フェリチタのとある日常
朝六時の鐘が鳴ると、昨日死んだ人間が全員、生き返った。
ナナセは腹を貫かれたことなどなかったみたいに、焼きたてのパンを頬張っていた。
カナタは首を切られた感想を淡々と述べながら、紅茶に砂糖を落としていた。
ルカは「もう二度と誕生日会なんか行かない」と言いながら、ちゃっかり余ったケーキを食べていた。
私も同じだ。
昨日、滅多刺しにされた身体で、当然のように傷ひとつなく目を覚ました。
──フェリチタでは、こういう朝は珍しくない。
この街では、死者は毎朝六時に自分の寝床で目を覚ます。
傷も、血も、壊れた家具も、焼けた壁も、朝の鐘の音と共に元通りになる。
けれど、記憶だけは綺麗に消えてくれない。
死ぬ瞬間の息苦しさ。
最後に見た誰かの顔。
自分を殺した相手の声。
床に広がっていく自分の血を、妙に冷静に見つめてしまったあの数秒。
そういうものだけは、朝食のパンをかじっている最中にもふと舌の奥に蘇る。
しかも厄介なことに、誰かが誰かに向けて残したものは消えない。
日記、手紙、絵、歌詞、プレゼント、宛名のあるメッセージカード。
だから昨日、血に濡れたはずの誕生日カードは、今朝もテーブルの上に残っていた。
ナナセが描いた、少し幸せそうなヒカルの似顔絵付きで。
──昨日のことを話そう。
これは、ヒカルという少年の誕生日会の話である。
しがない住人の一人である私は昨日、とある友人の誕生日会を開いていた。
「本当にやるのかい?」
飾り付けのリボンを壁に貼っていると、背後から呆れたような声がした。
振り返ると、カナタが紙皿の束を片手に立っていた。
相変わらず、手伝いに来たのか文句を言いに来たのかわからない顔をしている。
「やるよ。見ての通り、誕生日会だからね」
「それは見ればわかる。ワタシが聞いているのは、何故よりによって彼を主役にして、ということだよ」
「よりによってとは失礼な。友達の誕生日を祝うのに理由がいるの?」
「君の場合、理由がない方が怖いのだよ」
失敬なやつである。
今日の主役はヒカル。十九歳。
笑うと一瞬だけ年相応に見えるのに、普段はいつも部屋の隅にいる。
人の視線を怖がるくせに、ひとりにされるともっと苦しそうな顔をする。
袖口を握る癖があって、火と、大きな音と、人の血が苦手だ。
そして、彼の中にはもう一人いる。
呼んでも出てこない。
けれど出てきたときは、大抵その場の誰かが死ぬ。
ヒカルが何を苦手にしているかは、親しい者なら知っていた。
けれど、それがただの苦手意識なのか、彼の中のもう一人を引きずり出す鍵なのかまでは誰も知らない。
私は、たぶん知っていた。
知っていたうえで、知らないふりをした。
今度は、テーブルに菓子を並べていたルカが口を挟む。
「ヒカルくんってさ、今日ほんとに大丈夫なやつ?」
彼は紙コップを積み上げながら、広間の奥をちらちらと気にしていた。
「大丈夫じゃないかもしれないね」
「いやそこは嘘でも大丈夫って言ってよ。もう帰りたくなってきた」
「大丈夫じゃないかもしれないから、みんなで祝うんじゃん」
「理屈が怖いんだけど」
ルカの反応はごく普通である。
「施設からフェリチタへ、か」
カナタが紙皿を並べながら笑って言う。
ヒカルは幼少期から施設で暮らしてきた。街の住人たちと同様に、様々な事情でここへやってきた。
「苦渋の決断、だったかな。大人という生き物は、自分の手に負えないものを遠ざけるとき、実に便利な言葉を使う」
「カナタ、そういう言い方やめて」
ナナセが色鉛筆を止めた。
「ヒカルは捨てられたわけじゃないよ。たぶん、施設の人たちも困ってただけで……助けたいとは思ってたんじゃないかな」
「君は優しいね、ナナセくん」
「優しいんじゃなくて、わたしがそう思いたいだけ」
ナナセは少し困ったように笑って、またカードに視線を落とした。
彼女はヒカルの元カノである。
別れたあとも、ヒカルのことを完全には放っておけないらしい。この街では、そういう中途半端な優しさが一番しぶとい。
ヒカルの中のもう一人は、何らかのきっかけで表に出ては暴走する。そして後から戻ったヒカルが、何も覚えていないまま罪悪感に苛まれて、自己嫌悪する。
それが何度も繰り返されて、次第にヒカルは心を閉ざすようになった。
食事の誘いも、遊びの誘いも、何かにつけて断る。
誰かに嫌われる前に、自分から距離を取る。傷つけるくらいなら、最初から近づかない。
そうやって彼は、自分の部屋の中で少しずつ小さくなっていった。
フェリチタに、まっすぐ歩いて来た人間はほとんどいない。
誰かに押し出された者。
帰る場所をなくした者。
死ぬことにさえ失敗して、ここへ流れ着いた者。
だからこの街の住人は、他人の孤独に妙に敏感だ。
放っておいてほしい顔と、本当は見つけてほしい顔の違いを、嫌になるほど知っている。
ヒカルはたぶん、放っておいてほしい顔をしていた。
けれど私には、それが半分だけ嘘に見える。
ちょうど、彼の誕生日が近かった。
扉を叩くには十分すぎる理由で、口実としては少し残酷なくらいだった。
「だから誕生日会?」
ルカが紙コップの山を押さえながら、まだ納得していない顔で私に聞く。
「そう、誕生日会。ひとりで閉じこもってる子には、扉を叩く理由が必要でしょ」
「そのきっかけが誕生日会ってだいぶ圧が強いんじゃないの」
「祝福は圧力だよ。友達の少ない君には理解しにくいかな?」
「あなたってほんと最低」
ルカの隣で聞いていたカナタが小さく肩をすくめた。
「実に君らしい善意だ。包装紙だけは可愛らしいが、中身が何かは開けるまでわからない」
「それ褒めてる?」
「警戒している」
ヒカルは当然、嫌がった。
「俺の誕生日会なんて、やらなくていいよ」
そう言った彼の声は、遠慮というより怯えに近かった。
祝われることを嫌がっているというより、祝ってくれる相手をまた傷つけるのが怖い、という声だった。
だから私は笑って、祝わせてほしいと頼んだ。
半分は善意。残り半分は、もっとろくでもない何か。
それでもヒカルは最後には鍵を開けてくれた。
それを了承と呼ぶには、少しばかり乱暴だったけれど。
外を見れば、腹が立つほどよく晴れていた。
昼前には、見知った住人たちがぽつぽつとヒカルの家に集まり始めた。
