episode 1
夏の終わりが近づいた午後だった。
ハイウェイを降りて、海岸沿いの道に入った瞬間、初めてあの町が見えた。丘が途切れたところから急に海が広がって、小さな桟橋が浮かんでいた。
白いペンキがところどころ剥げた看板が立っていて、町の名前が薄く書いてあった。
エレンが窓をガラッと下げた。潮の匂いが一気に車の中に入ってきた。
「ここよ」
本当に普通に言っただけだった。でもその声の感じが、今でも耳の奥に残ってる。
結婚してまだ三週間しか経ってなかった。式は身内だけ呼んで小さなやつにした。新婚旅行なんて結局しなかった。
エレンがネットか何かでこの町を見つけてきて、春先に一度二人で見に来て、「ここに住もう」って決めた。
私の方はたまたま仕事のあてがあった。エレンは「何か探してる」みたいなことを言ってたけど、具体的に何なのかは最後まで教えてくれなかった。私もあんまり突っ込んで聞かなかった。あの頃はそういう感じだった。
アパートは漁港から歩いて十分くらいの場所にあった。古い二階建てで、一階には別の家族が住んでた。二階の部屋は狭くて、台所と居間がくっついていて、寝室は一つだけ。窓からは空と水平線がほとんど同じ高さに見えた。
海っていうより、海の切れ端みたいだったけど、エレンはその窓がすごく気に入った。私もまあ、それでいいかと思った。
荷物を運び入れてる間、道路をトラックが何台も通っていった。観光シーズンが終わりに近づいてて、カヌーを積んだ車がどんどん帰っていくところだった。
それでもまだ人は残ってて、アイスクリーム屋は開いてたし、駐車場には県外ナンバーの車が何台か止まってた。桟橋の先では釣り人が三人、だいぶ間を空けて竿を垂らしてて、砂浜の端っこを子供が二人、自転車で走ってた。
その夜、二人で海辺を歩いた。
砂はまだ昼の熱を少し持ってて、波は静かだった。遠くに貨物船の灯りが小さく見えた。エレンは靴を脱いで波打ち際まで行って、振り返った。何か言おうとしてやめて、ふっと笑った。私もつられて笑った。
今でも思うけど、あのとき何で笑ったんだろう。理由なんてなかったんだと思う。
次の夏が来た。
私は港の近くの倉庫会社の経理で働いてた。魚を扱う業者で、仕事自体は別に面白くなかったけど、なんとか続けられた。朝七時に出て、五時に帰る。それだけの毎日。
エレンは町の小さな雑貨屋「ブルーシェル」でパートを始めた。貝殻のアクセサリーとか、地元の人が作った変な陶器とか、なんに使うかわからない小物が並んでる店だった。
客は半分観光客、半分地元の常連。エレンはその店が好きで、店主のばあちゃんともすぐに仲良くなった。
町には独特の朝の匂いがあった。
夜明けに漁船が出ていって、昼前くらいに戻ってくる。水揚げの声、エンジンの音、カモメの鳴き声が混ざって、港の方から風に乗って流れてきた。
最初のうちは毎朝その音で目が覚めて「今日も漁が出てるな」って確認してたけど、だんだんそれが普通になった。そのうち、聞こえない朝の方が落ち着かなくなった。
休みの日はいつも海辺を歩いた。
海水浴場の方は夏になると観光客でごちゃごちゃするから、私たちは桟橋の反対側、岩場へ続く細い道をよく歩いた。岩の間に潮が溜まる小さなプールみたいなところがあって、エレンはそこで貝を拾うのが好きだった。いい貝が見つかると店に持って帰って、ばあちゃんに自慢してた。ばあちゃんはいつも大げさに喜んでくれた。
夕方、桟橋の端に腰かけて海を眺めることも多かった。
エレンは本当にただ海を見てた。水平線の方をじっと見て、ほとんど何も言わない。私は一度だけ聞いたことがある。
「何考えてんの?」
「何も」
「何も考えないって、どんな感じ?」
「頭ん中が空っぽになる。海見てるとそうなるよ」
私はよくわからなかった。でも横に座って、同じ方向を見てみた。波の音がして、遠くで漁船のエンジンが聞こえて、カモメが一羽、水面すれすれを飛んでった。しばらくそうしてると、確かに何か薄くなる感じがした。頭じゃなくて、体の境界がぼやけるような。
波の音だけ聞いてると、時間の感覚が少し薄くなる気がした。
彼女の顔色が変わり始めたのがいつ頃だったか、正確には覚えてない。
秋が来て、冬が来て、また春が来た。
春先になると、エレンは窓を開ける時間が増えた。まだ寒いのに、海の匂いを部屋に入れたがった。
「落ち着くの?」
と聞くと、少し考えてから、
「たぶん」
と笑った。
その間のどこかで、エレンの顔から少しずつ色が抜けていった。
朝、起きるのに時間がかかるようになって、食欲も落ちて、すぐ疲れるって言うようになった。
最初は季節のせいかと思ってた。次に仕事が合わないのかと思った。でも違った。
病院を何軒か回って、病名がわかった。名前がついたら治る道筋もあるんだと思ってた。最初は本当にそう思ってた。
治療が始まってからも、エレンはほとんど弱音を吐かなかった。つらいとか怖いとか、めったに言わなかった。私に心配かけたくなかったんだろうなって、後になって気づいた。
ただ一度だけ、夜中に目が覚めたら、エレンが暗い部屋で窓の方を見て座ってた。電気もついてなくて、ただぼんやり外を向いてる。
「どうした?」
「波の音が聞こえる」
アパートから海までは歩いて十分以上ある。波の音なんか聞こえるはずがない。でも私は「うん」って言った。それ以外に何も言えなかった。
エレンはまた窓の方を向いた。私は隣に座った。外は真っ暗で、波の音はしなかった。
翌年の初夏に、エレンは死んだ。
葬儀を終えて、荷物をまとめて、アパートを出た。手続きがいろいろあって、町を離れたのは秋も深くなってからだった。
出る朝、港の方からいつもの漁船のエンジン音が聞こえた。町は何も変わってなかった。
桟橋の先では、前と同じように誰かが釣りをしていた。
ブルーシェルの前を通るとき、車を止めることも、海を見ることもせずにアクセルを踏んだ。
ハイウェイに出てから、しばらくバックミラーばかり見てた。町はもう見えなくなって、空と海の境目も消えていた。
それ以来、私は一度もあの町に戻っていない。
戻りたいと思ったことはあった。でも、何しに戻るのかがわからなかった。時間が経つにつれて、その答えはますます遠くなった。
だから戻らなかった。ただそれだけのことだ。




