episode 2
振り返ると、その人はまだそこにいた。
白い粒の中に、輪郭だけが浮かんでいる。距離があるはずなのに、近く感じたり遠く感じたりする。さっきから目が合ったままだった。
何か言おうとして口を開いた。声が出ているのか、自分でもわからない。相手の口も動いているが、音は一つも届いてこない。
信号が変わった。周りの人たちが一斉に歩き出す。流れに押されるように一歩踏み出す。ぶつかると思った瞬間、何も触れない。空気の中を通り過ぎるように、体が抜けた。
慌てて足を止めて振り返る。やっぱりまだいる。同じようにこちらを向いて、じっとしている。それだけだった。背中に視線を感じたまま、駅へ向かって歩いた。
次の朝、白はさらに増えていた。
目を開けた瞬間、視界が白で埋まっている。昨日より粒が大きくて、顔の前を横切るたびに景色が少し曇る。
カーテンを開けると、外は強い日差しだった。暑さは変わらない。なのに私の周りだけ白が舞っている。
顔を洗い、歯を磨き、髪をまとめる間も、白は消えない。鏡に映る自分の顔が、瞬きのたびに一瞬ぼやける。その時間が妙に長く感じる。
電車に乗る。人の気配はするのに、どこか遠い。すぐ隣に誰かが立っているはずなのに、肩が触れそうで触れない。試しに腕を伸ばしてみると、何もない空間をなぞるだけだった。白がゆらゆら流れる。誰も気づいていない。
会社でも同じだった。
エレベーターで軽く会釈しても、相手の視線はすぐに逸れる。わざと避けているというより、最初から合っていない感じがした。
席に着くと、いつものように書類が置かれていた。内容を確認して、入力して、まとめていく。作業自体は普通に進む。終わった書類を机の端に置いて席を外し、戻ってきたらなくなっていた。誰かが回収したんだろうが、誰が持っていったか見ていない。周りの席を見回しても、みんな自分の画面に向かっていて、こちらに気づいている気配がない。
「……これ、さっきのやつなんだけど」
声をかけようとして、途中でやめた。反応がない。聞こえていないのか、最初から声が届いていないのか、どちらかわからない。
昼休み、弁当を開けた。白が箸の先で消える。味は普通なのに、食べている感じがしない。周りの話し声が、遠くから聞こえてくるみたいだった。
席を立って廊下に出た。コピー機の前に、同僚が立っている。横顔はいつものままで、原稿台に紙を置く手つきに見覚えがある。
近づく。距離はすぐそこのはずなのに、届かない。もう一歩出しても、同じだけ離れている気がする。名前を呼ぼうとして口を開く。声は出ているのに、届かない。
同僚は顔を上げない。トレイに紙が重なる。手を伸ばす。触れない。指先の手前で止まる。
その横を通り過ぎる。肩は触れない。振り返る。同僚はそのまま、紙を揃えている。こちらを見ない。
さっきまでいた自分の席が見える。椅子は引かれたまま。背もたれに掛けた上着が、揺れていない。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。すぐ横を通り過ぎる。風もないのに、白だけが流れた。
帰り道、改札の手前でまたあの人を見た。
こっちを見ている。目が合うと、すぐわかった。あの人も同じだ。近づいても手応えがない。触れられる距離まで来ても、何も起こらない。そのまますり抜ける。振り返ると、向こうも振り返っていた。言葉はない。ただ目が合う。それだけだった。
次の日には、そんな人がもう一人増えていた。
通勤路の途中で、白の中に別の白がある。近づくと目が合う。声は届かない。触れない。でもそこに誰かがいることだけはわかる。
会社でも、書類は置かれ、処理して、なくなっていく。その繰り返しだけが続いた。誰とも話さない。視線も合わない。
白がどんどん濃くなる。画面の文字が揺れる。手元の位置が少しずれる。それでも手を動かし続ける。
帰り道、車の音も人の声も、遠くへ引いていくように薄くなっていった。
自分の足音だけが、少し遅れて聞こえてくる。立ち止まって周りを見た。人はいるはずなのに、みんな遠い。白の中にいる人たちだけと目が合う。いつの間にか、何人もの視線がこちらを向いていた。
その場に立ったまま、動けなくなった。
駅前のはずなのに、距離感がつかめない。白が近すぎる。足元に目を落とす。靴の輪郭が一瞬だけわからなくなる。今日どんな靴を履いていたか、思い出せない。踏み出したはずの足が、見えない。もう一歩出す。自分が立っているのかどうか、わからない。
白が、そのずれを埋めるように流れ込んでくる。
手を伸ばしても何にも触れない。口を開いても自分の声が聞こえているのかわからない。
白の中に人影がいくつもある。全員がこちらを見ている。目だけが合う。それ以上は何もない。
ここは——
いったい、どこなんだろう。