質素な家はリボンと紙飾りで少しずつ騒がしくなり、テーブルの上には菓子やケーキが次々に並べられていく。
フェリチタの住人たちは、祝い事に対して全力だ。
誕生日、退院祝い、失恋記念日、三十回目の自殺未遂失敗記念日。
名目は何でもいい。
とにかく誰かを囲んで、ケーキを切って、歌を歌って、くだらない冗談を言う。
明日になれば全員生き返る街で、それでも今日のうちに「おめでとう」と言いたがる。
多分みんな、知っているのだ。
身体は元に戻っても、言えなかった言葉は戻らない。傷は消えても、寂しさは勝手に消えない。
だから私たちは、少し大袈裟なくらい誰かを祝う。祝って、笑って、依存して、今日もまだ大丈夫だと確認する。
それでも当のヒカルは、奥の部屋の扉から半身だけ出したまま、広間に入れずにいた。
「やっぱり申し訳ないよ。凄く嬉しいけど、俺なんかが祝われる価値あるのかなって。いつもみんなには迷惑かけてばかりだし、ここまでしてもらえるほどのことをできてないから」
ヒカルは扉のそばに立ったまま、袖口を指で握っていた。
薄いシャツの肩が、呼吸のたびに小さく上下している。笑おうとしているのに、目だけがずっと逃げ場所を探していた。
「遠慮はいらないよ。友達の誕生日を祝うのは当たり前だからね。それにこの変人揃いの街で迷惑かけてない人って逆に珍しいと思うんだけど」
「でももし、みんながいる前でまた『アイツ』が現れたら……」
ヒカルの視線が広間の方へ向いた。
ケーキ用のナイフや蝋燭、テーブルの端に置かれたクラッカー。それらを見るたび、彼の呼吸は浅くなる。
だから本当なら、今日の誕生日会にそういうものを用意するべきではなかったのだろう。
もちろん、私は用意した。
誕生日会に蝋燭とクラッカーがないなんて、味気ないにもほどがあるからだ。
「そのときはそのとき。仮に『アイツ』が出てきても、明日の朝にはみんな揃って朝ごはん食べてるよ。フェリチタの良いところだね。最悪なところでもあるけど」
ふふ、と笑って私は続ける。
「今日はせっかくの誕生日なんだ。心配ごとは明日の君に任せて、今はケーキのことだけ考えなよ」
私が優しく微笑みかけると、ヒカルも少しだけ緊張がほぐれたように笑う。
しかしすぐに笑みを止め、腑に落ちないことでもあるような落ち着かない顔をする。
何か気がかりなのだろう。
あるいは、彼自身にもわからない何かが、胸の奥で騒いでいるのかもしれない。
「──ヒカル、ちょっと来て!」
遠くから誕生日会に参加している友人の声が響いて、ヒカルがそちらに向かう。
「見てみて。みんなでメッセージカード書いたの。絵はわたし担当。……似てるかな。ちょっと、幸せそうに描きすぎたかも」
ふわふわと柔和な笑みを浮かべるナナセが、完成したメッセージカードをヒカルに差し出した。
こういうときの彼女は、さすがに絵描きらしい顔をする。
彼女が描いたメッセージカードには、ヒカルの似顔絵が描かれていた。丁寧な線で、柔らかい色で、実物よりも少しだけ幸せそうな顔のヒカル。
「……俺、こんな顔してた?」
「してたよ。たまにね」
「そっか。……なら良かった。って、あれ、描かれてる服ってもしかして、ずっと前にデート行ったときの……」
「あ……えへへ」
「さっさとヨリ戻せよガキ共」
私は二人を茶化した。しかし、別れた原因はヒカルの中のもう一人のせいなので、どうしようもないのも事実だ。
二人を茶化している間にも、部屋は少しずつ誕生日会の形になっていった。
紙飾りが壁を埋め、菓子の甘い匂いが広間に満ち、テーブルの真ん中には白いケーキが置かれる。
隅には、余興に使うつもりだった木製の樽まで置かれている。
ルカが「それ絶対いらないでしょ」と言ったので、「いるよ。誕生日会は油断できないからね」と答えておいた。
すると、カナタが私に声をかけてきた。
「念のため聞くけれど、これは本当にただの誕生日会なのかな。一体、何を企んでいる?」
「企みと言われてもね……悪巧み半分、純粋な善意半分ってとこかな」
「その比率が本当に半分ずつなら、まだ救いがあるのだけれどね」
「失礼だなあ。私の善意は結構ちゃんとしてるよ」
「君の善意は、たまに刃物より扱いが難しい」
カナタの皮肉に私は思わず笑ってしまった。
ともあれ、多くの友人たちを集めた誕生日パーティーは無事に始まった。
菓子の皿がひとつ空になり、紙コップが何度も倒れ、誰かがゲームの勝敗をめぐって本気で抗議し始めた。
「今のはズルでしょ。ウチ見てたからね」
ルカが文句を言いながら、ちゃっかりチョコを二つ取る。
「証言者が菓子で買収されているように見えるのだが」
カナタがそう言うと、ナナセが笑って、隅にいたヒカルの袖をそっと引いた。
「ヒカルもこっち来なよ。大丈夫、負けても命までは取られないから」
「……この街でそれ言われると、あんまり安心できないんだけど」
ヒカルが小さく返す。
それが思ったより普通の冗談だったので、ナナセが嬉しそうに笑った。
ルカは微妙な距離を保ったまま話しかけ、カナタは頼まれてもいない皮肉混じりの雑学を聞かせ、ナナセは何度もヒカルの名前を呼んだ。
ヒカルは最初こそ隅の方で縮こまっていたが、少しずつ顔を上げるようになった。
ぎこちない笑顔だったが、ちゃんと笑っていた。
私はそれを見て、少しだけ満足する。正確に言えば、満足したことにしておいた。
そろそろケーキを切り分けよう。
私はナイフを手に取った。
引き出しにはもっと刃の短いナイフもあったけれど、私はそれを見なかったことにした。誕生日会の主役に、小さなナイフでは味気ない。
案の定、私は指先を切った。
赤い雫が、白い皿の上にぽたりと落ちる。
すると隣に座っていたヒカルはその血を見てびくりと震え、咄嗟に目を覆った。深呼吸する彼の頬を汗がつたう。
「どうかしたの?」
「……ごめん。大丈夫だから、気にしないで。まだ、俺だから」
「そう。なら、よかった」
ヒカルは顔色が悪いのに、無理に笑おうとしている。
私は指先の血をハンカチで押さえた。
誰も、はっきりとは止めなかった。この街では、危ない予感と楽しい空気の境目が、少しずつ曖昧になっていく。
パーティーは、そのまま続いた。
無事ケーキを切り分けると、電気を消してヒカルのケーキに蝋燭を立てる。
ヒカルは火を見るのさえ躊躇っていたが、私は「君の誕生日なんだから」と言って強引に火を消させた。
