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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第七色 ゴールドラッシュ―― Gold Rush――
13/20

episode 1

夜中の二時を過ぎていた。


 地下診療所の蛍光灯は一本だけチラついていて、ずっと交換していない。患者がそれを気にするような立場にないから、俺も放っておいている。

 台の上に男が横たわっていた。三十前後、右の脇腹に銃創。出血は止まりかけているが、弾が浅いところに残っている。

 ギャングのやつで、名前は聞いていない。聞く必要がない。連れてきた男が金を払った。それだけで十分だ。


 壁のテレビが音を垂れ流していた。誰かが点けっぱなしにしたやつで、消す理由もなかった。


「金市場に異常。複数の鉱山で採掘された金属に変質が確認され、専門家の間で原因究明が――」


 俺はピンセットで弾を挟みながら、半分だけ聞いていた。金塊が鉛になっているとか、偽物疑惑が広がっているとか、そういう話らしかった。

 金持ちの問題だ、と思った。脇腹を縫いながら、テレビの音が遠くなった。


 翌日の夕方、女が子供を連れてきた。

 三十代くらいで、コートが古かった。子供は五歳か六歳、女の子で、椅子に座らせると足がぶらぶらした。


「歯を見てほしい。変なんです」


 歯科医じゃないと言おうとしたが、女の目が疲れ切っていた。金は持っているか聞いた。持っていると言った。


 子供の口を開かせた。

 奥の乳歯が一本、金色だった。

 被せ物だろうと思った。最近は親が妙なことをする。細工かもしれない。子供が何か飲み込んだのかもしれない。


「いつからこうなってる」

「一週間くらい前から。急に」


 触れると硬かった。金属の感触だった。ライトを当てると、表面が鈍く光った。

 器具で少し削った。中まで同じ色だった。歯の形をそのまま保ちながら、芯まで変質していた。


「痛くないのか」


 子供に聞いた。子供は首を横に振った。


 知り合いの質屋に持ち込んだのは、その夜のことだ。

 女から別の抜けた乳歯を一本もらって、ブロードウェイ沿いの裏手にある店に行った。主人のラウルは俺の客でもある。保険証がないから表の病院に行けない。そういう関係だ。

 ラウルは歯を手に取って、しばらく眺めた。機械にかけた。また眺めた。


「どこで手に入れた」

「患者から」

「本物の金だ。しかも純度が異常に高い。市場に出回ってる金より上」

「子供の乳歯だぞ」

「それでも本物だ」


 ラウルは言った。


「むしろこっちの方が今は高く売れる。市場の金が信用されてないから」


 俺は歯を受け取って、ポケットに戻した。


 その週からニュースの調子が変わった。

 金市場の混乱が本格的になった。主要な鉱山で採掘した金属が軒並み変質している。保管していた金塊が鉛に変わっているという報告が相次いだ。

 銀行が取引を停止した。宝飾業界が声明を出した。テレビのコメンテーターが難しい顔で喋っていた。


 同じころ、SNSで別の話が広がり始めた。


「Tooth Gold」

「Golden Child」


 子供の乳歯が金になっているという投稿が、最初はジョーク混じりに、そのうちに真剣な調子で流れてきた。写真もあった。動画もあった。


 診療所に人が来るようになったのは、その少し後だ。


 最初は一人だった。子供を連れた母親で、抜けかけている乳歯を見てほしいと言った。確認した。金だった。次の日も親子連れが来た。その次の日は二組来た。

 俺は歯を確認して、状態を伝えた。それだけだった。歯科医じゃないと最初に言ったが、他に行ける場所がないと言われた。保険がない。英語が怪しい。表の病院に行けない事情がある。そういう人間が来た。

 別に構わないと思っていた。金は払ってもらえる。こっちは見るだけでいい。


 医師仲間のコリンから話を聞いたのは、十日ほど経ったころだ。

 コリンは産科で、俺とは別のルートで裏の仕事をしている。会うと情報交換をする習慣があった。


「乳歯の件だが。データを見ると傾向がある。永久歯に生え変わると、金化は消える」

「全員か」

「今のところは……な」


 つまり期間が決まっている。乳歯がある間だけ。子供が成長すれば終わる。


「ということは」

「乳歯の間だけ価値がある」


 コリンは静かに答えた。しばらく二人とも黙っていた。


 街の空気がおかしくなったのは、そのあたりからだ。


 地下鉄の車内は妙に静かだった。

 誰も喋っていない。スマホを見ているか、俯いているか、そのどちらかだった。

 次の駅で、若い母親が子供を連れて乗ってきた。男の子は眠そうな顔で母親の腕を引いている。


 その瞬間、車内の空気が少し変わった。

 誰かが顔を上げた。

 向かいの男が子供を見た。隣の女も見た。離れた席の老人も、スマホから目を上げた。全員、同じ場所を見ていた。


 子供の口元だった。

 男の子は何も気づかず欠伸をした。小さな乳歯が見えた。すぐに全員が視線を戻した。


 地下鉄は何事もなかったように揺れていた。俺は次の駅で降りた。目的の駅じゃなかった。


 子供の失踪が増えた。歯科医院が夜中に荒らされた。

 路地裏では、小さな乳歯を透明な袋に入れて売る連中まで現れた。

 乳歯の取引価格は週ごとに上がっていった。


 ニュースは「デマに注意」と繰り返したが、現場では違うことが起きていた。

 診療所にギャングが来たのは、ある水曜の夜だった。

 デイモンという男で、以前腕を診たことがある。今回は別の用件で来た。


「子供の歯を抜いてくれ」


 断った。


「金は出す」


 数字を言った。一瞬、手が止まった。断った。


「母親も了解してる。一本だけ。無理やりじゃない」


 後日、その母親が子供を連れて来た。二十代の女で、目の下が落ちくぼんでいた。


「一本だけ。お願いします。家賃が払えなくて」


 子供は六歳くらいだった。椅子に座って、診療室をきょろきょろ見ている。

 俺は道具を並べた。麻酔を打った。子供が泣き始めた。

 手が少し止まった。でも続けた。抜いた。

 子供の泣き声が止まらなかった。女が子供の手を握っていた。俺はガーゼを当てながら、壁の方を向いた。


 その後も、街の変化は止まらなかった。

 指輪より乳歯の方が高く売れるという話が出回った。宝石店が閑古鳥で、歯を買い取る業者が路上に現れる。人々の視線が変わった。


 俺にも変化があった。

 子供連れが診療所の前を通るとき、無意識に口元を見るようになった。気づいて、やめようとした。でも次に子供を見ると、また口元に目が行った。


 深夜、妊婦が担ぎ込まれてきた。

 腹部を押さえて、震えていた。顔に痣があった。

 処置しながら話を聞いた。最初は黙っていたが、やがて話した。


「連れて行かれそうになった。まだ腹の中なのに」


 女はそれだけ言って、震えていた。

 俺は縫合を続けながら、その言葉を聞いていた。

 未来が金になる。生まれる前から、価値が決まっている。

 それが今の街だった。


 夜中、診療所に一人で残った。

 机の上に小さな乳歯が置いてあった。ライトの下で、静かに金色に光っていた。

 外でサイレンが鳴った。遠くで子供の声がした。泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。


 引き出しからペンチを取り出した。

 しばらく手の中で転がしていた。

 それから予約表を引き寄せた。

 翌日の欄に、手書きで書いてあった。――親子二名、十時。


 ペンチを握ったまま、ライトを消した。

 歯だけが、暗い中でわずかに光っていた。

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