episode 2
プリマスへ着いたとき、空が妙に低く感じた。
曇り空には慣れているはずだった。
それなのに今日は、雲が頭へ覆い被さってくるみたいで息苦しい。イギリスの空には慣れているはずなのに。
港から風が吹いてくる。
だが、街路樹も看板もほとんど揺れていなかった。止まっているように見えた。
車のドアを閉めた瞬間、その音だけがやけに大きく響いた。
私は無意識に肩をすくめる。
オリバーの研究所は、港と街の中間から少し外れた場所にある白い建物だ。
外観は以前と変わらない。ガラス扉へ手をかける。鍵は開いていた。
中へ入る。
明かりは点いている。空調の低い駆動音も聞こえる。機械のランプが規則正しく点滅していた。
なのに、人の気配だけがなかった。
受付椅子が半分だけ引かれている。
パソコン画面は点灯したまま。
入力途中の文章も残っていた。
「オリバー?」
声をかけだが、返事はない。もう一度呼ぶ。
やはり返ってこない。
私は無意識に声量を落としていた。
奥へ進む。廊下は長かった。
半開きの扉と閉じた扉が交互に並んでいる。
足先へ何かが当たった。
見ると、片方だけの靴が転がっていた。
さらに進む。今度は揃えられた靴がある。
履いているはずの人間だけがいない。
白衣が床へ落ちていた。袖が裏返ったまま広がっている。ズボン。シャツ。下着も残っている。
少し離れた場所に、犬の首輪が落ちていた。金具だけが冷たく光っている。
建物の中には、機械の低い唸りだけが響いていた。
止まっているわけじゃない。
生き物だけが消えていた。
私は気づかないうちに、呼吸を浅くしていた。
オリバーの名前が書かれた扉を開ける。
室内は整っていた。
器具も試薬も、途中で手を止めたようにそのまま残っている。
点灯したままのモニター。
開いたノート。そして水槽。底に赤がいた。
あの海底で見たものと同じだった。
照明の下で重なり合っている。数が増えているような気がした。
だが、はっきりわからない。
ガラスへ顔を近づける。動きは遅い。
なのに止まって見えない。
視線を外すたび、配置が変わっている気がする。
私はそこで初めて、水槽の蓋が開いていることに気づいた。
手を入れる。水は妙にぬるかった。
掴もうとした瞬間、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず息が漏れた。指先から血が滲んでいる。
ナイフで切られたような傷だった。ティッシュで押さえながら、もう一度水槽を見る。
赤が底へ集まっていた。
どれが今切った個体なのか、境目がわからない。
外へ出る。光はある。なのに空はまだ低かった。
パトカーが止まる。二人の警官が降りてきた。
関係者かと聞かれ、頷く。
連絡が取れないこと。
中に誰もいないこと。
服だけが残っていること。
短く説明した。
警官は淡々と端末へ打ち込んでいく。
「現時点では失踪事件として扱います。何かあれば連絡を」
警官が車へ戻りかけた。
その途中で動きを止める。座席を覗き込み、小さな赤い何かを指で摘み出した。
地面へ落とす。靴で踏み潰した。
ぐしゃり、と湿った音がした。
私はその瞬間、喉の奥が急に乾くのを感じた。
パトカーはそのまま走り去っていく。私はしばらく、その赤い染みを見続けていた。
町の中心部へ入った頃、違和感がはっきりした。
信号は動いている。看板も光っている。
なのに、人影が一つもない。
店は開いている。シャッターも上がっている。
それなのに誰も歩いていない。
私はハンドルを握り直す。指先が汗で滑っていた。
横の路地から、何かが飛び出す。
赤い犬だった。甲高い声を上げながら走ってくる。
だが動きがおかしい。跳ねるように、無理やり前へ進んでいる。
数メートル先で突然倒れた。
私は車を止めた。近づく。
犬は動かない。なのに表面だけが細かく蠢いていた。
赤く見えたのは毛じゃない。
カニだった。びっしり張り付いている。
犬の輪郭を隙間なく覆っていた。
次の瞬間、一斉に剥がれた。
私は思わず後退った。
残ったのは首輪とリードだけだった。
血も骨も毛すら、残っていない。
周囲に人影はない。誰も見ていなかった。
カリカリと音がした。
建物の影。何かが動いた気がした。
私は反射的に車へ戻っていた。
エンジンはかけっぱなしだった。
警察署へ向かう。
建物へ入る。明かりは点いている。
受付も開いている。書類も散乱していない。
なのに人だけがいない。
制服だけが残っていた。椅子へ掛かったままのもの。床へ落ちたもの。
人の形だけが抜け落ちている。
奥へ進む。足音がやけに響いた。
少し遅れて返ってくる。
耳を澄ます。カリカリ。
壁の向こう。床下。天井。
あちこちから聞こえていた。
私は知らないうちに呼吸を止めていた。
慌てて外へ出る。
遠くに人影が見えた。
こちらへ走ってくる。次の瞬間、膝から崩れ落ちた。
赤が服の上を流れる。
一瞬で全身を覆う。形が崩れる。
残ったのは服だけだった。
風もないのに裾だけが揺れている。
私はその場から動けなかった。
静かすぎた。いや、違う。
音はある。カリカリ。
その音だけが街中に満ちていた。
足元を見る。点だったものが面になっていた。
道路の隙間。
排水溝。
縁石の影。
赤が溢れてくる。
隙間を埋めるように広がっていた。
私は車へ飛び乗った。
アクセルを踏む。タイヤの下で何かが潰れる感触がした。
バックミラーを見る。後ろの道路が赤く覆われていた。
途切れない。
曲がった先も赤だった。前方にも、もう広がっている。それでも進む。
カリカリ。
耳のすぐ後ろで音がした。私は反射的に助手席を見る。
何もない。
なのに音は消えない。
足元は見なかった。
見たくなかった。
アクセルを踏み込み続ける。
音は増えていく。
私はハンドルを握り直し、前だけを見た。
道路はもう、真っ赤だった。
頭の中には、海底の暗さだけが残っていた。
照明の外側。
どこまでも続く黒。
その奥で、赤が動いていた。