みんなの拍手と同時に誰かが歌い出す。
ナナセが笑う。
ルカが少し気まずそうに手を叩く。
カナタが面倒そうな顔で、それでも小さく拍手をしている。
その光景は、どうしようもないほど普通だった。普通すぎて、少し泣けるくらいに。
私はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ最後に、景気づけをひとつ」
私はクラッカーを手に取った。
ヒカルの肩が小さく跳ねたのを、見なかったフリをした。
「──誕生日といえば、これだよね」
パァン、と乾いた音が響く。
ヒカルの目から、光が抜けた。
「────ぁ」
それから数秒経っても、彼は死人のように動かない。
明らかに不自然な様子に、友人たちはヒカルに駆け寄った。
「どうしたのヒカル、ねぇってば。寝ちゃった、わけじゃないよね……?」
ナナセが肩を叩いてみても反応はない。
そこで彼女はヒカルの顔を覗き込もうとしたが、ふいに何かに気づいたカナタが、立ち上がってそれを制止した。
「──待て。彼は寝ているわけでは」
言い終える前に、ナナセの腹部から銀色の刃物が飛び出した。先ほどケーキを切るのに使ったナイフだった。
彼はいつのまにか椅子から立ちあがっていた。
手にしたナイフをナナセの腹から勢いよく引き抜き、盛大に血を撒き散らす。
普段の気弱そうな雰囲気とは全然違う、血に飢えた獰猛な獣みたいな笑みを浮かべながら。
同じ体なのに、表情や振るまいが別人のように変わっている。
一瞬の出来事にカナタはわずかにたじろぎ、額を手で押さえて「最悪だ」と呟く。
『彼』が相手では逃げても逃げ切れないことを理解しているのだろう。諦めた態度でその場から動かない。
ただナイフで首をかっさばかれる直前、私の方を見て、
「だからワタシは嫌だと言ったのに」
それだけ言い残すと、カナタは無事、肉塊と化してその場に倒れた。
こうしてほのぼのとした誕生日パーティーは、一気に臓物パーティーへと変わったのである。
ルカは急いで逃げようとしたが、『彼』に捕まった。
「待って、ウチまだケーキも食べてない! これ絶対あなたのせいだからね!? 六時になったら覚えてろよ!」
叫びも虚しく樽の中へ押し込まれ、外側から何本もの刃を突き立てられる。悲鳴は最初こそ人間のものだったが、途中から樽の中で反響して滑稽な音に変わった。
『彼』はそれを聞いて、喉の奥で低く笑った。
椅子に縛られた誰かが、悪趣味な林檎細工みたいな姿にされた。
台所では、料理とは関係のない嫌な音が響く。
奥で騒いでいた青年の身体には、いつの間にか蝋燭が立っていた。
誕生日会は、順調に最悪になっていった。
「……っはは。『彼』は相変わらず、素晴らしい芸術センスをお持ちで」
こんな状況にも関わらず、私は場違いな感慨を覚える。
悲鳴。
笑い声。
破裂音。
家具が倒れる音。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
ついさっきまで誕生日の歌が響いていた部屋で、今は死の音だけが賑やかに鳴る。
その間、私はなぜか『彼』に手をかけられることなく、その場に突っ立ったままでいた。
いつもは目に入ったものから手当たり次第に殺す『彼』が、隣に座っていた私を真っ先に狙わないのは珍しい。
間違いなくよろしくない意図があるのはすぐにわかった。
逃げようとは思わない。何故なら私は、ヒカルも『彼』も、二人ともお祝いしたかったのだから。
最後の一人を大量の風船に吊るして窒息させ、文字どおり肉風船を作ったところで、ようやく『彼』は私の方を向いた。
もはや周囲は血の海で、さっきまで楽しく話していた友達はもう一人もいない。
ナナセの描いたメッセージカードは、血の海の端で不自然に綺麗なまま残っていた。
あれは明日も残るだろう。
血は消える。
破れた紙も、壊れた部屋も戻る。
けれどあの絵だけは、昨日をなかったことにしてくれない。
ヒカルがそれを見たときにどう思うのか。
そんなことを考えている自分に、私は思わず笑いそうになった。
「やぁ、久しぶりだね──『リム』。誕生日、おめでとう」
「……誰の誕生日だって?」
リムは笑っていなかった。
さっきまで悲鳴を聞いて笑っていた顔から、遊びだけが綺麗に消えている。血に濡れたナイフをぶら下げたまま、私を見下ろした。
「俺の誕生日は今日じゃねぇ。軟弱野郎の祝福で、俺まで呼んだつもりか」
「ああ、それは失礼。じゃあ、君の誕生日も教えてくれる?」
にこやかに問いかけた瞬間、答えの代わりに横っ面を蹴られた。床が跳ねたのか、私が跳ねたのか、一瞬わからなかった。
倒れた私が息を吸うより早く、リムが胸ぐらを掴む。
次の瞬間、背中が壁に叩きつけられた。
「お前、最初から呼ぶ気だったな」
怒鳴っているわけではないのに、低くて圧のある声だった。
壁に押しつけられた背中が少しだけ痺れる。
私は少しだけ息を吸って、それから笑った。
「何のことだろう。心当たりが多すぎて、少し整理する時間がほしいな」
「とぼけんな」
胸ぐらを掴む指に力がこもる。
「血を見せた。火を点けた。音を鳴らした。ナイフを置いた。人を集めた。ナナセまで呼んだ。偶然で済む数じゃねぇだろ」
「すごいね。ちゃんと見てたんだ」
「褒めんな。気色悪ぃ」
「もちろん、わざと呼んだよ。だって君、普通に呼んでも来てくれないじゃないか」
リムはまだ私を殺さなかった。
殺す前に、私がどこまで腐っているのか確かめたいのだろう。あるいは、怒りすぎて殺す順番を見失っているのかもしれない。
どちらでもいい。
今すぐ殺す気がないなら、喋れる。
「前にホテルへ行ったときもそうだった。覚えてる? いや、君は覚えているよね。ヒカルは覚えていないだろうけど」
「……駅前の、窓が開かねぇ部屋だろ」
「嬉しいな。ちゃんと覚えてるんだ」
「忘れられねぇだけだ。てめぇ、死ぬたびに懐いてんじゃねぇよ」
喉元の刃が、息を吸うたび皮膚の上でわずかに揺れる。
普通ならここで黙るべきなのだろう。
けれど普通なら、そもそもリムと話すことなどできない。
「そう。会話をするには悪くない環境だった。別に雰囲気を作りたかったわけじゃないよ。君、そういうの気持ち悪がりそうだし」
口元だけで笑う。
肩をすくめる余裕は、リムの手に潰されていた。
