episode 2
食堂に誰もいなかった。
トレーが三つ、テーブルの上に残っていた。一つは食べかけだった。フォークが皿に刺さったままになっていた。マグカップが二つ、中身が入ったままだった。冷めている。いつ置かれたのか、俺にはわからなかった。
あれから数日が経っていた。
管制室に戻ると、空いているコンソールが増えていた。マークが出ていった翌日から、一人、また一人と施設を離れた。地上から連絡が来るたびに、誰かが立ち上がって荷物を取って、エレベーターへ向かった。止める言葉を俺は毎回持っていなかった。戻ってきた人間は一人もいない。
消灯した区画が増えていた。誰もいないコンソールの前で、モニターだけが数値を流し続けていた。
「……まだ戻ってないのか」
声に出したが、聞いている人間がいなかった。
通信は続いていた。
施設の受信端末には世界中からの信号が入り続けていた。最初の数日は報告という形を保っていたが、今はそうじゃなかった。
『翼竜だ、空一面に飛んでる、どこへ逃げれば』
『ビルの間をTレックスが歩いてる、本物だ、本物が来てる』
『窓にメガネウラが、でかい、羽が』
ノイズが入って、声が途切れた。また別の声が来た。絶叫が混じった。子供の泣き声も聞こえる。
俺はモニターを確認した。衛星映像、正常。海面データ、異常なし。大気観測、変化なし。
スクリーンのマリアが言った。
「外部環境正常。大型生体反応なし」
静かな声だった。通信の悲鳴と、マリアの声と、冷却音が管制室に重なっていた。
「聞こえてるよな。あの声」
「聞こえてるわ。でも、データには存在しない」
それだけだった。
俺は受信端末のボリュームを少し下げた。それでも声は届いた。
午後になって、また人が減った。
リナという女性技術者だった。娘から通信が来たらしく、コンソールの前で長い間スマートフォンを握っていた。それから立ち上がって俺のところへ来た。
「娘が泣いてて」
リナ自身も泣いている。
「空が黒いって、来るって言ってて」
俺はモニターを見た。該当地域の空域データを出した。異常なし。
「データ上は問題ない」
「でも娘が」
スクリーンのマリアが言った。
「現地空域に異常なし。気象データ、衛星映像ともに正常値内」
リナはマリアを見た。それからまた俺を見た。
「止めないでください」
止める言葉がなかった。データが正常だと言い続けても、娘が泣いているという事実は消えない。
俺にもマリアにも、誰かを強制的に留まらせる権限がない。この施設には、人を拘束する権限がない。最終判断は、いつでも人間側だった。
リナは荷物を持って、エレベーターへ向かった。
管制室がまた静かになった。
深夜、通路を歩いていた。
トイレへ向かう途中だった。非常灯だけが点いている区画があって、そこを通った。床が薄暗かった。
壁に水が流れた。
一瞬だけだった。壁の表面を波が伝った。海の底から見上げるような揺らぎが視界に入って、次の瞬間には消えていた。
普通の通路だった。コンクリートの壁だった。
俺は立ち止まった。
呼吸を整えた。壁を見た。何もなかった。
「……今、見えた」
声が廊下に吸い込まれた。返事はなかった。
管制室に戻った。マリアのスクリーンが点いていた。
「施設内部に異常は検知されていない」
こちらを見ながら、マリアは言う。
「俺にも見えた。壁に波が走った。一瞬だけ」
マリアがディスプレイを見ながら、キーボードを操作している。
「なんで俺は平気なんだ」
俺は声を落として、ゆっくりと言う。
「外に出た連中は全員何かを見て走っていった。なんで俺だけここにいる」
「保護しているから」
短い答えだった。それ以上の説明がなかった。
「保護? どういうことだ」
「遮断レベルを引き上げるわ。今夜から」
スクリーンの向こうで何かが動いた。数値が変わった。
俺は自分の手を見た。変わらない手だった。でも何かが変わった気がした。施設の中で、俺だけが守られている。その意味をうまく理解できないまま、椅子に座った。
翌日から、外部通信が減っていった。
ニュース放送が止まった。軍の通信チャンネルが途絶えた。政府系の回線が一つずつ消えていった。残ったのはラジオだけだった。誰かが送り続けている信号が、ノイズの中に混じっていた。
『寒い、寒い、指が』
『氷河が来てる、街が』
外気温のデータが出ていた。二十二度だった。
俺はその数字を見てから、ラジオの声を聞いた。氷河が来ていると言っている人間がいる場所の気温が、二十二度だった。暖かい秋の昼間の温度だった。
その温度差を、どう理解すればいいのかわからなかった。
夜になって、残っていた職員が立ち上がった。
レオンという男で、五十代だった。家族の連絡先に何度もかけ続けていた。つながらなかったらしく、スマートフォンをポケットに入れて、コンソールの電源を落とした。
「行きます」
俺を見なかった。
何も言えなかった。行ってください、とも、待ってください、とも言えなかった。レオンはエレベーターへ向かって、扉が閉まった。
管制室に俺とマリアのスクリーンだけが残った。
冷却音が鳴っていた。数百のコンソールのうち、電源が入っているのは俺の前のものだけになっていた。消えたモニターが壁に並んでいた。さっきまで誰かが座っていた椅子が、そのまま残っていた。
ラジオがまだ声を拾っていた。
『空が』
『来る、来る、来る――』
ノイズで消えた。
俺は管制室を見回した。広い部屋だった。こんなに広かったんだと、今更思った。人間がいたときは気づかなかった。
「この施設、あと何年保つ」
少し間があった。
「現在稼働率なら、八十七年程度ね」
マリアは答えた。俺は次の言葉を探した。
「食糧備蓄は」
「現有人員換算で、約九十二年くらいでしょうね」
九十二年分の食糧が地下にある。それを用意していたということは、最初からこうなることを想定していたということだ。あるいはこうなった後のことを、誰かが考えていたということだ。
戻ってこない。
外に出た人間は、誰も戻ってこない。マークも、リナも、レオンも、みんな何かを見て走っていった。
データには存在しない何かに向かって。そしてそのまま消えた。
俺はコンソールの前に座ったまま、壁の消えたモニターを見ていた。
冷却音が続いていた。
「外は正常よ」
スクリーンの中で、彼女は変わらずこちらを見ていた。




