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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第四色 ブルーシェル―― Blue Shell――
8/20

episode 2

 カーラジオがまた同じ話を流していた。


 西海岸沿岸部の海洋変質。固化の範囲が広がっている。漁業に深刻な打撃。物流にも影響が出てる。原因はまだ調査中だって。

 アナウンサーの声は妙に落ち着いていて、聞いているうちに言葉が遠のいていく感じがした。私はボリュームをもう少し下げた。小さくしても、同じ話をしていた。


 このニュースを初めて見たのは二週間前だ。

 テレビに映った海岸線に見覚えがあった。気のせいだと思った。カメラが引いた瞬間、崩れかけた桟橋が目に入った。形はあの頃のままだった。

 海は青かった。でも、波がなかった。青いものが固まっているみたいだった。私はその間、ただ桟橋だけをずっと見ていた。


 翌朝、気づいたら車に乗っていた。特別に「行こう」と思ったわけじゃなかった。ただエンジンをかけて、アクセルを踏んでいた。


 海岸線の道に入ったところで、匂いが変わった。

 潮の匂いを、体が勝手に待っていた。でも来なかった。代わりに、乾いた何か。土でも砂でも石でもない、うまく名前をつけられない匂いがした。無理に言葉にしようとして、すぐにやめた。


 丘の切れ目を抜けると、海が見えた。

 青かった。海じゃなく、青い何かが置かれているみたいだった。沿岸はひび割れて、乾いた湖の底みたいに細かい亀裂が走っていた。亀裂の中も青い。沖の方はまだわずかに動いているようにも見えたけど、波はなかった。波のない海なんて、海じゃなくて何か別のものに見えた。

 そのとき初めて、はっきり思った。海は波があって初めて海なんだって。

 道路から見える範囲に、人は一人もいなかった。


 町に入った。

 シャッターが目立った。開いてる店が、記憶よりずっと少なかった。ブルーシェルがあったはずの場所には、見知らぬ店が入っていた。看板はなくて、何の店かもわからなかった。ガラスに斜めの亀裂が一本入っていた。


 桟橋が見えた。一部が崩れていた。根元はまだ形を保っていたけど、先の方は板が落ちて、錆びた鉄骨だけが残っていた。漁船が三隻、岸に引き上げられたまま放置されてて、船体が真っ赤に錆びていた。ロープが切れかかって、誰かが最近触った形跡はなかった。


 電線に鳥がいなかった。

 駐車場は空っぽで、アスファルトの隙間から草が伸びていた。ゴミ袋が一つ、風にコロコロと転がっていった。誰も追いかけなかった。


 完全に人がいないわけじゃなかった。老人が一人、ゆっくり道を歩いていた。家の前で男がボンネットを開けて中を覗いていた。でも声がなかった。話し声も、物音も、子供の笑い声も、何も聞こえなかった。

 町から音の密度がすっかり抜け落ちていて、残ってるのは風の音と、自分の靴の音だけだった。


 車を停めて、降りた。

 昔のアパートの前を通った。

 建物はまだ残っていた。外壁のペンキがぼろぼろに剥げて、窓の一枚が板で塞がれていた。郵便受けは錆びて蓋が半開きのまま、中は空だった。

 二階の、私たちが住んでいた部屋の窓を見上げた。カーテンはなくて、中は暗かった。誰か住んでいるのかどうかもわからなかった。エレンが「あの窓が好き」と言っていたことを思い出した。今は何が見えるんだろう。でも上がって確かめたいとは思わなかった。


 海の方へ歩いた。

 道の途中に、昔魚屋があった空き地があった。雑草が膝くらいまで伸びていた。隣の食堂も閉まっていた。夏になると観光客が外まで並んでたシーフードの店だ。ドアに張り紙があったけど、日焼けして字が薄くなりすぎて読めなかった。


 砂浜に降りた。

 ロープが張ってあって、立入禁止の看板が立っていた。英語とスペイン語で書いてあった。私はロープをくぐった。


 砂が、途中から変わっていた。

 普通の砂の先に、青みがかった固い面が始まっていた。境目はぼんやりしていて、気づいたら砂じゃなくなっていた。足で踏んでみた。硬い。でも完全に固体という感じでもなく、体重をかけるとわずかに沈むような気がした。気のせいかもしれない。

 その境目に立って、先を見た。


 青が続いていた。ひび割れながら。沖に行くほど亀裂が細かくなっていくように見えた。まだ新しい部分なのか、ただ遠いだけなのかはわからなかった。

 手を伸ばしかけて、やめた。

 なぜやめたのか、自分でもよくわからなかった。怖かったわけじゃない。ただ、触れたあとどうなるのか想像できなかった。だから手を引っ込めた。


 波は来なかった。

 沖の方だけがかすかに揺れているように見えた。でも、それが本当に動いているのか、光のせいなのか、確かめようがなかった。風も音もなかった。


 そのとき、エレンが「波の音が聞こえる」と言った夜のことを思い出した。

 暗い部屋で、彼女が窓の方を向いていた。私は隣に座った。波の音はしなかった。あのとき私が「うん」と言ったのは、正しかったのか、間違ってたのか。今でもわからない。わからないまま、何十年も過ぎた。


 立ったまま、しばらくそこにいた。

 海は何もしなかった。ただ青く、静かに、そこにあった。


 車に戻った。

 シートに座って、フロントガラスの向こうを見た。燃料計は半分を少し下回っていた。来た道を戻れば次の町まで行ける。ガソリンも入れられる。計算はできた。


 でもエンジンをかけなかった。


 ハンドルに手を置いたまま、しばらく動けなかった。

 行き先を入れていないナビ画面だけが光っていた。


 エレンが死んでから、私はずっと何かに向かって移動していたような気がする。でもその先が何なのか、ろくに考えないようにしてきた。


 この町を出た日のことを思い出した。

 バックミラーの中で町が小さくなっていって、海が見えなくなって、空と水平線の境目が消えた。あのときは前だけを見て走った。ただ離れたかった。


 それから何十年経って、またここに戻ってきた。

 戻ってきても、エレンはいなかった。海だけが残っていた。

 町は静かだった。海も静かだった。

 それだけだった。


 フロントガラスの向こうで、光がゆっくり傾き始めていた。

 遠くの外洋だけが、不自然な青をしていた。沿岸の固まった青とは少し色が違う。何かがまだ残っているような色だった。何が残っているのかは、わからない。


 私はただそれを見ていた。

 見ていることしかできなかった。答えは出ないまま、光は傾いていった。海は動かなかった。波は来なかった。ただ青く、静かに、そこにあり続けた。

 エレンなら、ここで何を見たんだろうと思った。


 エンジンは、まだかけていなかった。

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― 新着の感想 ―
淡々と読み進められる!色をベースにして、明るいものと暗い物を対比させてるのかな?スッと読むには最適。あと続きと終わりがどうなるかというところ!
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