「私はただ、君が出てきたときに余計な刺激で話が中断されないように、火元と刃物と逃走経路と騒音だけ確認しておきたかったんだ。紅茶も用意した。甘いものも置いた。君が食べるかどうかを見たかったからであって、もてなしたかったわけではないよ。……まあ、少しはもてなしたかったかもしれないけど」
リムは答えない。
その代わり、胸ぐらを掴む指が服の布地ごと私の皮膚を締め上げた。
「それなのに君は、部屋に入って三分もしないうちに私の喉を切った。ひどいと思わない? チェックインして、鍵を閉めて、湯を沸かして、さて最初の質問は何にしようかなって考えていたところだったんだよ。好きな食べ物は何かとか、眠るとき夢を見るのかとか、ヒカルの中にいる間、外の音はどう聞こえているのかとか、そんなどうでもいいことをね。それなのに君は、私の質問票より先に、私の頸動脈に興味を持った。会話相手としては最低だけど、登場の仕方としてはかなり印象的だった」
ナイフが喉元へ寄る。
触れるか触れないかの距離だった刃が、今度は、はっきり皮膚に触れた。
まだ刺されない。
私はそれを許可と受け取ることにした。
「食事に誘ったときも、君はメニュー表より先に私の腹を開いたね。あれは残念だったな。肉か魚か、甘いものを食べるのか、辛いものを嫌がるのか。そういうところで、人の形を見たかったのに。翌朝、私は日替わりの煮込みハンバーグを一人で食べた。味は普通だったよ。でも、君が何を選んだのかを知らないまま死んだことの方が、ずっと気になった」
リムの目が、汚いものを見る目になる。とてもわかりやすい顔だった。
けれど、まだ黙っている。
その沈黙がほんの少し嬉しくて、私はさらに続けた。
「診療所へ連れて行こうとしたときは、問診票より先に床へ沈められた。あのときの君は、診察室に入る前から機嫌が悪かったね。待合室の椅子には座らないし、問診票は破るし、受付の人を睨むし。君は本当に、順番待ちができない。診察券より先に私の脇腹へ穴を開けた。あれは医療行為ではなかったと思う」
ほんの薄く、皮膚を割る程度に刃が沈む。鋭い痛みが一本、首筋を走った。
「……っ」
思ったより情けない音が喉から漏れた。
痛い。ちゃんと痛い。
けれど、その程度で話を止めるには、ここまでの準備がもったいない。
「でも、私は今でも少し気になっている。君の心音は、ヒカルと同じ音がするのかな」
その瞬間、リムの表情から何かが抜け落ちた。
怒りでも、嫌悪でもない。
触れられたくない場所を、名前も知らないまま指で押された人間の顔だった。
私は、その変化を見逃さなかった。
「観覧車に乗ったときもあったね。あれも失敗だった。私は一周十五分の密室なら、君もさすがに途中で帰れないと思ったんだ。逃げ場がなくて、火もなくて、刃物もない。外の音も遠い。会話をするにはかなりいい条件だった」
「で?」
「四分で首を折られた」
リムの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
笑ったのか、苛立ったのか。判断するには角度が足りない。
「翌朝、同じ観覧車を下から見上げたんだ。青空の中で、何食わぬ顔でゆっくり回っていた。私が死んだことも、君がそこにいたことも、全部知らないみたいに。そのとき思ったよ」
少しだけ息を吸う。
喉元の傷が、吸気に合わせてひりついた。
「君と一周くらい、してみたかったなって」
返事はない。ただ、リムの呼吸が一度だけ浅くなる。
「雨の日なんて、傘を差し出した瞬間に刺された。あれは少し傷ついたな」
「刺されたことがか」
「傘を受け取ってもらえなかったことが。物が戻ることと、差し出した瞬間の気分まで戻ることは別なんだ。傘は戻る。服も戻る。刺された傷も戻る。だけど、君に受け取ってもらえなかったことだけは、なんだか頭に残っているんだよ」
リムは何も言わなかった。
けれど、ナイフを握る手に力がこもる。
殺意とは少し違う。もっと不快で、もっと個人的な苛立ちだった。リムは、本当に嫌そうな顔をしていた。
そこにはもう、さっきまでの獣じみた愉快さは残っていなかった。
「お前、殺された話を思い出みてぇに語るな」
「思い出ではあるだろう? 少なくとも、私にとっては」
「気色悪ぃ」
「よく言われる」
肩をすくめようとして、壁に押さえつけられていることを思い出す。
笑うと、喉元の刃が皮膚に引っかかった。だが、まだ声は出る。
「君に今さら言うことでもないけど、私はこの街が好きなんだ」
私は血の海になった部屋を見た。
倒れた椅子。
割れた皿。
床に転がったクラッカーの紙片。
壁に飛び散った赤。
「フェリチタは壊れたものを戻してくれる。裂けた喉も、折れた首も、燃えた家も、朝六時には元通りだ。昨日首を切られた人間が、翌朝にはその感想を話しながら紅茶を飲める。どう考えてもおかしいのに、ここではそれが日常になる」
リムは答えない。
胸ぐらを掴む手だけが、私を壁へ強く押し込んだ。
「でも、全部は戻らない」
血の海の端で、ナナセの描いたヒカルの似顔絵だけが不自然に優しかった。
「身体を直すくせに、心の方は放っておく。『死はなかったことにしてあげる。でも、向けられた気持ちは持っていきなさい』ってね。本当に、よくできた地獄だよ」
リムはまだ殺さない。
ただし、さっきまでの沈黙とは違う。これは許可ではなく、警告だ。
それでも私は、都合よく続きを促すものとして扱った。
「だから私はこの街が好きだ。壊れても戻る。死んでも戻る。でも、戻ったあとに何が残るのかは人によって違う。怒る人もいる。笑う人もいる。なかったことにする人もいる。身体は綺麗なのに、心だけが昨日の血溜まりに座り込んだままの人もいる」
私は、血に沈んだ部屋を見渡した。
さっきまで笑っていた人たちが、もう誰も立っていない。
けれど明日の朝には、彼らはまたパンを食べ、文句を言い、昨日の死に方を笑い話にする。
それでも、今この瞬間の息苦しさだけは、きっとどこかに残るのだ。
「私はそういうものが知りたい。人がどこまで壊れて、どこから戻って、何だけは戻らないのか」
「……だから、ヒカルを使ったのか」
その声はさっきより低かった。怒鳴られるよりずっと怖い声だ。
