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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第五色 ブラックサイド――Black Side――
9/20

episode 1

 欠伸が止まらないまま、講義棟を出る。


 十月の午後の空気は乾いていて、日差しだけが妙に強かった。昨夜は警備バイトで、仮眠を取れたのは二時間あるかないかだ。そのまま朝の電車に乗って、シャワーだけ浴びて大学に来た。

 講義の内容は半分も頭に入っていない。ノートを見ると、途中から文字が崩れていた。


 隣を歩いていた川原が言った。


「そのバイト、時給いいけど死ぬだろ」

「慣れる」

「慣れてないじゃん、今」


 笑った。否定できなかった。でも金は欲しい。来月は友達と旅行の話も出ている。ゲームも一本買いたいやつがある。

 理由を並べると全部そんな程度のことだが、そんな程度のことのために人間は動く。

 駅へ向かいながら、また欠伸が出た。


 夕方の横断歩道を渡っていた。

 西日が強くて、自分の影が歩道に長く伸びていた。なんとなく足元を見たとき、気づいた。

 影が、白線の手前で止まっていた。

 俺はすでに一歩先に進んでいた。影だけが、一歩手前に残っていた。

 一瞬だけだった。次に目を向けたときには、影は普通に自分の足元にあった。

 振り返ると、後ろを歩いていたサラリーマンがスマホを見ながら通り過ぎていった。誰も何も気にしていない。


「寝不足かな」


 声に出してみた。そうとしか思えなかった。信号が青になって、また歩き出した。


 夜、バイトに入った。

 いつもと同じ、大型商業施設の夜間警備。閉館後のシャッターが下りると、館内のBGMも止まって、別の場所みたいに静かになる。

 業務は単純だ。決まった時間に館内を巡回して、施錠を確認して、防犯カメラを確認する。それだけ。


 先輩の田所さんは五十代で、巡回中によく欠伸をしている。


「慣れてくると眠気との戦いだけになるから。逆に言うと、それだけってこと」


 俺は監視室でモニターを見ていた。駐車場、通路、搬入口、非常階段。複数のカメラ映像が画面に並んでいる。人の気配はない。どこも静かだった。

 ふと、通路のカメラに自分の姿が映った。さっきの巡回で通った場所だ。録画映像が流れていた。


 俺が歩いている。普通に歩いている。

 ただ、影だけが一瞬遅れた。

 コマ送りみたいに、体より半歩後ろに残った。それだけだった。


 振り返って、監視室の床を見た。自分の影は椅子の足元に普通に落ちていた。録画を巻き戻して再生した。普通だった。さっき見えたものが映っていなかった。

 しばらく画面を見ていた。何も起きなかった。

 「疲れてる」と思うことにした。


 その後、数日の間に小さなことが続いた。

 曲がり角を曲がるとき、影だけが一瞬長く伸びていた。信号待ちで、風もないのに影だけ揺れた。

 どれも一瞬で、次に見ると普通に戻っている。見間違いで説明できる程度のものだ。


 でも回数が増えていた。

 俺は意識しないようにしようとした。するほど、足元が気になった。歩きながら自分の影を確認する癖がついた。確認して、普通だとわかって、また気になる。それの繰り返しだった。


 大学の講義中、窓際の席に座っていた。

 午後の西日が斜めに入ってきて、机の上に影が出ていた。ノートを取りながら、なんとなく自分の影を見た。

 鉛筆が止まっていた。俺は動いていなかった。

 影だけが、少し動いた。

 指先の部分が、ほんのわずかに揺れた。

 瞬きした。影は止まっていた。

 周りを見た。隣の席の女子はノートを取っていた。前の席の男は教科書を読んでいた。誰も俺の机を見ていない。教授は黒板に数式を書いていた。普通の教室だった。


 なのに急に、部屋の空気が気持ち悪くなった。壁も、天井も、床も、全部普通なのに、この空間にいたくなかった。講義が終わるまでの残り三十分が、やけに長い。


 次のバイトの夜、閉館後の館内を巡回していた。

 非常灯だけが点いている通路は、昼間と全然違う。床の光沢が強くて、歩くたびに影が濃く出る。

 最近、無意識に足元を見ながら歩くようになっていた。自分でも気づいていたが、やめられなかった。


 ガラス張りの通路に差し掛かった。

 歩きながら、ガラスに映った自分を見た。まるで普通だった。歩いていて、影も同じように動いていた。

 立ち止まった。

 影も止まった。

 安心しかけた瞬間、影の足先だけが、わずかに前へ出ていた。

 体は動かしていない。ガラスの前に立ったまま、何もしていない。なのに影だけが、一歩前の位置にあった。

 息が止まった。

 瞬きした。

 影は自分の足元に戻っていた。

 ガラスの中の自分が、普通に立っていた。


 監視室に戻って、録画を確認した。

 問題の通路のカメラを出した。自分が歩いてくる映像があった。再生した。普通に歩いている。普通に立ち止まっている。

 停止する直前の一コマ、影がカメラの方向を向いているように見えた。

 体は正面を向いたままだった。影だけが、別の方向を向いていた。顔はない。影だから当然ない。ただ、向きだけが違った。

 停止して、戻して、再生した。

 もう確認できなかった。そのコマがどこにあるかわからなくなった。何度か繰り返したが、見つけられなかった。


「顔色悪いぞ」と田所さんに言われた。

「寝不足です」と答えた。それ以外に言えることがなかった。


 バイトが明けて、早朝の住宅街を歩いた。

 空が白み始めていた。朝日は雲の向こうで白く滲んでいた。電柱の影が長く伸びている。昨日より長く感じた。


 アパートの前まで来て、立ち止まった。

 鍵を出そうとして、ふと壁を見た。

 自分の影が映っていた。

 普通だと思った。次の瞬間、影が動いた。

 俺は動いていなかった。鍵を持ったまま、その場に立っていた。


 影が一歩踏み出した。

 ゆっくりと、確かめるように、一歩。

 体が動かなかった。声も出なかった。影が、壁の上を離れていった。

 角に差し掛かった。そのまま曲がって、見えなくなった。


 数秒、そのままでいた。

 朝日が雲に隠れた。影が消えた。壁には何もなかった。俺だけがアパートの前に立っていた。


 鍵を鍵穴に差した。手が少し震えていた。

 ドアを開けて、中に入った。

 後ろを振り返らなかった。振り返れなかった。

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