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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第六色 グリーンウィスパー―― Green Whisper
11/20

episode 1

 三月の終わりは、雨上がりの匂いがした。


 商業施設の搬入口から入ると、床がまだ少し湿っていた。洗剤と水と、その下に隠れた花の匂いが混ざってる。

 エプロンの紐を後ろで結びながら、バックヤードへ向かった。六年もやってると、この動作はもう考えなくても手が勝手に動く。


 冷蔵ケースのモーターが低く唸っていた。開店前の店はいつも静かだ。人の声がなくて、光が均一で、花だけがそこにある。嫌いじゃない時間だった。


 岩手の実家は神社で、子どもの頃から朝の境内が好きだった。誰もいない、音の少ない場所に慣れている。東京に来て長いけど、こういう静かな場所に入ると、まだ少し安心する。花屋を選んだのも、実はそのせいかもしれないと、たまに思う。


 店長がシャッターを上げながら声をかけてきた。


「今週は桜が多いよ。開花が早いみたいで」

「市場、混んでました?」

「すごかったよ。もう春ってより夏みたいな暑さでさ」


 店長は五十代で、毎朝市場へ行って自分で仕入れてくる。その目利きは信用していた。今日の段ボールを開けても、いい状態のものばかりだった。


 桜の枝を一本ずつ確認しながら、バケツに立てていく。

 その一本が、少し違った。

 最初は気のせいだと思った。切り口がまだ湿っていた。輸送後なのに、指で触るとぬるっとする。枝自体も妙に柔らかくて、力を入れてないのに少ししなる。花芽の数も他のより明らかに多かった。


「これ、状態いいですね」

「そう? 普通じゃね?」


 並べてみると確かに似てる。私が気にしすぎてるだけかと思って、一番奥のバケツに立てて作業を続けた。


 開店後は客が途切れなかった。卒業シーズンで花束の注文が多い。ラッピングして、レジ打って、水替えして、気づいたら夕方になってた。


 閉店後、バックヤードで残った桜を整えていた。

 水の中で茎を斜めに切る。水切りってやつだ。空気が入らないようにするだけの単純作業だけど、集中する。ハサミを動かして、次の枝へ、また次の枝へ。


 そのとき、滑った。

 刃が指の腹をかすった。大した傷じゃない。じわりと血がにじむ程度のやつだ。でも、切った瞬間に感じたものが少し変だった。


 痛みより先に、湿った柔らかい感触があった。血の感じとはちょっと違う、生温かくて、どこか植物みたいな。指を見ると普通に赤い。水で洗って、絆創膏を貼った。それだけだった。


 帰り道、駅のホームで音を聞いた。

 擦れるような、小さな音。最初はコートの袖かと思った。次に風で広告が揺れてるのかと思った。でも広告は動いてない。

 音は自分のすぐそばだけで聞こえていた。周りの人は誰も気づいていない様子だった。ホームのざわめきの中に、その音だけが妙に近くて、葉が擦れるような、でも植物なんて一本もない場所で。


 電車が来て乗り込んだら、音は消えた。

 ワンルームに帰って鍵を閉めた。

 狭い部屋。ベッドと机と小さな棚。窓際にポトスと多肉が二鉢だけ。花屋やってるからって家に花をたくさん置く気にはなれない。仕事で十分世話してるから。


 洗面台で手を洗いながら絆創膏を剥がした。傷は浅くて、もう血は出てない。でも指の周りがうっすら緑がかって見えた。蛍光灯のせいかと思って角度を変えても、まだうっすら緑がかっていた。腫れても痛くもない。スマホで写真撮ったら、普通の肌色だった。

 目と画面で見たものが違う。どっちが正しいのかわからなくて、とりあえず新しい絆創膏を貼り直した。


 夜、眠れなかった。

 部屋は静かだった。外の車の音が遠くにあって、冷蔵庫が時々唸る。それだけのはずなのに、カーテンが擦れるような音がした。窓は閉まってるし、風も入ってこない。カーテンも動いてない。でも音はする。葉擦れみたいで、時々水の流れる音にも似ていた。声じゃない。ただ何かが通り過ぎるような。

 一度消えて、また聞こえて。規則性がない。呼吸みたいだと思ったけど、そんな音、聞いたことないはずだった。六年、花と毎日一緒にいるのに、そんなこと知ってるはずなのに。


 結局、明け方近くまで起きてた。

 翌朝、店に着いて最初に気づいたのは、花の様子だった。

 昨日水が切れかけていたスイートピーが、妙に元気だった。茎に張りがあって、花びらも生き生きしてる。店長が奥から出てくる。


「昨日入れ替えるつもりだったのに、なんか持ち直してるね」


 私は閉店前に水を替えたことを思い出した。ただ感覚的に気になって替えただけ。でもなぜあのバケツだけ替えたかったのか、今は説明できない。


 返事をしようとした瞬間、指先が熱くなった。絆創膏の下の指だった。痛みじゃなくて、ただ熱だけ。


 その日、花の状態が触る前からわかった。

 この水は古くなってる。この根は詰まってる。この枝はまだ大丈夫——言葉じゃなくて、体が先に感じる。六年の経験だと言い張れなくもない。でも今日のは少し違った。知ってるんじゃなくて、聞こえてくる感じだった。


 閉店後、一人で花を整えていた。

 店内は静かで、冷蔵ケースのモーターと、水滴が床に落ちる音と、ハサミの音だけが繰り返されていた。

 その中で、何かを感じた。


 店の中で、何かが一斉に動いた気がした。


 顔を上げた。

 店の奥、バケツに立てた桜の枝が、かすかに揺れていた。

 誰も触っていない。風もない。空調からも離れている。それなのに、一本だけ、ゆっくりと、揺れ続けていた。

 あの、切り口が湿っていた枝だった。

 私はしばらく、そこに立ったまま動けなかった。枝は揺れを止めない。店の中は、相変わらず静かなままだった。

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