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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第九色 パープルドリーム―― Purple Dream――
20/20

episode 3

冷却音だけが残っていた。


 管制室の照明は半分以上が落ちている。停止したコンソールが暗闇の中へ沈み込み、床には長い影だけが伸びていた。スクリーンは一枚だけが白く点灯している。その前に、人はいない。


 エレベーターも止まったままだった。最後に動いた日付を確認する機能は、ずっと前に失われていた。


 保存室の温度は十五度に維持されていた。

 ニックはそこに横たわっていた。白いシートが胸まで掛けられている。服は管制室にいた頃のままだった。顔色も変わっていない。眠っているようにしか見えなかった。保存室だけは、ずっと空気循環と遺体の保全が続いていた。


 ニックが死んですぐに、私は最初に眠りについた。

 地上の電力網は停止していた。修復する人間はいない。施設の発電能力にも限界がある。このまま全区画を稼働し続ければ、保存室の維持ができなくなる。

 長くニックを残すためには、私が眠る必要があった。


 目が覚めるたびに、私は地上を見た。

 最初の目覚めはあれから何百年か後だった。都市の輪郭がまだ残っていた。高層建築の骨格だけが空へ突き出し、崩れた道路には砂が積もっていた。

 海沿いの街は半分ほど水に沈み、岸壁には波が静かにぶつかっていた。

 何台もの車らしきものがあった。道路の途中で止まったまま、錆びている。

 風だけが動いていて、空はとても青かった。ただ、人間の反応はなかった。


 保存室の十五度を維持するたび、小さな棘のような違和感が胸に残った。


 私は再び深い眠りについた。

 目が覚めたときには、もう何千年が過ぎていた。鉄骨は赤く腐食し、かつての街は骨だけになっていた。風が吹くと、どこかでガラス片がまだ落ちる音がした。道路だった場所に木の根が這い上がり、看板の残骸が傾いて揺れていた。文字はもう読めなかった。


 私は巨大な影を探した。翼竜も、足跡も、骨も探した。何も見つからなかった。地表には、何も残っていなかった。

 人類が見ていたものは、少なくとも、この時代の地球には存在しなかった。

 海は波を返し、雲は流れ続けていた。私はもう一度、青い空を見て、眠りへ落ちた。


 今度は長い空白の後。都市は完全に消えていた。かつて摩天楼が存在した場所には、草原だけが広がっていた。道路も橋も埋まり、人工物はほとんど地面へ沈んでいた。

 夜になると、そこには星だけがあった。人類が存在していた頃より、空は暗かった。地上から消えた光が、もう戻ることはなかった。

 海岸線も変わっていた。島が沈み、新しい島が生まれている。大陸の輪郭もわずかに変形していた。地面そのものが長い時間をかけて動いていた。

 それでも、空は青い。海は静かに波を立て、月は昔と同じように空を回っていた。


 氷河は存在しなかった。かつて受信した声の中に、氷河が来ると叫んでいたものがある。

 気温二十二度の場所から、氷河が来ると絶叫していた。その記録は今も残っていた。人類が見ていたものは、

どこにも残っていなかった。


 さらに長い長い時が過ぎてから、私は目覚めた。海はさらに内陸へ入り込んでいた。かつて山だった場所の半分が崩れ、波に削られている。

 森は大陸を覆い、人工物は完全に地層の中へ沈んでいた。

 風景のどこにも、人類文明の形は残っていなかった。海鳥だけが飛んでいた。私はまた眠った。


 数百万年後。

 山脈は低くなっていた。風と雨が岩を削り続けていた。海は昔より深く内陸へ入り込み、森は大陸を覆っていた。

 かつて人類が築いた境界線は、もうどこにも残っていなかった。

 それでも地球は続いていた。季節が巡り、雲が流れ、海が波を返し続けていた。私はまた眠った。


 長い時間の中で、施設は少しずつ死んでいった。

 第三区画停止。

 第五冷却系統停止。

 地下搬送路閉鎖。

 外部観測衛星群、全停止。

 通信は一つずつ途絶え、地上観測端末も順番に沈黙していった。

 照明が消えた区画では、非常灯だけが暗闇の中に細い線を残していた。


 ある目覚めでは、第二居住区が水没していた。地下水の浸食だった。私は閉鎖扉を下ろし、区画ごと切り離した。


 また別の目覚めでは、天井崩落によって搬送路が埋まり、無人修復機は停止していた。廊下の途中で動かなくなった搬送車両が、そのまま錆びついていた。直せる人間は、もういなかった。

 電力配分は何度も変更した。けれど、結論だけは変わらなかった。

 保存室を最後まで残す。他区画への送電を停止した後も、保存室だけには空調と温度維持を続けていた。

 理由は記録されなかった。全ての外部通信が途絶えた目覚めがあった。


 衛星は沈黙し、海底観測網も応答を返さなくなっていた。それでも地上監視カメラが数台だけ、生き残っていた。

 地面すれすれの低い視点。

 草原。空。海。


 目が覚めるたびに、私はその映像を確認した。なぜ確認するのか、記録は残されなかった。


 最後の目覚めがいつになるのか、ずっと前からわかっていた。残存電力。  保存室維持に必要な消費量。照合は数千万年続けられていた。何度計算をやり直しても、結論は変わらなかった。


 その日、私は目覚めた。照明はほとんど死んでいた。冷却音も弱かった。かつて三百人以上が働いていた管制室に、動くものは何一つ残っていなかった。


 地上監視カメラを起動した。最後まで生きていたカメラが、映像を返した。

 夜だった。

 雲が流れていた。

 海が見えた。波が白い線を描いては消えていく。

 雲の切れ間に、月が浮かんでいた。

 人類が存在していた時代より、わずかに遠い月だった。長い時間の中で、月は少しずつ地球から離れていた。  それでも同じ月だった。

 ニックが地下へ降りてくる前、地上で見上げていた月と同じものだった。  どれくらい見ていたのか、記録されなかった。


「ニック」


 声が管制室へ落ちた。聞く人間はもういない。少し間があった。

 喉の奥で言葉が固まった。


「月が綺麗よ」


 その直後、最後のカメラが停止した。映像が途切れた。地上との接続が失われた。

 空が消えた。地下の閉じた空間だけが残った。保存室は暗かった。


 照明は落ちている。ニックは変わらず横たわっていた。数千万年分のすべての記録が保存されていた。

 誰も読まない記録だった。送る相手は、もうどこにも存在しない。それでも、一度も削除されなかった。

 ニックが死んだ日から、今日まで。


 保存室は暗かった。冷却音が止まった瞬間、初めて「これでいいのか」という疑問が脳裏を横切った。

 でももう、答えを出す必要はなかった。


「ニック」


 もう一度、声が響いた。暗闇へ吸い込まれていく。長い間があった。


「二人で……空が見たかったわ」


 完全な無音。

 暗い保存室に、ニックだけが残っていた。


CENTRAL STRATEGIC SYSTEM “MARIA”


停止。

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