第二色 ホワイトアウト―― White Out episode 1
七月の日曜、朝から暑かった。
窓を開けた瞬間、熱い空気が部屋に押し込んできた。エアコンは切れない。でも冷蔵庫の中がほとんど空だ。買い物に出ないといけない。
財布とスマホを鞄に入れる。鏡を見る。髪を軽くまとめて、日焼け止めを塗る。それだけでいい。どうせ誰にも会わない。
玄関を出る。廊下もぬるい。どこかの部屋で掃除機が動いていて、下の階から子どもの声がする。いつもの日曜だ。
エレベーターを待つ間、スマホで天気を確認する。晴れ。三十四度。雨マークはない。今日も日差しが強い。外に出るのが億劫だが、食べるものがないのだから仕方ない。エレベーターが来る。一階のボタンを押す。扉が閉まる。
エントランスを出た瞬間、視界の端に白いものが入った。
最初は埃だと思った。細かい白い粒が、ふわりと流れた。足が止まった。周りを見る。風はほとんどない。街路樹の葉も動いていない。空は青い。なのに白いものだけが舞っている。
手の甲に落ちた。冷たくない。濡れない。触れた瞬間、消えた。
もう一度落ちてきた。指先で受ける。やっぱり同じだ。触れると消える。跡も残らない。手のひらで受け止めようとする。雪はそのまま手の上でほどけるように消えた。水滴にもならない。風で飛ぶわけでもない。ただ、なくなる。
振り返る。買い物袋を提げた女性が歩いてくる。私の横をそのまま通り過ぎる。白いものには、まったく反応しない。足も止めない。空も見ない。
見えていない。そう思うしかない。
白は自分の周りだけにある。肩のあたり、手の届く範囲だけ。足元には落ちない。積もらない。ただ私の周りだけで生まれて、私に触れて、消える。
「……何これ」
声に出してみた。答えはない。もう一度周りを見る。誰も気にしていない。
信号が青になって、人が動き始める。私も歩き出す。白はついてくる。
私が動くたびに、前や横でふわりと流れる。髪に触れ、肩に触れ、消える。暑さはそのままだ。汗も出る。なのに、この白だけがある。不快ではない。ただ、そこにある。
信号待ちで隣に立った男を見る。シャツが汗で張りついている。首元を拭っている。スマホを見ている。普通の夏だ。白は男の方へは流れない。私の周りでだけ消えていく。
スーパーに入る。自動ドアが開く。冷気が顔に当たる。白は消えない。店の中でも同じように舞っている。
棚の前でも、レジの前でも変わらない。蛍光灯の光の中でも見える。商品には触れない。私の手元にだけ近づいて、消える。
かごに豆腐と卵、パン、カット野菜を入れる。値札を見るとき、白が数字の前を横切る。見えなくなるほどではないが、少し焦点がずれる。もう一度数字を確認する。いつもより時間がかかる。
レジに並ぶ。前に二人いる。待つ間も白は動いている。前の客のかごの中には見えない。私のかごの縁に近づいて、消える。
「袋はご利用ですか」
「お願いします」
店員は画面しか見ていない。私の顔も、白いものも見ていない。レシートを受け取る。袋を持つ。出口へ向かう。
家に帰るまで、白は消えなかった。部屋に入る。鍵を閉める。エアコンの音がする。買ったものを冷蔵庫に入れて、手を洗う。鏡を見る。白が、まだ舞っている。
洗面所の狭い空間でも同じだ。鏡に映っている。自分の顔の周りで白が揺れているのが見える。顔に近づく白を目で追う。触れると消える。それが繰り返されるだけだ。
ソファに座る。白は変わらずそこにある。テレビをつける。画面の前を白が横切る。音は聞こえる。映像も見える。ただ、白がある。しばらくそのままでいた。
翌朝も、白はあった。
目が覚めたときから視界の中にある。天井を見る。白が舞っている。ベッドの上には積もっていない。シーツも乾いている。夢ではなかった。
顔を洗う。歯を磨く。朝食をとる。白はその間も漂っている。パンの上に落ちても濡れない。コーヒーの表面にも浮かばない。食べたり飲んだりするときに口に入るのかどうか、わからない。味は変わらない。
玄関を出ると、昨日より白がはっきりしていた。粒が少し大きい。数も増えている。朝の光の中でも、はっきりと見える。
通勤電車でも消えなかった。吊革につかまる手の周りで、白が揺れる。隣の人には触れない。私の服に触れて消える。車内は混んでいる。誰かの肩が当たる。白は相手には移らない。私のそばだけにある。
会社に着く。エレベーターに乗る。同じ部署の人がいる。軽く会釈すると、向こうも返す。普通だ。白は見えていない。
席に着いてパソコンを立ち上げる。キーボードの上に白が落ちる。消える。画面の前を横切る。気にしないようにする。気にしないようにしても、視界の端で動いている。
仕事はいつも通りだった。伝票の入力。書類の確認。メールの転送。特別なことは何もない。白がある以外は。隣の席の同僚が話しかけてくる。返事をする。普通に会話が成立する。相手は何も気づいていない。
昼休み、弁当を開ける。白が上に落ちる。消える。味は変わらない。見えているのは私だけ。そう考えるしかない。午後も同じだった。定時になる。帰り支度をする。白はまだある。
三日目、量が増えた。
玄関を出た瞬間、前より濃い。風花というより、もう小さな雪の粒だ。暑さは変わらない。三十五度の予報だった。それなのに白だけが増える。
通勤中、視界が何度か白く曇る。案内表示の文字の前を横切る。読めないほどではないが、はっきりと邪魔になってきた。ホームで電車を待つ間、目を細める。白の量が多いと、少し視界が狭くなる感じがする。
その日の帰りに眼科へ寄った。検査をいくつか受けた。
「異常はありませんね」
そう言われた。次の日、精神科へ行った。問診票を書いて、待合室で待つ。白は待合室でも舞っていた。
「強い異常は見られません」
医師は少し間を置いてから続けた。
「表現はさまざまですが、似た事例が増えています」
理由はわからない、ということだった。私だけではないということだけがわかった。診察室の中でも白は舞っていた。医師には触れない。私の手元でだけ消える。医師はそれを見ていない。
外に出る。七月の空気は変わらない。白だけが、さらに濃くなっている。
帰り道、交差点で立ち止まった。
信号を待つ人の中に、違和感があった。一人、こちらを見ている。目が合う。はっきりと合った。その人の周りにも、白がある。同じだ。同じ白が、その人の肩や手の周りで揺れて、消えている。
距離は数メートル。足を一歩出す。向こうも少し動く。口が動いている。何か言っている。
でも聞こえない。周りの車の音がする。人が横を通り過ぎる。それだけだ。もう一歩近づく。そのまま体が重なり、すり抜ける。
ぶつからない。体温も感じない。ただ、通り抜ける。
振り返る。向こうも振り返る。
目が合う。白が、二人の間で揺れる。それだけだった。