「うん、使った。彼の誕生日も、恐怖も、大切な人たちも使った。ナナセの優しさも、ルカの怖がり方も、カナタの皮肉も、蝋燭も、クラッカーも、ナイフも。全部、君を呼ぶための道具にした」
私は続きを言いかけて、口を閉じた。
リムの視線が、ふいに私から外れた。
「俺を呼ぶためだけなら、血と火と音で足りる。でもお前はナナセを呼んだ。友達を集めた。誕生日会って名前をつけた。あいつが逃げられない形にした」
胸ぐらを掴む指に力がこもる。
「俺に会いたかったのは本当だろうよ。気色悪ぃくらいにな。でも、それだけじゃねぇ」
血の海の端に、場違いなくらい綺麗なカードが残っていた。
ナナセが描いた、少しだけ幸せそうなヒカルの顔。
「血も死体も消える。壊れた部屋も戻る。でもカードは残る。あいつは朝になって、それを見る。自分が殺したかもしれねぇ奴らの、『おめでとう』をな」
低い声が、私の喉元に押しつけられた刃よりも冷たく沈む。
「お前が見たかったのは、俺だけじゃねぇ。俺に壊されたあとの、明日のヒカルだ」
胸の奥が小さく跳ねた。
嫌悪でも罪悪感でもない。もっと質の悪い発見の喜びだ。リムが、私の欲張りさまで見抜いてくれたことがひどく嬉しかった。
「……そういうところ、やっぱり好きだな」
「殺すぞ」
「うん。たぶんそうするだろうね。でも、まだ殺していない。だからもう少し話すよ」
自分でも嫌になるくらい、声が弾んでいた。
「私は君と話したかった。殺されるのが嫌だったわけじゃない。君の殺し方には毎回発見がある。楽しんでいるときは丁寧で、怒っているときは雑になる。さっきだってそうだった」
リムの目が、すっと冷える。
その冷え方が面白くて、私は続きを選び間違えたふりをした。
「君は楽しんでいた。悲鳴が上がるたびに笑っていた。逃げようとする背中を見て、目を細めていた。だから私は、君を綺麗な言葉だけで片付けるつもりはないよ」
ナイフの切っ先が、私の顎を持ち上げる。刃が皮膚に触れて冷たい線を引く。
リムがわずかに笑った。
「殺すのは好きだ。悲鳴も、血も、命乞いも、壊れていく顔も好きだ。そこまでヒカルのせいにしてやるほど、俺は優しくねぇよ」
私は一瞬だけ、言葉を失った。
正解だったからではない。正解より、少しだけ深かったからだ。
「……いいね」
「あ?」
「今のは、すごくいい。君は自分の殺意をヒカルのせいにしないんだね。ヒカルはきっと、全部自分のせいにするのに」
血の匂いを吸い込む。
鉄の味が喉の奥に張りついた。
「君は自分を正義だと思っていない。ヒカルの盾でも、良心の裏側でもない。君は君だ。殺すことを楽しんで、そのことをヒカルのせいにしない。でも、それでも、ヒカルを玩具にされるのは腹が立つんだろう?」
返事はない。
けれど、沈黙の質が変わった。
図星を刺された人間は、怒鳴るより先に黙ることがある。
「ホテルのときも、食事のときも、診療所のときも、君は私をすぐ殺した。たぶん私が気に入らなかったからだ。けれど今日は違う。ヒカルの誕生日を君を呼ぶための餌にした。だから君は今、殺すのが好きだから私を殺したいだけじゃない」
私は笑った。
「ヒカルを玩具にされたから、私を許せない」
「誕生日会の皮を被せた解剖台だろ、これは」
その一言は、雑に受け流すには惜しいくらい正確だった。
胸の奥が、今度は別の意味でざわつく。核心に名前をつけられたときの、あの質の悪い快感だ。
「それは、ずいぶんいい名前だね。ヒカルでもそこまでは言わなかったよ」
「ヒカルは言わねぇよ。あいつは嫌なことを嫌だって言う前に、自分が悪いって顔をする」
まただ。
この男は、ヒカルの痛いところばかり正確に言い当てる。
「やっぱり、君はヒカルをよく見ている」
「黙れ」
「ヒカルより、ヒカルを知っているところがある。ヒカルが忘れようとしたものを、君は覚えている。ヒカルが許そうとしたものを、君は許さない。ヒカルが自分を殺そうとしたとき、君はどう思ったんだろうね」
リムの表情が変わった。今度は見逃すまでもない。
刃より先に空気が鋭くなる。
そこで、私は声を少しだけ柔らかくした。
「フェリチタでは、死ぬこと自体は簡単だ。でも終われない。朝六時には戻ってくる。本当に消えたいなら、死体で外へ出るしかない。誰かに殺してもらって、朝までに運んでもらうしかない」
私は小さく笑った。
「そんなお願いを、ヒカルがしたとして、誰が聞くと思う?」
答えは返ってこない。
それでもリムの視線だけは逸れなかった。
「誰も聞かないよ。ナナセは泣いて止める。カナタは皮肉を言いながら椅子に縛りつける。ルカは怖がりながら誰かを呼びに走る。私は……まあ、たぶん運ばない。だって彼がそのあとどうなるのかを見られないから」
「知ったような口を利くな」
「知らないよ。だから知りたいんだ」
笑ったつもりだった。
けれど、その笑みがいつもより少し硬いことに、自分でも気づいていた。
「これが私の動機。好奇心。私は君を救いたいわけじゃない。ヒカルを治したいわけでもない。ただ知りたい。壊れたものが戻るのか、戻らないのか、戻ったふりをするのか、別の形になるのか。救われた顔も見たい。でも、救われる直前の地獄も同じくらい見たい。悪趣味だとは自分でも思う。けれど、やめようとは思わない」
リムは私を見下ろしている。
殺意はある。嫌悪もある。
そして今はその奥にもう一つ、形のわからないものが混じっていた。
それでもまだ殺さない。
なら、喋れる。
「それにね、今回はあれを残したかった」
私はカードを見た。
ナナセが描いた、少しだけ幸せそうなヒカルの似顔絵。血の海の中で、それだけが別のルールに守られているみたいに綺麗だった。
「君がどれだけ壊しても、ヒカルに向けられた祝福だけは残る。血は消える。死体も消える。でも言葉だけは朝を越える。自分の誕生日を祝ってくれた友人たちを殺したあとに、おめでとうの証拠だけが綺麗なまま残っている。そういうものを見たとき、ヒカルがどんな顔をするのか、私は知りたかった」
「悪趣味どころじゃねぇ。それでヒカルが壊れたらどうする気だった」
「そのときは、そのとき」
リムの表情が、明確に歪んだ。
怒り。嫌悪。殺意。それから、ほんの少しだけ別のもの。
自分のことではなく、ヒカルのことを言われたときだけ、彼の目には違う温度が宿る。
「でも、ひとつだけ予定外だった」
「……何がだ」
「ヒカルが笑ってたこと」
