episode 2
朝、目が覚めるたびに最初にやることが変わっていた。
スマホを見るより先に、壁を見る。自分の影があるか確認する。あれば普通だ。普通なら安心できる。安心してから起き上がる。それが習慣になっていた。
おかしいとはわかっていた。確認しなければ安心できない時点で、もう普通じゃない。
でもやめられなかった。確認しないまま動こうとすると、どこかが引っかかる感じがする。
眠れていなかった。電気をつけたまま寝るようになっていた。消すと暗くなる。暗くなると影の輪郭がはっきりする。それが嫌だった。つけたまま寝ると今度は眠りが浅くて、夜中に何度か目が覚めた。
目が覚めるたびに壁を見た。普通だった。また寝た。また目が覚めた。その繰り返しだった。
大学では、歩きながら足元を見る癖が抜けなかった。自分でも気づいていたが、前を向いて歩くと今度は他人の影が視界に入ってきて、それはそれで気になった。どちらを向いていても落ち着かない。
講義中、前の席の男子が立ち上がった。
教授に質問があると言って、席を離れた。その瞬間、影だけが一瞬遅れた。体はすでに動いているのに、影だけが座ったままの形で残って、次の瞬間には消えていた。
瞬きした。男子は普通に歩いていた。影も普通についていた。
周りを見た。隣の席も、後ろの席も、誰も気にしていなかった。教授も黒板を向いたままだった。
俺だけが見ていた。俺だけに見えていた。
それが一番気持ち悪かった。
その夜、スマホを見ていると似たような投稿が流れてきた。
「最近影おかしくね」
「夕方の写真バグる」
「影だけズレることない?」
笑い混じりの文体で書かれていた。リプライも似たようなものだった。
「わかる」
「光の加減じゃね」
「秋だからかな」
大きく騒いでいる人はいなかった。
ニュースでは光学現象だと言っていた。大気の条件、秋特有の屈折率の変化。専門家がそれらしい言葉で説明していた。
俺は画面を見ながら、それが正しいのかどうか判断できなかった。正しいと思いたかった。
でも横断歩道で見たものも、ガラスの通路で見たものも、光学現象では説明しにくかった。
スマホを置いて、天井を見た。電気をつけたまま目を閉じた。
バイトに入ってから、反射する面を意識して避けるようになっていた。
ガラス張りの通路、黒く光る床、ショーウィンドウの表面。どれも視線を逸らして通り過ぎた。
でも完全には避けられなかった。避けようとするほど、意識がそっちに向いた。結局どこかで見てしまって、そのたびに確認して、普通だと確かめて、また歩いた。
田所さんと一緒に夜の巡回をしていたとき、田所さんが立ち止まった。
「ちょっと待って」
スマホで何かメモするのかと思って俺も止まった。
田所さんの影が、数歩先へ進んだ。
田所さんは止まっていた。影だけが、廊下の先に向かって動いていた。
瞬きした。影は田所さんの足元に戻っていた。
「どした」
「いや、何でもないです」
言えなかった。言ったところで、再現できないものを説明する言葉が見つからなかった。
監視室に戻って録画を確認した。
自分の巡回映像を出した。再生した。普通に歩いていた。停止する寸前のコマで、影がカメラ側を向いているように見えた。
また同じだった。
停止して、戻して、再生した。確認できなかった。そのコマがどこにあるかわからなくなった。何度繰り返しても、普通の映像しか出てこなかった。
録画を閉じた。画面が暗くなった。暗い画面に自分の顔が映った。その後ろに影があった。俺の後ろの壁に、俺の影が映っていた。それだけだった。普通だった。
わかってはいた。普通だと確認するたびに、何かが少しずつ削れていく感じがした。
深夜、アパートのトイレへ起きる。
廊下に出ると、天井の照明が影を作っていた。いつもと同じ場所のはずなのに、影の向きが照明の位置と合っていなかった。光源は廊下の中央にある。影は壁際に出るはず。
でも影が斜めに伸びていた。光のない方向から来ているみたいに見えた。
見ないようにした。トイレに入って、用を済ませて、出た。廊下を早足で戻った。部屋に入って、ドアを閉めた。布団に入って、電気をつけたまま目を閉じた。
朝まで何度か目が覚めた。そのたびに壁を見た。普通だった。
翌日の夕方、駅前を歩く。
帰宅ラッシュが始まる少し前で、人が多かった。西日が強くて、みんなの影が長く伸びている。
ふと気づいた。
人混みの中に、影がない人間がいた。
一人だった。普通に歩いていた。周りの人と同じように。でも足元に影がなかった。
瞬きした。見失った。
人の流れに紛れて、どこにいるかわからなくなった。周りを見回したが、全員普通に影があった。
見間違いかもしれなかった。でも、見た。確かに見た。
駅の改札を通りながら、後ろを振り返った。普通の夕方の駅前だった。
その夜のバイト中、停電が起きた。
館内の照明が一斉に落ちた。非常灯だけが点いた。緑がかった薄い光が通路に広がった。
田所さんが「電気屋に連絡する」と言って監視室へ向かった。俺は懐中電灯をつけて、持ち場の通路に残った。
光を壁に向けると、自分の影が映った。普通だった。歩き出すと、影もついてきた。普通だった。
曲がり角の手前で、影だけが先に曲がった。
俺はまだ直進していた。でも影は角を曲がっていた。壁の向こうへ消えていった。
足が止まった。懐中電灯を持ったまま、その場に立っていた。
角を曲がった。
誰もいない。でも壁一面に影がある。
人間はいない。光源は俺の持つ懐中電灯だけだ。それなのに壁に影が複数あった。立っているものも、揺れているものも、ゆっくり動いているものもあった。形は人の形だった。でも人はいない。
影だけがそこにあった。
息を止めた瞬間、非常灯が全部復旧した。
壁は普通だった。何もなかった。自分の影だけが懐中電灯の光で映っていた。しばらく壁を見ていた。何も起きない。
田所さんの声が遠くから聞こえた。
「復旧したぞ」
「はい」
声が少し掠れてしまった。
徹夜明けの朝、駅前に出た。
通勤と通学の人が重なって、人が多かった。朝日が低い角度から差していて、みんなの影が長く伸びていた。俺は人の流れに乗って歩きながら、ふと足元を見た。
影がなかった。
思わず、立ち止まる。周りの人には影があった。前を歩く男のスーツの影が、アスファルトに伸びていた。横を過ぎた女の人の影が、俺の足元を横切っていった。俺だけ、なかった。
息が止まった。
向かいのビルの壁面が目に入った。
そこに影が立っていた。
俺の影だとわかる。形が俺と同じだった。でも距離がある。道路を挟んだビルの壁に、俺の影が立っていた。
しかも、その隣に別の影があった。
二つの影が向かい合っていた。会話しているように見えた。身振りがあった。一方が動くと、もう一方が応じるように動いた。音は聞こえなかった。距離があるから聞こえないのか、音がないのかわからなかった。
目が離せなかった。
信号が変わった。人の波が動き始めた。俺は立ったままだった。
もう一度ビルを見た。
影が増えていた。
二つだったはずだったのに、三つになっていた。四つになった。どこから来たのかわからなかった。人間はいない。
ビルの壁に影だけが集まっていた。立って、動いて、向かい合っていた。
後ろから肩を押された。人の流れだった。一歩踏み出した。また押された。流れに乗るしかなかった。足が動いた。
ビルの影に向かって、人波が俺を運んでいった。
もう一度振り返ろうとした。
できなかった。




