡』って、道端でベラベラ喋ってくれましたの」
ウァレリウスは深々と溜息をつき、片手で額を押さえた。
「男の欲望と油断を突くことに関して、お前以上の天敵はいないな……。恐ろしい女だ」
「あら、褒め言葉として受け取っておきますわ!」
◇
その日の夕刻。
報告を受けたポンポニア様は、公爵邸の執務室で優雅に紅茶を嗜みながら、私たちの分析結果を聞いていた。
「……ふふ、テレンティウス侯爵ですか。あの狸爺、いつか尻尾を出すと思っていましたけれど、案外早かったわね」
ポンポニア様は愉悦に満ちた笑みを浮かべ、私を振り返った。
「ウアルバナ様。見事な分析ですわ。貴女を参謀として雇った私の目に狂いはなかったようですわね」
「恐縮です、ポンポニア様!」
「さて……では、今夜のテレンティウス侯爵の秘密集会。どう料理して差し上げましょうか? 監察庁の騎士団を突入させて、一網打尽に捕縛させます?」
ポンポニア様がウァレリウスに視線を向ける。ウァレリウスも「即座に身柄を拘束するのが最も確実だ」と頷こうとした。
だが、私はそこでスッと手を挙げた。
「待ってください、ポンポニア様、ウァレリウス様! 騎士団で突入して捕縛するのは、あまりにも『勿体ない』ですし、芸がありませんわ!」
「……何?」ウァレリウスが眉をひそめる。
「武力で力押しすれば、テレンティウス侯爵は『ただの親睦会だ、言論の自由を侵害された!』と言い逃れをするでしょう。狡猾なあの爺さんのことです、尻尾を切って逃げる準備くらい絶対にしています。……そうではなく、彼ら自身に『自爆』していただくのが一番ですわ」
ポンポニア様が身を乗り出した。その瞳に、サディスティックな興味の光が宿る。
「自爆……? どうやって?」
私は不敵に微笑んだ。
「男という生き物は、特に『自分が賢いと思い込んでいる悪党』は、大勢の部下の前で自分の完璧な計画を自慢したくてたまらない生き物なのです。ならば……その『自慢話』を、逃げ場のない最高の舞台で、公衆の面前で披露していただきましょう」




