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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第一色 レッドカーペット―― Red Carpet――
2/3

episode 2

 プリマスに着いたら、空が低く感じた。


 イギリスの曇り空なんて慣れてるはずなのに、今日は雲が頭にのしかかってくるみたいで、息が少し苦しかった。港の方から風が吹いてきたけど、周りの木も看板もほとんど動かない。止まってるみたいだった。


 車のドアを閉めた音が、大きく響いて耳に残った。

 オリバーの研究所は港からも街からも少し離れた白い建物だ。外見はいつも通りだった。ガラス扉に手をかけたら、鍵がかかってなかった。中に入った。

 明かりはついてる。空調の低い音もしてる。機械のランプが規則正しく点滅してる。でも人の気配が全くなかった。

 受付の椅子が半分だけ引かれたまま。パソコンの画面はついたままで、入力途中の文がそのまま残ってる。声をかけた。返事がない。もう一度、大きめに呼んだ。やっぱり何も返ってこない。

 奥へ進んだ。廊下は長くて、扉が半開きと閉まったのが交互に並んでる。足の先に何か当たった。見下ろすと、片方の靴が転がってた。さらに進むと、今度はきちんと揃えられた靴が置いてあった。履いてるはずの人間はいない。

 白衣が床に落ちてた。袖が裏返ったまま広がってる。ズボンも、シャツも、下着まで。少し離れたところに、犬の首輪が落ちてた。金属の金具が冷たく光ってた。リードはついてない。


 建物の中は機械の低い唸りだけが響いてた。止まってるわけじゃない。ただ、生き物だけがいない。

 オリバーの名前が書かれた扉を開けた。

 部屋は整ってた。器具や試薬が、途中で手を止めたみたいにそのまま。画面がいくつか点いたままで、デスクの上にノートが開いてて、水槽がある。

 底に、赤いものがいた。

 あのときと同じ。照明の下で重なり合ってる。数が増えたような気もするけど、はっきりしない。ガラスに顔を近づけて覗き込んだ。動きはゆっくり。でも止まってるわけじゃない。ばらける気配もない。


 蓋が開いてるのに気づいて、手を伸ばした。水はなまぬるかった。掴もうとした瞬間、指先に鋭い痛みが走った。ハサミで切られたような。

 手を引き上げると血が滴る。ティッシュで拭いて、もう一度水槽を見た。赤が底に集まってる。さっき掬おうとした個体がどれなのか、境目がわからない。


 外に出ると、光はあるのに空はまだ低かった。通りにパトカーが止まって、警官が降りてきた。

 関係者かと聞かれて頷いた。連絡が取れないこと、中に誰もいないこと、服だけが残っていること。簡単に説明した。警官は淡々と聞いて、端末に打ち込んでた。


「現時点では失踪事件として扱います。何か気づいたら連絡を」


 警官が車に戻りかけて、ドアを開けたところで手を止めた。座席を覗き込んで、小さくて赤い何かを指でつまんで引きずり出した。それを地面に落として、靴でぐしゃっと踏みつけた。パトカーはすぐに発進して、通りを曲がって消えた。

 私はその場に残された。手の傷をもう一度見て、指を拭った。


 町の中心部に入ったあたりで、違和感がはっきりした。

 信号は動いてる。看板も光ってる。でも人影が一つもない。この時間、この規模の街で、こんなに静かなのはおかしい。

 店のシャッターは上がってるし、看板も出てるのに、客も歩いてる人もいない。


 ハンドルを握ったまま、周りを見回した。

 横の路地から何かが飛び出してきた。

 赤い色の大きな犬だった。甲高い声で鳴きながら、全力で走ってくる。でも足の動きがおかしかった。跳ねるように、無理やり前へ進んでる感じ。数メートル先で急に倒れた。


 車を止めて降りた。近づくと、犬はもう動かない。なのに表面が細かく動いてた。

 赤く見えたのは毛じゃなかった。あのカニだった。びっしり張り付いて、犬の輪郭を隙間なく覆ってる。それらが一斉に剥がれた。

 下から出てきたのは、リードと首輪だけだった。血の跡さえ残ってない。

 周りに人はいない。誰も見てない。私はただそこに立って、それを見ていた。


 どこかで、カリカリと引っ掻くような音がした。建物の影の奥で、何かが動いた。

 車に戻った。エンジンはかけたままだった。アクセルを踏んで発進した。


 警察署の前に車を止めて、中に入った。

 明かりはついてる。受付も開いてる。書類もそのまま。でも人がいなかった。制服だけが残ってる。椅子の背にかかってるもの、床に落ちてるもの。人の形だけがそこにあった。

 奥へ進むと、足音がやけに響いた。少し遅れて返ってくる感じがした。

 耳を澄ますと、カリカリという音があちこちから聞こえた。壁の向こう、床の下、天井のあたり。そこら中に満ちてる。

 慌てて、外へ出た。


 遠くに人影が見えた。こちらへ向かって走ってくる。次の瞬間、その影が膝から崩れた。上半身が前に倒れる。赤い色が服の上を流れるように広がった。あっという間に覆われて、形が崩れた。残ったのは服だけ。風もないのに裾がわずかに動いた。


 周りを見渡した。景色はいつも通りだった。ただ、静かすぎる。

 いや、音はある。カリカリという音だけが、そこら中にある。


 足元を見た。点だったものが、面になっていた。道路の隙間、縁石の影、排水溝の奥から溢れるように出てきて、こちらへ向かって隙間を埋めるように広がってる。


 車に戻ってアクセルを踏んだ。タイヤの下で何かが潰れる感触があった。バックミラーを見たら、後ろの道路が全部赤く覆われていた。途切れない。曲がった先も同じ。前方にも、もう広がってる。


 それでも進んだ。

 カリカリという音が、すぐ近くで聞こえた。耳の後ろあたりで。助手席を見た。何もない。でも音は続く。足元は見なかった。そのままアクセルを踏み続けた。

 音は消えない。むしろ増えてる。

 ハンドルを握り直して、前だけを見た。

 道路は、もう真っ赤だった。


 海底の暗さだけが、頭に残っていた。


 前だけを見た。赤が、続いていた。

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― 新着の感想 ―
海底で見つかった赤いカニが、少しずつ世界を侵食していく流れがとても怖かったです。研究所に人の気配がなく、服や靴だけが残っている描写が静かなのに強烈でした。パニックよりも、音や色や空気の低さで恐怖を積み…
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