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昨夜の死闘――もとい、あの地獄のような夜会から一夜が明けた。
朝の光が差し込む我が家、セルウィリア男爵邸。
『邸』とは名ばかりで、実態は王都の片隅に建つ、築五十年は下らない古びた二階建ての木造建築だ。あちこちの床板がギシギシと悲鳴を上げ、廊下を歩くだけで階下に音が響く。
私は自室の硬いベッドの上でガバッと跳ね起き、自分の体を両手でくまなく撫で回した。
「首、ついてる……! 手足も折れてない! 鉱山に売られてピッケル振るってない……!」
生きている。
あの「真実の愛(笑)」の泥船から、ギリギリのところで飛び降りることに成功したのだ。
安堵の溜息をついた瞬間、前世のOL時代の感覚と、今世の貧乏男爵令嬢としての記憶が頭の中でカチリと噛み合わさった。
(それにしても……我ながら間一髪だったわ。あと三十秒、前世の記憶が戻るのが遅れていたら、私はドミティウスの腕にしがみついたまま『そうですわぁ! ポンポニア様が私に意地悪なさったのですわぁ!』とか叫んで、そのまま公爵家の私兵騎士団に物理的にすり潰されていたところよ……)
冷や汗が背中を伝う。
前世の記憶によれば、乙女ゲームや悪役令嬢の小説において、ヒロイン(あるいは愛人ポジの性悪女)が調子に乗って正妻を弾圧しようとした場合、待っているのは九割九分「ざまあ」による破滅だ。死刑、国外追放、奴隷落ち、娼館売り。ロクな未来がない。
(よし。今日からは改心しよう。男を騙して成り上がろうなんて不純な考えは一切捨てて、身の丈に合った生活を送るのよ。実家の貧乏男爵家を立て直すために、前世の知識を生かして何か小さな事業でも始めようかしら。例えば、この世界の粗末な紙を改良して高級懐紙にするとか、甘味の少ないこの国で焼き芋ビジネスを始めるとか。養鶏場もいいかも――)
「ウ、ウアルバナぁぁぁぁぁぁっ! 大変だぁぁぁぁっ!!」
私のささやかな生存戦略と思索は、階下から響き渡る情けない叫び声によって、粉々の木っ端微塵に吹き飛んだ。
バタバタと激しい足音を立てて階段を駆け上がってきたのは、私の実父であるセルウィウス・セルウィリア男爵だった。
ストレスで禿げ上がった頭を汗で光らせ、使い古したツィードの上着を半端に羽織った父は、私の部屋のドアをバンッと開け放つと、白目を剥きながら叫んだ。
「ウアルバナ! お前、昨夜の夜会で一体何をしでかしたんだ!? 門の前に……門の前にな、公爵家の紋章が入った黒塗りの馬車が複数停まっているんだよぉぉぉっ! 近衛兵みたいな強面の騎士たちがズラリと並んで、『ウアルバナ様をお迎えに上がりました』って……! うちは取り潰しか!? 打ち首なのか!?」
「あ……」
思い出してしまった。
昨夜、あの完璧にして冷酷なる公爵令嬢、ポンポニア様が去り際に言い放ったあの言葉を。
『明日から私の家庭教師……いいえ、私の「参謀」として、公爵邸に来ていただきますわ。拒否権はありませんからね?』
(嘘でしょ……本気だったの!? 冗談じゃなかったのあのお方!?)
