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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第五色 ブラックサイド――Black Side――
10/20

episode 2

 朝、目が覚めるたびに最初にやることが変わっていた。


 スマホを見るより先に、壁を見る。自分の影があるか確認する。あれば普通だ。普通なら安心できる。安心してから起き上がる。それが習慣になっていた。

 おかしいとはわかっていた。確認しなければ安心できない時点で、もう普通じゃない。

 でもやめられなかった。確認しないまま動こうとすると、どこかが引っかかる感じがする。


 眠れていなかった。電気をつけたまま寝るようになっていた。消すと暗くなる。暗くなると影の輪郭がはっきりする。それが嫌だった。つけたまま寝ると今度は眠りが浅くて、夜中に何度か目が覚めた。

 目が覚めるたびに壁を見た。普通だった。また寝た。また目が覚めた。その繰り返しだった。


 大学では、歩きながら足元を見る癖が抜けなかった。自分でも気づいていたが、前を向いて歩くと今度は他人の影が視界に入ってきて、それはそれで気になった。どちらを向いていても落ち着かない。


 講義中、前の席の男子が立ち上がった。

 教授に質問があると言って、席を離れた。その瞬間、影だけが一瞬遅れた。体はすでに動いているのに、影だけが座ったままの形で残って、次の瞬間には消えていた。

 瞬きした。男子は普通に歩いていた。影も普通についていた。

 周りを見た。隣の席も、後ろの席も、誰も気にしていなかった。教授も黒板を向いたままだった。

 俺だけが見ていた。俺だけに見えていた。

 それが一番気持ち悪かった。


 その夜、スマホを見ていると似たような投稿が流れてきた。


「最近影おかしくね」

「夕方の写真バグる」

「影だけズレることない?」


 笑い混じりの文体で書かれていた。リプライも似たようなものだった。


「わかる」

「光の加減じゃね」

「秋だからかな」


 大きく騒いでいる人はいなかった。

 ニュースでは光学現象だと言っていた。大気の条件、秋特有の屈折率の変化。専門家がそれらしい言葉で説明していた。

 俺は画面を見ながら、それが正しいのかどうか判断できなかった。正しいと思いたかった。

 でも横断歩道で見たものも、ガラスの通路で見たものも、光学現象では説明しにくかった。

 スマホを置いて、天井を見た。電気をつけたまま目を閉じた。


 バイトに入ってから、反射する面を意識して避けるようになっていた。

 ガラス張りの通路、黒く光る床、ショーウィンドウの表面。どれも視線を逸らして通り過ぎた。

 でも完全には避けられなかった。避けようとするほど、意識がそっちに向いた。結局どこかで見てしまって、そのたびに確認して、普通だと確かめて、また歩いた。


 田所さんと一緒に夜の巡回をしていたとき、田所さんが立ち止まった。


 「ちょっと待って」


 スマホで何かメモするのかと思って俺も止まった。

 田所さんの影が、数歩先へ進んだ。

 田所さんは止まっていた。影だけが、廊下の先に向かって動いていた。

 瞬きした。影は田所さんの足元に戻っていた。


「どした」

「いや、何でもないです」


 言えなかった。言ったところで、再現できないものを説明する言葉が見つからなかった。


 監視室に戻って録画を確認した。

 自分の巡回映像を出した。再生した。普通に歩いていた。停止する寸前のコマで、影がカメラ側を向いているように見えた。

 また同じだった。

 停止して、戻して、再生した。確認できなかった。そのコマがどこにあるかわからなくなった。何度繰り返しても、普通の映像しか出てこなかった。

 録画を閉じた。画面が暗くなった。暗い画面に自分の顔が映った。その後ろに影があった。俺の後ろの壁に、俺の影が映っていた。それだけだった。普通だった。

 わかってはいた。普通だと確認するたびに、何かが少しずつ削れていく感じがした。


