episode 1
欠伸が止まらないまま、講義棟を出る。
十月の午後の空気は乾いていて、日差しだけが妙に強かった。昨夜は警備バイトで、仮眠を取れたのは二時間あるかないかだ。そのまま朝の電車に乗って、シャワーだけ浴びて大学に来た。
講義の内容は半分も頭に入っていない。ノートを見ると、途中から文字が崩れていた。
隣を歩いていた川原が言った。
「そのバイト、時給いいけど死ぬだろ」
「慣れる」
「慣れてないじゃん、今」
笑った。否定できなかった。でも金は欲しい。来月は友達と旅行の話も出ている。ゲームも一本買いたいやつがある。
理由を並べると全部そんな程度のことだが、そんな程度のことのために人間は動く。
駅へ向かいながら、また欠伸が出た。
夕方の横断歩道を渡っていた。
西日が強くて、自分の影が歩道に長く伸びていた。なんとなく足元を見たとき、気づいた。
影が、白線の手前で止まっていた。
俺はすでに一歩先に進んでいた。影だけが、一歩手前に残っていた。
一瞬だけだった。次に目を向けたときには、影は普通に自分の足元にあった。
振り返ると、後ろを歩いていたサラリーマンがスマホを見ながら通り過ぎていった。誰も何も気にしていない。
「寝不足かな」
声に出してみた。そうとしか思えなかった。信号が青になって、また歩き出した。
夜、バイトに入った。
いつもと同じ、大型商業施設の夜間警備。閉館後のシャッターが下りると、館内のBGMも止まって、別の場所みたいに静かになる。
業務は単純だ。決まった時間に館内を巡回して、施錠を確認して、防犯カメラを確認する。それだけ。
先輩の田所さんは五十代で、巡回中によく欠伸をしている。
「慣れてくると眠気との戦いだけになるから。逆に言うと、それだけってこと」
俺は監視室でモニターを見ていた。駐車場、通路、搬入口、非常階段。複数のカメラ映像が画面に並んでいる。人の気配はない。どこも静かだった。
ふと、通路のカメラに自分の姿が映った。さっきの巡回で通った場所だ。録画映像が流れていた。
俺が歩いている。普通に歩いている。
ただ、影だけが一瞬遅れた。
コマ送りみたいに、体より半歩後ろに残った。それだけだった。
振り返って、監視室の床を見た。自分の影は椅子の足元に普通に落ちていた。録画を巻き戻して再生した。普通だった。さっき見えたものが映っていなかった。
しばらく画面を見ていた。何も起きなかった。
「疲れてる」と思うことにした。
その後、数日の間に小さなことが続いた。
曲がり角を曲がるとき、影だけが一瞬長く伸びていた。信号待ちで、風もないのに影だけ揺れた。
どれも一瞬で、次に見ると普通に戻っている。見間違いで説明できる程度のものだ。
でも回数が増えていた。
俺は意識しないようにしようとした。するほど、足元が気になった。歩きながら自分の影を確認する癖がついた。確認して、普通だとわかって、また気になる。それの繰り返しだった。
大学の講義中、窓際の席に座っていた。
午後の西日が斜めに入ってきて、机の上に影が出ていた。ノートを取りながら、なんとなく自分の影を見た。
鉛筆が止まっていた。俺は動いていなかった。
影だけが、少し動いた。
指先の部分が、ほんのわずかに揺れた。
瞬きした。影は止まっていた。
周りを見た。隣の席の女子はノートを取っていた。前の席の男は教科書を読んでいた。誰も俺の机を見ていない。教授は黒板に数式を書いていた。普通の教室だった。
なのに急に、部屋の空気が気持ち悪くなった。壁も、天井も、床も、全部普通なのに、この空間にいたくなかった。講義が終わるまでの残り三十分が、やけに長い。
次のバイトの夜、閉館後の館内を巡回していた。
非常灯だけが点いている通路は、昼間と全然違う。床の光沢が強くて、歩くたびに影が濃く出る。
最近、無意識に足元を見ながら歩くようになっていた。自分でも気づいていたが、やめられなかった。
ガラス張りの通路に差し掛かった。
歩きながら、ガラスに映った自分を見た。まるで普通だった。歩いていて、影も同じように動いていた。
立ち止まった。
影も止まった。
安心しかけた瞬間、影の足先だけが、わずかに前へ出ていた。
体は動かしていない。ガラスの前に立ったまま、何もしていない。なのに影だけが、一歩前の位置にあった。
息が止まった。
瞬きした。
影は自分の足元に戻っていた。
ガラスの中の自分が、普通に立っていた。
監視室に戻って、録画を確認した。
問題の通路のカメラを出した。自分が歩いてくる映像があった。再生した。普通に歩いている。普通に立ち止まっている。
停止する直前の一コマ、影がカメラの方向を向いているように見えた。
体は正面を向いたままだった。影だけが、別の方向を向いていた。顔はない。影だから当然ない。ただ、向きだけが違った。
停止して、戻して、再生した。
もう確認できなかった。そのコマがどこにあるかわからなくなった。何度か繰り返したが、見つけられなかった。
「顔色悪いぞ」と田所さんに言われた。
「寝不足です」と答えた。それ以外に言えることがなかった。
バイトが明けて、早朝の住宅街を歩いた。
空が白み始めていた。朝日は雲の向こうで白く滲んでいた。電柱の影が長く伸びている。昨日より長く感じた。
アパートの前まで来て、立ち止まった。
鍵を出そうとして、ふと壁を見た。
自分の影が映っていた。
普通だと思った。次の瞬間、影が動いた。
俺は動いていなかった。鍵を持ったまま、その場に立っていた。
影が一歩踏み出した。
ゆっくりと、確かめるように、一歩。
体が動かなかった。声も出なかった。影が、壁の上を離れていった。
角に差し掛かった。そのまま曲がって、見えなくなった。
数秒、そのままでいた。
朝日が雲に隠れた。影が消えた。壁には何もなかった。俺だけがアパートの前に立っていた。
鍵を鍵穴に差した。手が少し震えていた。
ドアを開けて、中に入った。
後ろを振り返らなかった。振り返れなかった。




