episode 1
潜航は予定通りだった。
指定区画へ入った瞬間、機体の振動がふっと消えた。モニターの数値は綺麗に揃っている。水深は潜航艇の限界に近い。外は完全な闇だった。
照明の丸い光が、海底のほんの一部だけを切り取っている。
その外側は何も見えない。
粒子が流れているはずなのに、水の動きが感じられなかった。海の中にいるはずなのに、抵抗が薄い。耳に届くのは、機体内部の小さな作動音だけだった。
照明の円の中だけが、妙に現実味を持っている。
その外は黒に溶け込んで、どこまで続いているのかわからなかった。
今回の仕事はチムニーの確認だった。
活動を終えた熱水噴出孔。熱も流れも止まり、生物反応もほとんどない。レアアース泥の可能性があるという依頼で来ただけだ。
機体をゆっくり近づける。
崩れかけた黒い岩柱が海底に立っていた。
周囲は静止していた。何も動かない。
そう思った直後、ライトの端に赤が浮いた。一瞬、機体の警告灯かと思った。
だが違う。
赤は動いていた。点ではなかった。
いくつも重なっている。
機体をさらに寄せる。
赤が増えていく。岩肌に張り付くように、びっしりと。
照明の中へ入るたび、輪郭がくっきり浮かび上がった。
カニだった。見たことのない種類だ。
甲羅は手のひらほど。表面は妙に滑らかで、濡れた金属みたいな光を返している。
色が異様だった。深海生物とは思えないほど鮮やかな赤。
脚は細長く、岩を撫でるように動く。ハサミだけが不釣り合いに大きかった。左右で形も違う。一方は細長く、もう一方は幅広い。
群れは動いていた。なのに散らない。逃げもしない。
こちらを警戒する様子もなく、重なり合ったまま同じ場所に留まり続けている。
私は無意識に息を止めていた。
記録を回す。カメラ角度を調整し、ズームを入れる。
外部アームを伸ばし、サンプラーの先端を開いた。
岩の縁へ触れた瞬間、数匹がアームへ乗ってきた。
抵抗はない。驚くほど軽い。
掬い上げると、別の個体も絡みつくようについてくる。落ちるものと残るものがいる。動きはひどく緩慢だった。
コンテナへ移し、蓋を閉める。
透明ケースの中で、赤だけが重なり合っていた。
数は十分だった。採取を終え、機体を引く。
ライトが外れると、赤は闇へ沈んだ。
だが消えたわけじゃない。
あの群れは、確かにまだそこにいる。
私はしばらく、暗闇を見続けていた。
照明の外側に何かが残っている気がして、すぐに機体を反転できなかった。
予定ルートへ戻り、帰投した。
陸へ上がり、手続きを済ませる。
私の担当はサンプル回収。採取して、共同研究者へ送る。
評価も分類もしない。
決められた先へ、決められたものを渡すだけだ。
今回のサンプルは四つに分けた。
送り先はイギリスのオリバー、ドイツのルーカス、ロシアのドミトリ、中国の李。
全員、共同研究者だった。
それぞれ専門は違う。
だが、こういう妙なものが見つかると、結局いつも同じ顔ぶれになる。
容器を並べる。中で赤が重なり合っている。
ラベルを貼り、番号を振る。
送り先を確認する。
温度を合わせる。
その作業中、何度か視線がケースへ戻った。
赤はほとんど動かない。
なのに、目を離すと位置が変わっている気がした。
気のせいだと思った。
記録を残し、引き渡す。
それで終わるはずだった。
二日後、オンライン回線を開いた。
画面が五つに分かれる。
最初に口を開いたのはオリバーだった。
「見たよ。面白いな」
ルーカスが続く。
「ハサミの形が妙だ。左右差が大きすぎる」
ドミトリは無表情のままだった。
「既存種と動きが違う」
李が画面へ顔を近づけた。
「新種の可能性は高いな」
誰かが「増やせるか」と言った。
条件が揃えば、と別の誰かが返す。
温度。塩分。圧力。餌。
言葉は続いたが、互いに深く踏み込まない。
いつもの距離感だった。
オリバーがカメラを傾ける。
水槽が映った。底に赤がいる。
数が増えているように見えた。
「もう増えたのか」
「最初から多かったんだろ」
オリバーが水槽へ手を入れ、掬い上げる。
赤が指へ重なる。落としても、ばらけない。すぐに底へ戻っていく。
私は画面を見ながら、指先を無意識に擦っていた。
深海で触れた感触が、まだ残っている気がした。
ルーカスが別角度から覗き込む。
「色がおかしいな。均一すぎる」
ドミトリは黙ったまま、画面の端で動きを止めていた。
李がガラスを軽く叩く。中の赤は反応しなかった。
「おい、李。喰うなよ」
ドミトリが言う。李が笑った。
「研究対象は食わない。それに痩せてるから食いでもない」
「中国人はなんでも食うからな」
「ドミトリ、よさないか」
オリバーの一言で空気が収まる。
最初の数日は気にしなかった。
それぞれ忙しいし、時差もある。
結果がまとまってから連絡することも珍しくない。
四日目、端末を開き直した。変化はない。
五日目、短いメッセージを送ったが、既読がつかない。
六日目、通話を試した。呼び出し音だけが続く。
七日目、記録を見直した。
再生。停止。巻き戻し。同じところで止まる。
水槽の底に赤が重なっている。
輪郭ははっきりしているのに、数が掴めない。
数えようとすると、どこからが一匹なのかわからなくなる。
動きは遅い。なのに視線を外すと位置が変わっている。
画面の端に、さっきまでいなかった赤が増えている。
私はそこで初めて、自分が呼吸を浅くしていたことに気づいた。
八日目、別回線を使ったが、結果は同じだった。
九日目、輸送記録を確認する。
温度帯は正常。容器も正常。
輸送遅延もない。異常はない。
それなのに、誰からも連絡が来ない。
十日目の朝、端末を開いた。
変化はない。通知もない。
閉じる。また開く。同じだった。
私は無意識に肩を抱いていた。室温は普通なのに、妙に寒かった。
記録も通信も、あの日で止まっている。
止まる理由がない。なのに止まっている。
オリバーの所在地を確認した。
イギリス、プリマス。ここから一番近い。
移動手配を取る。最低限の荷物だけを持つ。
車へ乗り込み、エンジンをかけた。
海から離れるほど、なぜか海底の暗さを思い出した。
照明の円の外側。
どこまで続いているのかわからない黒。
あの場所には、まだ赤がいる。
そんな気がしていた。




