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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第一色 レッドカーペット―― Red Carpet――
2/20

episode 2

 プリマスへ着いたとき、空が妙に低く感じた。


 曇り空には慣れているはずだった。

 それなのに今日は、雲が頭へ覆い被さってくるみたいで息苦しい。イギリスの空には慣れているはずなのに。


 港から風が吹いてくる。

 だが、街路樹も看板もほとんど揺れていなかった。止まっているように見えた。


 車のドアを閉めた瞬間、その音だけがやけに大きく響いた。

 私は無意識に肩をすくめる。


 オリバーの研究所は、港と街の中間から少し外れた場所にある白い建物だ。

 外観は以前と変わらない。ガラス扉へ手をかける。鍵は開いていた。

 中へ入る。

 明かりは点いている。空調の低い駆動音も聞こえる。機械のランプが規則正しく点滅していた。

 なのに、人の気配だけがなかった。


 受付椅子が半分だけ引かれている。

 パソコン画面は点灯したまま。

 入力途中の文章も残っていた。


「オリバー?」


 声をかけだが、返事はない。もう一度呼ぶ。

 やはり返ってこない。

 私は無意識に声量を落としていた。

 奥へ進む。廊下は長かった。

 半開きの扉と閉じた扉が交互に並んでいる。


 足先へ何かが当たった。

 見ると、片方だけの靴が転がっていた。


 さらに進む。今度は揃えられた靴がある。

 履いているはずの人間だけがいない。

 白衣が床へ落ちていた。袖が裏返ったまま広がっている。ズボン。シャツ。下着も残っている。

 少し離れた場所に、犬の首輪が落ちていた。金具だけが冷たく光っている。


 建物の中には、機械の低い唸りだけが響いていた。

 止まっているわけじゃない。

 生き物だけが消えていた。


 私は気づかないうちに、呼吸を浅くしていた。


 オリバーの名前が書かれた扉を開ける。


 室内は整っていた。

 器具も試薬も、途中で手を止めたようにそのまま残っている。

 点灯したままのモニター。

 開いたノート。そして水槽。底に赤がいた。

 あの海底で見たものと同じだった。


 照明の下で重なり合っている。数が増えているような気がした。

 だが、はっきりわからない。


 ガラスへ顔を近づける。動きは遅い。

 なのに止まって見えない。

 視線を外すたび、配置が変わっている気がする。

 私はそこで初めて、水槽の蓋が開いていることに気づいた。

 手を入れる。水は妙にぬるかった。


 掴もうとした瞬間、鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 思わず息が漏れた。指先から血が滲んでいる。

 ナイフで切られたような傷だった。ティッシュで押さえながら、もう一度水槽を見る。

 赤が底へ集まっていた。

 どれが今切った個体なのか、境目がわからない。


 外へ出る。光はある。なのに空はまだ低かった。

 パトカーが止まる。二人の警官が降りてきた。

 関係者かと聞かれ、頷く。

 連絡が取れないこと。

 中に誰もいないこと。

 服だけが残っていること。

 短く説明した。

 警官は淡々と端末へ打ち込んでいく。


「現時点では失踪事件として扱います。何かあれば連絡を」


 警官が車へ戻りかけた。

 その途中で動きを止める。座席を覗き込み、小さな赤い何かを指で摘み出した。

 地面へ落とす。靴で踏み潰した。


 ぐしゃり、と湿った音がした。

 私はその瞬間、喉の奥が急に乾くのを感じた。


 パトカーはそのまま走り去っていく。私はしばらく、その赤い染みを見続けていた。


 町の中心部へ入った頃、違和感がはっきりした。

 信号は動いている。看板も光っている。

 なのに、人影が一つもない。


 店は開いている。シャッターも上がっている。

 それなのに誰も歩いていない。


 私はハンドルを握り直す。指先が汗で滑っていた。

 横の路地から、何かが飛び出す。


 赤い犬だった。甲高い声を上げながら走ってくる。

 だが動きがおかしい。跳ねるように、無理やり前へ進んでいる。

 数メートル先で突然倒れた。


 私は車を止めた。近づく。

 犬は動かない。なのに表面だけが細かく蠢いていた。

 赤く見えたのは毛じゃない。

 カニだった。びっしり張り付いている。

 犬の輪郭を隙間なく覆っていた。

 次の瞬間、一斉に剥がれた。


 私は思わず後退った。

 残ったのは首輪とリードだけだった。

 血も骨も毛すら、残っていない。


 周囲に人影はない。誰も見ていなかった。

 カリカリと音がした。

 建物の影。何かが動いた気がした。


 私は反射的に車へ戻っていた。

 エンジンはかけっぱなしだった。

 警察署へ向かう。


 建物へ入る。明かりは点いている。

 受付も開いている。書類も散乱していない。

 なのに人だけがいない。


 制服だけが残っていた。椅子へ掛かったままのもの。床へ落ちたもの。

 人の形だけが抜け落ちている。


 奥へ進む。足音がやけに響いた。

 少し遅れて返ってくる。

 耳を澄ます。カリカリ。

 壁の向こう。床下。天井。


 あちこちから聞こえていた。

 私は知らないうちに呼吸を止めていた。


 慌てて外へ出る。

 遠くに人影が見えた。

 こちらへ走ってくる。次の瞬間、膝から崩れ落ちた。

 赤が服の上を流れる。

 一瞬で全身を覆う。形が崩れる。

 残ったのは服だけだった。

 風もないのに裾だけが揺れている。


 私はその場から動けなかった。


 静かすぎた。いや、違う。

 音はある。カリカリ。

 その音だけが街中に満ちていた。

 足元を見る。点だったものが面になっていた。


 道路の隙間。

 排水溝。

 縁石の影。

 赤が溢れてくる。

 隙間を埋めるように広がっていた。


 私は車へ飛び乗った。

 アクセルを踏む。タイヤの下で何かが潰れる感触がした。

 バックミラーを見る。後ろの道路が赤く覆われていた。


 途切れない。

 曲がった先も赤だった。前方にも、もう広がっている。それでも進む。


 カリカリ。


 耳のすぐ後ろで音がした。私は反射的に助手席を見る。


 何もない。

 なのに音は消えない。

 足元は見なかった。

 見たくなかった。


 アクセルを踏み込み続ける。

 音は増えていく。

 私はハンドルを握り直し、前だけを見た。

 道路はもう、真っ赤だった。


 頭の中には、海底の暗さだけが残っていた。

 照明の外側。

 どこまでも続く黒。

 その奥で、赤が動いていた。

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― 新着の感想 ―
めちゃくちゃ不気味で、いい!(゜∀゜) なんか、カリカリって音が横でしてるようで、不快で没頭しちゃいました(・∀・)! これを書いてる今も、なんか頭にかりかりって言う違和感があってやばい。 でも、不…
企画にご参加くださり、ありがとうございました 赤色の映える、恐ろしくも印象的な作品でした 読ませていただき、ありがとうございます
一見するとハイクオリティのライトノベルに見えるが、 ジワジワと押し寄せるホラーの演出の高さで、 本作がホラージャンルなのにも納得しました。
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