リムの目がわずかに揺れた。
それだけで十分だった。
私は、その揺れだけで次の言葉を続けられる。
「今日、彼は少しだけ笑ってた。ぎこちなかったけど、ちゃんと笑ってた。ナナセのカードを見たときも、みんなに祝われたときも、少しだけ息がしやすそうだった。私はね、それを見て、悪くないと思ってしまった」
自分の胸元に手を当てる。
そこに良心なんて上等なものがあるとは思っていない。
ただ、何かがざわついていた。
「気に入らないよね。私は誰かを救いたかったわけじゃない。ただ試したかっただけだ。それなのに、あの子が少しだけ救われたみたいな顔をしたことを、悪くないと思ってしまった。最悪だよね。本当に気持ち悪い。自分でもそう思う」
「……お前」
「何?」
「本当に、気持ち悪いな」
「うん。よく言われる」
にこやかに答えた。
たぶん今の私は、心底嬉しそうな顔をしている。
「でもね、リム。君は嫌がるだろうけど、私は君のことを友達だと思ってる」
リムの顔が、露骨に歪んだ。
殺意より先に嫌悪が出る。
それが少しだけおかしかった。
「友達という言葉を二度と使うな。言葉が腐る」
「難しいな。好きな言葉だから」
ナイフが喉に食い込む。
それでも私は、言葉を止めなかった。
「ヒカルのことも知りたいよ。でも、君は少し違う。君は私を殺す。怒る。嫌がる。覚えている。ヒカルが知らない昨日を、君だけが私と共有してくれる。だから私は、たぶん君に会いたいんだと思う」
薄く血が滲む感覚があった。
リムは、心底理解できないものを見る目で私を見ていた。
「……お前、何なんだよ」
「私は私だよ。タチバナ・メル」
私は笑った。
「友達のことは助けたい。でも、壊れるところも見ていたい。そういう、最悪に欲張りな友達だよ」
リムは黙っていた。
今にも殺しそうな顔をしている。なのに、ほんのわずかだけ遅い。
その遅さに甘えて、私は最後の言葉を選ぶ。
「だから明日も会おう、リム」
リムの目が完全に冷えた。
「ホテルでも、食事でも、観覧車でも、誕生日会でもいい。君が私を殺して、朝六時に全部戻る。それでも私が昨日のことを覚えていて、君もきっと覚えていて、ヒカルだけが何も知らずに困った顔をする。フェリチタって本当に最悪で、最高だよね」
リムの顔から表情が消えた。
ナイフを握る手に、力がこもる。
もう次はない。
だから、最後に一番嫌がる言葉を置くことにした。
「明日も覚えていてね、リム。私が君を友達だと思っていることだけは、朝六時を越えてしまうから」
「……やっぱりお前。俺なんかより、よっぽど狂ってる」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
次の瞬間、リムは私の首にナイフを突き刺した。
慣れた手つきで鮮やかに切り裂くのとは違い、乱暴で力任せな刺し方で。
いつもなら笑顔で楽しそうに人をかっさばく彼が、今は殺し方を捻る余裕もないらしい。
それから私は間髪おかずに体中を何度も刺された。
せめて最後に、「また明日ね」と伝えようとしたのに、口からひゅーひゅーと空気の音だけが情けなく漏れた。
穏やかな対話とは、最後まで程遠かった。
それでも満足だ。
リムが怒りで余裕を失っている様子はとても新鮮で、私は死に際にもかかわらず面白いと感じてしまったから。
「どうせ殺したって意味ねぇんだろ。六時になりゃ、何もかも戻る」
薄れていく意識の中で、リムの声だけが妙にはっきり聞こえた。
「お前はやっぱり化け物だよ、クソ野郎」
その言葉を最後に、私の世界は暗転した。
──そして話は、冒頭の朝へ戻る。
朝六時の鐘が鳴り、昨日死んだ全員が、何食わぬ顔で生き返った。
昨夜、血でぐしゃぐしゃになっていた床には、朝日が穏やかに差し込んでいる。汚れた服も、壊れた家具も、飛び散った血も、全部綺麗に消えていた。
何もなかったみたいに。
けれど、テーブルの上にはメッセージカードが残っていた。
ナナセが描いたヒカルの似顔絵。
ルカの雑な文字。
カナタの妙に小難しい祝辞。
それから、名前も顔もよく知っている住人たちからの『おめでとう』の言葉。
血の染みは消えていた。
けれど言葉だけは、昨日のままそこにあった。
フェリチタはいつだって、何もなかったことにするのが上手すぎる。
そして、何もなかったことにはしてくれない。
散歩がてら公園にやってくると、ベンチに座って雑談する友人たちが三人集まっていた。
こっそり近づいて耳をそばだてると、話題は昨日のヒカルの誕生日会らしい。
私は話を盗み聞きするつもりで、彼らの背後にそっと近付こうとしたとき、いきなり首根っこを掴まれた。
「──げ」
「これはこれは、さっそくフェリチタ屈指のトラブルメーカーがお出ましのようだね。ところでメルくん、ワタシに言うべきことがあるだろう?」
掴んだのはカナタだ。
彼は静かながら怒っていて、咎めるような目付きで私を鋭く睨んでいる。
理由は明白だ。
ヒカルの誕生日会に無理に参加させて、私ができる限りのことはやるとほざいた結果があの臓物パーティーだったのだから。
彼が憤るのももっともだ。
傷が残らないとはいえ、死の感覚を味わうのは気分の悪いものだ。喪失感、痛み、絶望感。
みんな死にたくなどないのだ。
何度死んでも、死ぬ瞬間だけは毎回ちゃんと怖い。そこまで親切に設計されているあたり、この街の悪趣味さには感心してしまう。
「……はは。ごめんねカナタ。今度美味いもん奢るから許して」
「ふぅん。高級ステーキで手を打とう」
「隠れ肉食男子め」
「死後の慰謝料としては格安だと思うけれどね」
ひとまず隠れ肉食男子は矛を納めてくれたようだが、ナナセは腰に手を当ててぷりぷり怒っている。
「もう、メルのせいだからね。友達のパーティーなのに参加しないの? なんて言われたら普通は断れないでしょ。わたしはいいけど、嫌がってる人のことをそうやって無理に誘ったらダメなんだから」
ナナセも無理に誘ったうちの一人には違いないが、カナタに比べるとわりかし彼女自身の意思で参加していた。
ヒカルのためを思う気持ちはそれなりに強い。
「そんなこと言ったっけ。しかもナナセの場合は友達じゃなくて元カノじゃないの?」
「ちょ、ちょっとやめてよ。みんなの前でそういうこと言わないでってば。次言ったら本当に許さないから!」