 深夜、アパートのトイレへ起きる。

 廊下に出ると、天井の照明が影を作っていた。いつもと同じ場所のはずなのに、影の向きが照明の位置と合っていなかった。光源は廊下の中央にある。影は壁際に出るはず。

 でも影が斜めに伸びていた。光のない方向から来ているみたいに見えた。

 見ないようにした。トイレに入って、用を済ませて、出た。廊下を早足で戻った。部屋に入って、ドアを閉めた。布団に入って、電気をつけたまま目を閉じた。

 朝まで何度か目が覚めた。そのたびに壁を見た。普通だった。


 翌日の夕方、駅前を歩く。

 帰宅ラッシュが始まる少し前で、人が多かった。西日が強くて、みんなの影が長く伸びている。


 ふと気づいた。

 人混みの中に、影がない人間がいた。

 一人だった。普通に歩いていた。周りの人と同じように。でも足元に影がなかった。

 瞬きした。見失った。

 人の流れに紛れて、どこにいるかわからなくなった。周りを見回したが、全員普通に影があった。

 見間違いかもしれなかった。でも、見た。確かに見た。

 駅の改札を通りながら、後ろを振り返った。普通の夕方の駅前だった。


 その夜のバイト中、停電が起きた。

 館内の照明が一斉に落ちた。非常灯だけが点いた。緑がかった薄い光が通路に広がった。


 田所さんが「電気屋に連絡する」と言って監視室へ向かった。俺は懐中電灯をつけて、持ち場の通路に残った。


 光を壁に向けると、自分の影が映った。普通だった。歩き出すと、影もついてきた。普通だった。

 曲がり角の手前で、影だけが先に曲がった。

 俺はまだ直進していた。でも影は角を曲がっていた。壁の向こうへ消えていった。

 足が止まった。懐中電灯を持ったまま、その場に立っていた。

 角を曲がった。


 誰もいない。でも壁一面に影がある。

 人間はいない。光源は俺の持つ懐中電灯だけだ。それなのに壁に影が複数あった。立っているものも、揺れているものも、ゆっくり動いているものもあった。形は人の形だった。でも人はいない。

 影だけがそこにあった。


 息を止めた瞬間、非常灯が全部復旧した。

 壁は普通だった。何もなかった。自分の影だけが懐中電灯の光で映っていた。しばらく壁を見ていた。何も起きない。

 田所さんの声が遠くから聞こえた。


「復旧したぞ」

「はい」


 声が少し掠れてしまった。


 徹夜明けの朝、駅前に出た。

 通勤と通学の人が重なって、人が多かった。朝日が低い角度から差していて、みんなの影が長く伸びていた。俺は人の流れに乗って歩きながら、ふと足元を見た。


 影がなかった。

 思わず、立ち止まる。周りの人には影があった。前を歩く男のスーツの影が、アスファルトに伸びていた。横を過ぎた女の人の影が、俺の足元を横切っていった。俺だけ、なかった。


 息が止まった。

 向かいのビルの壁面が目に入った。

 そこに影が立っていた。

 俺の影だとわかる。形が俺と同じだった。でも距離がある。道路を挟んだビルの壁に、俺の影が立っていた。


 しかも、その隣に別の影があった。

 二つの影が向かい合っていた。会話しているように見えた。身振りがあった。一方が動くと、もう一方が応じるように動いた。音は聞こえなかった。距離があるから聞こえないのか、音がないのかわからなかった。

 目が離せなかった。


 信号が変わった。人の波が動き始めた。俺は立ったままだった。

 もう一度ビルを見た。

 影が増えていた。

 二つだったはずだったのに、三つになっていた。四つになった。どこから来たのかわからなかった。人間はいない。

 ビルの壁に影だけが集まっていた。立って、動いて、向かい合っていた。


 後ろから肩を押された。人の流れだった。一歩踏み出した。また押された。流れに乗るしかなかった。足が動いた。

 ビルの影に向かって、人波が俺を運んでいった。

 もう一度振り返ろうとした。

 できなかった。

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