私は額を押さえた。
前世の社畜時代、ブラック企業の社長から「明日から君、この新規事業のプロジェクトリーダーね。断ったらどうなるか分かっているよね?」と笑顔で圧をかけられた時のトラウマが蘇る。
逃げられない。
相手は帝国屈指の大貴族、コルネリア公爵家だ。このボロ屋敷など、彼らが「失火」の一言で跡形もなく消し去ることなど造作もない。
「ち、父上、どうか落ち着いてください。取り潰しでも打ち首でもありません……たぶん。ただの、就職活動の面接です」
「は? 秋色……?」
首を傾げる父を置き去りにし、私は引き出しから一番マシな(といっても何度も修繕した)外出用のドレスを引っ張り出すと、覚悟を決めて着替え始めた。
─
漆黒の馬車に揺られること三十分。
車窓から見える景色は、王都の下町から一転して、広大な敷地と重厚な石造りの建築が立ち並ぶ高級貴族街へと変わっていた。
そして到着したのは、もはや城と見紛うばかりのコルネリア公爵邸である。
広大な前庭には整えられた庭園と噴水があり、エントランスにはずらりと並ぶメイドと執事たち。
(うわあ……本物の『持てる者』の家だわ。我がセルウィリア男爵邸の百倍……いや、千倍はあるわね……)
案内されたのは、二階にある公爵家の応接室だった。
ふかふかの未知の絨毯に足を踏み入れると、歩く音すら吸い込まれていく。壁には有名画家とおぼしき、変な絵画が飾られ、調度品の一点一点までもがいかがわしいほどの高級感を放っていた。
「どうぞ、お掛けになってお待ちください、ウアルバナ様」
老執事が恭しく一礼し、最高級の磁器で淹れられたらしき紅茶と、芸術品のような焼き菓子の皿をテーブルに置いて去っていく。
一人残された私は、ソファーの端っこに小さく腰掛けた。
ふわりと漂う、極上のダージリンのような芳醇な香り。そして、バターの香ばしい匂いを漂わせるフィナンシェのような焼き菓子。
(……ゴクリ)
喉が鳴る。
今世の私は、万年金欠の男爵家育ちだ。こんな高級なお菓子など、お目にかかったことすらほとんどない。
前世の記憶が戻ったとはいえ、この身体が持つ「食いしん坊本能」は強烈だ。昨夜も豚肉の塩漬けに飛びついたばかりではないか。
(ダメよウアルバナ! 敵の陣地で出された食べ物に不用意に手を出しちゃダメ! 毒が入ってるかもしれないし、マナーを試されているのかもしれないわ!)
理性が必死にブレーキをかける。
だが、焼き菓子から漂うあま〜い香りが、私の鼻腔を容赦なく攻撃する。
(一個……一個だけなら……。いや、爪楊枝で端っこをちびっと削って味わうくらいなら……)
私が葛藤の末、プルプルと震える手でお菓子のお皿に手を伸ばそうとした、その瞬間。
パチ、パチ、パチ。
静かな拍手の音が、応接室に響いた。
「ひえっ!?」
慌てて手を引っ込め、背筋をピンと伸ばす。
応接室の奥にある重厚な観音開きの扉が開き、そこから優雅な足取りで現れたのは――昨夜の主役の一人、ポンポニア・コルネリア公爵令嬢であった。
完璧に整えられた艶やかな黒髪、知性を感じさせる切れ長の瞳、そして無駄のない洗練された佇まい。
まさに『完璧なる悪役令嬢(※ただし味方にすると超心強い)』そのものの威厳である。
「素晴らしい自制心ですわね、ウアルバナ様。もっとも、手を伸ばしていたら『卑しい男爵令嬢』として一点減点するところでしたけれど」
「は、ハハ……ご、ご冗談を、ポンポニア様……(危ねええええええ! 本当に罠だった!! 手を伸ばさなくて良かったわ!!)」
ポンポニア様は私の対面に優雅に腰を下ろすと、メイドが注いだ紅茶に一口だけ口をつけた。
その動作一つ一つが絵になる。美しい。だが、その瞳の奥には冷徹な計算の光が宿っている。
「さて。まずは昨夜の『後始末』について、報告をして差し上げますわね」
ポンポニア様はフッと笑みを深めた。
「ドミティウス殿下は昨夜、私兵騎士団によって取り押さえられた後、王城の地下牢へと送られました。……まあ、殿下は軟禁された後も『ウアルバナに脅されていた! 彼女こそが私を唆した魔女だ!』などと、哀れな見苦しい叫び声を上げていらしたようですが」
(うわあ……ドミティウスのやつ、最後まで私に罪を擦り付けようとしたわけね。本当にクズだなあのバカ王子!)
私は心の中で盛大に毒づいた。前世のOL時代、自分のミスを全部私のせいにして逃げようとした無能上司を思い出す。胸糞悪さの極みだ。
「ですが」とポンポニア様は言葉を続けた。