ナナセの可愛らしい照れ方を堪能しながら、私は舌を出しておちゃらけて見せる。
その隣では一際げんなりしている少年がいた。
昨日の出来事はかなり堪えたらしく、ルカは疲れたようにベンチの手すりにもたれかかっている。
「ウチもあんなことになるなら行かなきゃよかった。ただでさえヒカルくん怖いから近づきたくないのにさぁ。マジ病みそう」
「大丈夫? タピオカ飲む?」
「それ別に好きじゃないんだけど、何でいつも勧めてくるの?」
「落ち着くかなって」
「落ち着かないよ。ていうか、メルちゃんたちはよく普通にできるよね」
ルカは声を潜めて、少し離れた道の先を見た。
ルカは、ヒカルとリムをうまく切り分けられない。
「ヒカルくんが悪い子じゃないのはわかるけどさ。でも同じ顔で、同じ手で、毎回あれやるじゃん。別人ですって言われても、ウチの脳みそはそんな器用じゃないんだけど」
それはたぶん、この街では珍しいくらい真っ当な反応だった。
だからルカは、穏やかな顔をしたヒカルにも少し怯える。そしてヒカルは、そういう怯えにすぐ気づいてしまう。
ルカは大きくため息をついてベンチの背にもたれかかった。
「ウチみたいな人間って、この街では損するんだよね。知ってる」
死に慣れたふりをするには、ルカはまだ少しだけまともすぎるのだ。
とはいえ、まともな人間にも限度はある。
ルカはしばらく黙っていたが、やがて恨めしそうな目で私を見た。
「ていうかさぁ、メルちゃん。さっき他の子に聞いたんだけど、ウチの死に方を黒ひげ危機一髪とか言って笑ってたってマジ?」
「いやいや、人の死に方に笑うってどんなサイコパスだよ。あり得ないから。──っふ」
「……口が笑ってるよ、あなた」
「気のせいだって。多分顔面神経が昨日の死でバグってる」
「都合いい身体してんなぁ」
ルカは心底あきれた顔をした。
と、そのとき。
たまたま近くを通りかかった人影に、私は「あ!」と声をあげる。
ヒカルだった。
まっさきにナナセが駆け寄った。
「ヒカル、おはよう。今ちょうどみんなでお喋りしてたの。あなたもおいでよ」
ナナセの声に振り向いたヒカルは、私を見た瞬間に顔を背けた。
頭を押さえ、息を浅くする。額に汗が滲む。
彼自身はたぶん理由がわかっていないけれど、私は少しだけわかった。
昨日のアレが相当堪えたか。
ヒカルの中で、リムが私を嫌がっている。
それはなかなか悪くない現象だった。
ヒカルはリムの記憶を持っていない。
だから今の彼には、自分の身体が私を拒んでいる理由がわからない。わからないまま、怖がっている。
「……ごめん、今朝から頭痛が酷くて。原因は体調不良ってわけじゃない、たぶん精神的な問題なんだ。だけど自分でも自分がよくわからなくて、何がなんだか頭がごちゃごちゃしてるというか。その、また色々あったんだよね? もう俺に近づかない方が……」
「いいから来い。見ての通り私らは男女二人ずつという合コン人数で集まってる。これはゆゆしき事態だよ。だから早く来い」
私は微妙な顔をするヒカルを呼び寄せてベンチに促し、手すりに腰かけた。
ルカは若干表情を強張らせて、周囲に気づかれないようにおそるおそるヒカルから距離を取った。
その小さな動きにヒカルは気づいていた。気づいていながら、気づかなかったふりをした。
そういうところが、彼の痛々しいところだと思う。
呼んだはいいものの、明らかに傷心している彼をどう慰めようかと考えていると、
「……まずはその、ありがとう。みんなが俺の誕生日会をしてくれて、凄く楽しかったし嬉しかったよ」
ヒカルはうつむいたまま、躊躇いがちに話し始めた。いつになく弱々しい雰囲気で、消えてしまいそうなくらい儚い。
「朝、テーブルの上にカードが残ってたんだ」
ヒカルはそこで一度、言葉に詰まった。
「血は消えてた。床も壁も、全部綺麗になってた。でも、カードだけ残ってた。ナナセの絵も、ルカの文字も、カナタの変な祝辞も、みんなの『おめでとう』も、そのままだった」
そこで、ヒカルは泣きそうな顔で笑った。
「俺、それを見て……嬉しいって思っちゃったんだ」
ナナセの指先が、小さく動いた。
「みんなを殺したかもしれないのに。自分が何をしたのかも覚えてないのに。それでも、祝ってもらえたことが嬉しかった。最低だよね、俺」
「最低じゃないよ」とナナセは言いかけて、言葉を飲み込んだ。簡単に否定すればヒカルはもっと苦しむとわかっていたのだろう。
ルカは気まずそうに視線を逸らし、カナタは紅茶のカップを持ったまま黙っていた。
ヒカルの声が細く震える。
「俺、どうしたら治るのかな。どうしたら友達を傷つけずに済む? もう誰とも仲良くなりたくない。傷つけたくない。嫌われたくない。なのに、俺は……」
ヒカルの声が崩れた。
「俺は俺が大嫌いだよ。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
話の途中から泣き出したヒカルを、ナナセは背中をさすってなだめている。
それなのに私は、真面目に聞くふりをしながら必死に笑いをこらえていた。
予想していた反応ではあった。
それでも本人の口から聞くと少しだけ質感が違う。
祝福は、ちゃんと彼を刺していた。刃物よりもずっと柔らかい形で。
けれど同時に、少しだけ思うのだ。
ヒカルは罰を欲しがっている。
嫌われたい。
拒絶されたい。
責められたい。
そうすれば、自分が自分を嫌う理由が正しくなるから。
だけどフェリチタの住人たちは、そう簡単に他人へ罰を与えない。自分たちもまた、誰かに罰されないまま今日まで生きているからだ。
それまで黙っていたカナタが口を開いた。
「君は自分を嫌いすぎるあまり、他人の感情まで勝手に決定しているね」
カナタが紅茶のカップを置いた。
「少なくとも、ワタシは君に嫌いだと告げた覚えはないよ」
意外そうに顔をあげたヒカルに、優しく諭した。
「昨日殺された程度で交友関係を整理するほど、ワタシは几帳面ではないよ。そうだろう? メルくん」
「あぁ、そうだね。几帳面だったら、この街で友達なんて作れないだろうし」
ヒカルはまだ私と目を合わせようとしない。
昨日の、私とリムのやり取りを知る者はここにはいないのだ。
それでいい。
「いいかい、ヒカル」
私は一歩前に出て、演説でもするように両手を広げた。
