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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第六色 グリーンウィスパー―― Green Whisper
12/20

episode 2

 店に入った瞬間、湿度がわかった。


 天気予報は晴れだったし、外は実際に乾いた朝だったのに、ドアを開けた途端に空気の重さが皮膚にまとわりついた。

 冷蔵ケースの結露が少し多めで、土の湿り気が昨日より強い。どこかの鉢の水が多すぎるのも、確認する前からわかった。


 数日前までは、こんなふうじゃなかったはずだ。


 エプロンを結びながら冷蔵ケースを開けた。スイートピーが一束、水が切れかけていた。見る前からそこが気になっていた。バケツの水を替えて、茎を切り直す。指先が少し熱い。絆創膏を貼った指だった。


 店長が段ボールを開けながら言った。


「なんか最近、花の持ちがいいよね。お客さんにも言われるよ」

「そうですね」


 嘘じゃない。ただ、理由は言わなかった。

 午前中は客が途切れなかった。


 四月に入って、入学や新生活の時期と重なってる。花束の注文が多い。ラッピングしてリボン結んで渡して、その間も視界の端で花の状態が次々に入ってくる。

 あの棚の鉢は根が詰まってる。あのガーベラはもうすぐ咲く。カウンターに立ってるのに、体の半分は店の奥に向いてるみたいな感じだった。

 客の声はちゃんと聞こえて、返事もできる。でも以前より遠い。人の声が、妙にうるさく感じるようになっていた。


 昼休み、同僚たちが弁当を広げていた。

 唐揚げの油の匂いがして、ちょっと気持ち悪くなった。自分でもびっくりした。昨日までは普通に食べてたのに。結局コンビニのサラダと水だけにした。


「最近、細くなった?」

「そうかな」


 空腹はなかった。水が妙においしくて、ミネラルウォーターの硬さの違いまで舌でわかった。

 飲みながら、花屋の湿った空気のことを考えてた。あそこにいると体が落ち着く。バックヤードの、花と水と土が混ざった匂いの中にいると、呼吸が楽になる。


 人が多い場所より、植物の多い場所の方が落ち着く。

 いつからそう変わったのか、もうよく覚えてない。


 休憩の終わりに洗面台で手を洗いながら、絆創膏を外した。

 傷は塞がってた。でも周りの皮膚が変わっていた。緑が濃くなって、葉脈みたいな細い線が指の腹から第一関節まで伸びてる。皮膚の質感も少し滑らかで、自分の指なのに触ると違う気がした。


 スマホで写真撮ったら、普通の指だった。


「ちょっと見て」

「何? もう治ってるじゃん」


 見えてない。

 絆創膏を貼り直して、午後の仕事に戻った。

 夕方、店長がスマホの画面を見せてきた。


「うちのこと、載ってるよ」


 SNSで「花が長持ちする」「枯れない」「色が落ちない」みたいな投稿が広がってるらしかった。フォロワーの多い人が取り上げたらしく、午後から急に客が増えた。


「取材の問い合わせも来てる。どうしようかな」


 私は適当に相槌を打った。画面を見ながら、自分が水を替えたバケツのこと、指先の熱のこと、でもそれを誰にも言えないことを考えてた。


 閉店の一時間前、店が混んだ。

 週末前の夕方で仕事帰りの客が重なって、レジに列ができた。私はカウンターの中で息を浅くして立っていた。人の気配が重い。声がうるさい。


 それと同時に、店内の植物の状態が波みたいに流れ込んでくる。あのチューリップは暑がってる。ユーカリが乾いてる。薔薇がもうすぐ開く。それが全部同時にわかる。

 客の顔より、花の状態の方が鮮明だった。接客しながら、自分が何を優先してるのか、少しずつずれていくのがわかった。


 閉店後、一人になった。

 バックヤードで作業してると、体が落ち着いた。人の声がなくなると、植物の気配だけが残る。静かだった。静かというより、聞き慣れた場所にいる感じ。


 桜の枝を整えていて、あの枝が目に入った。

 咲いていた。三月末に搬入されて、もう二週間以上経ってる。切り花がこんなに持つはずがないのに、枝の先に小さな花が開いていた。白に近い淡い色。他の桜はとうに終わってるのに、この枝だけが季節を無視して咲いてた。


 手を伸ばした。

 指先が枝に触れた瞬間、店内が静かになった。違う。音が聞こえなくなったんだ。冷蔵ケースのモーターも、外の車も、自分の呼吸も消えた。何も聞こえない中で、何かだけがあった。音じゃない。流れでもない。ただそこにあるものの、重さみたいなもの。


 手を離したら、音が戻った。

 私はしばらく、その枝の前に立っていた。植物が何かを伝えてるんじゃない。自分の感覚が変わったんだと、そのときやっと理解した。

 どっちが先だったのかはわからなかった。ただ、手を離したあとも、指先の熱だけは残っていた。


 翌日、店長に退職を申し出た。

「急すぎる。何かあった?」

「少し、疲れてしまって」


 それだけ言った。嘘じゃない。店長は黙ってたけど、最終的には引き止めなかった。


 六年いた店だった。特別な感慨はなかった。最後に冷蔵ケースの水を替えて、花を見渡した。


 岩手へ帰った。

 早池峰の麓の実家。父も母も何も聞かなかった。久しぶりの娘に飯を出してくれた。私は食べながら、窓の外の杉を見てた。


 翌朝、山へ入った。

 子どもの頃から知ってる湧水の場所。苔が厚くて、杉の根が地面に広がって、山霧が低く漂ってた。

 スマホは圏外。山へ入ってから、一度もスマホを確認していないことに途中で気づいた。

 むしろ東京にいたときずっと感じてた何かが、ここでは感じなかった。水の音がわかった。土の柔らかさが足裏から伝わってきた。風がどこから来るかも皮膚でわかった。

 そのまま奥へ歩いた。

 音が静かになるほど、霧の向こうに、水の匂いが濃くなった。


     ◇


 その春、地元の老夫婦が山道で話していた。


「あんな木、前からあったかね」


 若い木々の間に一本だけ、違う木があった。幹は細くてまだ若い。

 でも枝の伸び方が少し違ってる。淡い花が咲いていた。桜とも違う、名前のつけにくい色だった。

 風が来た。

 葉が擦れた。

 それだけだった。

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