「フェリチタにおいて、昨日殺したとか殺されたとかは、まあ、天気の話みたいなものなんだよ」
「天気の話ではないでしょ」
ルカが即座に言い返してきた。
「雨降ってたね、首飛んでたね、くらいの温度感ってこと」
「なにその温度感。頭、大丈夫?」
「こういう街に住んでるんだから、そこは受け入れていこう」
ルカはげんなりした顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「この街で本当に問題になるのは、刺したことそのものじゃない。刺したあと、翌朝どんな顔で会うかなんだよ」
俯いたままのヒカルの肩が小さく震えた。
「君は昨日みんなを殺した。うん、まあ、かなり派手にやった。正直、芸術点は高かったと思う。でも今日、君はみんなの前で謝った。カードを見て嬉しいと思った。嬉しいと思った自分を最低だと思った。それでも逃げずにここに来た」
私は少しだけ笑う。
「フェリチタ式に言えば、だいぶ上出来だよ」
「何、その式……」
「私が今作った」
「……信用できない」
「大丈夫。私が作った基準はだいたい私に都合がいい」
「もっと信用できないよ」
ヒカルが泣きながら、少しだけ笑った。
それを見て胸の奥が妙にざわつく。気に入らないけれど、悪くない。
「君がどれほど人を殺そうと、身体と街は朝六時に元へ戻る。でも、君が今日ここで謝ったことは残る。ナナセのカードが残ったみたいに、君が嬉しかったと言ったことも、ありがとうと言ったことも、たぶん私たちの中には残る」
ヒカルは目を伏せた。
「だから、全部が無駄になるわけじゃない。全部が許されるわけでもない。でも、全部が終わるわけでもない」
私はヒカルの前にしゃがみ込み、目線を合わせた。
「問題は山ほどある。君は危ないし、リムは怖いし、ルカはしばらく樽を見るたびに嫌な顔をするかもしれない」
「するに決まってるでしょ」
ルカが真顔で言う。
「ほら、問題だらけだ。でも、問題があることと、君の隣に誰もいなくなることは別だよ」
ヒカルの目から、また涙がこぼれた。
「だから何があっても私は……君の友達だ、ヒカル。少なくとも、君が勝手に自分を嫌って、勝手にひとりになろうとするたびに、かなり迷惑なやり方で扉を叩きに行くくらいにはね」
「……それ、友達なの?」
「友達だよ。フェリチタ基準ではかなり優良物件」
「基準が壊れてる……」
「壊れてる街だからね」
私は後ろを振り返る。
「みんなもそうでしょ?」
そばの友人たちに呼び掛けると、少し間があった。
ナナセは迷わず頷いた。
カナタは紅茶を置き、面倒そうに肩をすくめた。
ルカは目を合わせず、指先でベンチの端を落ち着きなく叩いている。
「……まあ、怖いのは怖いけど」
ルカはヒカルを見ないまま言った。
「正直、今も近いとちょっと怖い。昨日のこと思い出すし。樽とか、もう一生見たくないし」
「本当にごめん……」
「でも、怖いから絶交っていうのも、なんか違うじゃん。ウチ、そういう後味悪いの無理だし」
ルカは気まずそうに息を吐いた。
「だからまあ、次からはクラッカー禁止で」
「それでいいの……?」
「よくはない。今決められる条件がそれくらいってだけ」
ルカは気まずそうに頬をかいた。
「あと樽も禁止」
「それは本当にごめん……」
「謝罪一回につき甘いもの一個ね」
「……うん」
ヒカルは泣きながら、今度こそ少しだけ笑った。
「わたし、何回も大丈夫って言ったじゃん」
ナナセはヒカルの背中をさすりながら笑っていた。しかし、その笑い方は少しだけ下手だ。
「でも、ヒカルは信じられなかったんだよね。……そこは、ちょっと傷ついた」
「ごめん」
「それは今日もう聞いた。別の言葉にして」
ヒカルはしばらく黙ったあと、震える声で言った。
「……ありがとう」
ナナセは、今度はちゃんと笑った。
「うん。それなら聞く」
ナナセの笑顔につられて、ヒカルも安堵して表情を緩める。
泣きながら笑う彼の顔は、見ていて少しだけ息苦しくなるほど幼かった。
「やれやれ」
カナタがわざとらしくため息をついた。
「式場の手配ならワタシに任せるといい」
「ちょっとカナタ!」
ナナセの怒る声が響き、みんな笑った。
それからヒカルは少しずつみんなと打ち解けていき、他の友人もどんどん集まってきて、雑談はもうしばらく続いた。
ヒカルはしばらく謝罪の言葉を口にしてばかりだったけれど、友人たちと話すうちに笑顔も見せるようになっていた。
誰かが昨日の話を笑い話にする。誰かが笑いすぎだと怒る。誰かがまたケーキを買ってこようと言う。誰かが今度はクラッカー禁止にしろと言う。
昨日死んだ人間たちが、昨日自分を殺した人間の隣で、今日の昼食の話をしている。
おかしい。どう考えてもおかしい。
でも、そのおかしさに救われている者がいる。
いつもの和ましい空気が戻ってきたところで、私はそっとその場をあとにした。
私はリムにかなり嫌われたが、それはそれで悪くない成果だった。
ヒカルには、殺した程度では友人たちに嫌われたりしないと証明して見せることができた。
好奇心も満たされた。
だから、これは成功のはずなのだ。
それなのに、ヒカルが泣きながら笑った顔だけが妙に頭から離れない。
「……本当に、気に入らないな」
私は誰かを救いたかったわけじゃない。ただ知りたかっただけだ。ただ試したかっただけだ。
死んでも戻るこの街で、人の心がどこまで壊れて、どこまで戻るのか見たかっただけだ。
それなのに、あの子が少しだけ息をしやすそうにしていたことを、悪くないと思ってしまった。
まったく、困ったものである。
フェリチタの空は、今日も馬鹿みたいに青かった。
昨日あれだけ血が流れた場所にも、何食わぬ顔で陽が差している。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが誰かの隣に座って、どうでもいい話をしている。
この街は、死をなかったことにする。
痛みを消す。傷を塞ぐ。壊れたものを直す。
けれど、言葉だけは、記憶だけは、誰かに向けられた気持ちだけは、朝六時を越えてしまう。
絶望の味も好きだけど、こういうぬるい空気も悪くない。そう思ったことは、みんなには内緒だ。
たぶん明日も、誰かが死んで、誰かが笑う。
それでも私は、空を見上げてつぶやいた。
「今日も、平和だな」




