表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第九色 パープルドリーム―― Purple Dream――
19/20

episode 2

 食堂に誰もいなかった。


 トレーが三つ、テーブルの上に残っていた。一つは食べかけだった。フォークが皿に刺さったままになっていた。マグカップが二つ、中身が入ったままだった。冷めている。いつ置かれたのか、俺にはわからなかった。


 あれから数日が経っていた。

 管制室に戻ると、空いているコンソールが増えていた。マークが出ていった翌日から、一人、また一人と施設を離れた。地上から連絡が来るたびに、誰かが立ち上がって荷物を取って、エレベーターへ向かった。止める言葉を俺は毎回持っていなかった。戻ってきた人間は一人もいない。


 消灯した区画が増えていた。誰もいないコンソールの前で、モニターだけが数値を流し続けていた。


「……まだ戻ってないのか」


 声に出したが、聞いている人間がいなかった。


 通信は続いていた。

 施設の受信端末には世界中からの信号が入り続けていた。最初の数日は報告という形を保っていたが、今はそうじゃなかった。


『翼竜だ、空一面に飛んでる、どこへ逃げれば』

『ビルの間をTレックスが歩いてる、本物だ、本物が来てる』

『窓にメガネウラが、でかい、羽が』


 ノイズが入って、声が途切れた。また別の声が来た。絶叫が混じった。子供の泣き声も聞こえる。


 俺はモニターを確認した。衛星映像、正常。海面データ、異常なし。大気観測、変化なし。

 スクリーンのマリアが言った。


「外部環境正常。大型生体反応なし」


 静かな声だった。通信の悲鳴と、マリアの声と、冷却音が管制室に重なっていた。


「聞こえてるよな。あの声」

「聞こえてるわ。でも、データには存在しない」


 それだけだった。

 俺は受信端末のボリュームを少し下げた。それでも声は届いた。


 午後になって、また人が減った。

 リナという女性技術者だった。娘から通信が来たらしく、コンソールの前で長い間スマートフォンを握っていた。それから立ち上がって俺のところへ来た。


「娘が泣いてて」


 リナ自身も泣いている。


「空が黒いって、来るって言ってて」


 俺はモニターを見た。該当地域の空域データを出した。異常なし。


「データ上は問題ない」

「でも娘が」


 スクリーンのマリアが言った。


「現地空域に異常なし。気象データ、衛星映像ともに正常値内」


 リナはマリアを見た。それからまた俺を見た。


「止めないでください」


 止める言葉がなかった。データが正常だと言い続けても、娘が泣いているという事実は消えない。

 俺にもマリアにも、誰かを強制的に留まらせる権限がない。この施設には、人を拘束する権限がない。最終判断は、いつでも人間側だった。

 リナは荷物を持って、エレベーターへ向かった。

 管制室がまた静かになった。


 深夜、通路を歩いていた。

 トイレへ向かう途中だった。非常灯だけが点いている区画があって、そこを通った。床が薄暗かった。

 壁に水が流れた。

 一瞬だけだった。壁の表面を波が伝った。海の底から見上げるような揺らぎが視界に入って、次の瞬間には消えていた。


 普通の通路だった。コンクリートの壁だった。

 俺は立ち止まった。

 呼吸を整えた。壁を見た。何もなかった。


「……今、見えた」


 声が廊下に吸い込まれた。返事はなかった。

 管制室に戻った。マリアのスクリーンが点いていた。


「施設内部に異常は検知されていない」


 こちらを見ながら、マリアは言う。


「俺にも見えた。壁に波が走った。一瞬だけ」


 マリアがディスプレイを見ながら、キーボードを操作している。


「なんで俺は平気なんだ」


 俺は声を落として、ゆっくりと言う。


「外に出た連中は全員何かを見て走っていった。なんで俺だけここにいる」

「保護しているから」


 短い答えだった。それ以上の説明がなかった。


「保護? どういうことだ」

「遮断レベルを引き上げるわ。今夜から」


 スクリーンの向こうで何かが動いた。数値が変わった。

 俺は自分の手を見た。変わらない手だった。でも何かが変わった気がした。施設の中で、俺だけが守られている。その意味をうまく理解できないまま、椅子に座った。


 翌日から、外部通信が減っていった。

 ニュース放送が止まった。軍の通信チャンネルが途絶えた。政府系の回線が一つずつ消えていった。残ったのはラジオだけだった。誰かが送り続けている信号が、ノイズの中に混じっていた。


『寒い、寒い、指が』

『氷河が来てる、街が』


 外気温のデータが出ていた。二十二度だった。

 俺はその数字を見てから、ラジオの声を聞いた。氷河が来ていると言っている人間がいる場所の気温が、二十二度だった。暖かい秋の昼間の温度だった。

 その温度差を、どう理解すればいいのかわからなかった。


 夜になって、残っていた職員が立ち上がった。

 レオンという男で、五十代だった。家族の連絡先に何度もかけ続けていた。つながらなかったらしく、スマートフォンをポケットに入れて、コンソールの電源を落とした。


「行きます」


 俺を見なかった。

 何も言えなかった。行ってください、とも、待ってください、とも言えなかった。レオンはエレベーターへ向かって、扉が閉まった。


 管制室に俺とマリアのスクリーンだけが残った。

 冷却音が鳴っていた。数百のコンソールのうち、電源が入っているのは俺の前のものだけになっていた。消えたモニターが壁に並んでいた。さっきまで誰かが座っていた椅子が、そのまま残っていた。

 ラジオがまだ声を拾っていた。


『空が』

『来る、来る、来る――』


 ノイズで消えた。

 俺は管制室を見回した。広い部屋だった。こんなに広かったんだと、今更思った。人間がいたときは気づかなかった。


「この施設、あと何年保つ」


 少し間があった。


「現在稼働率なら、八十七年程度ね」


 マリアは答えた。俺は次の言葉を探した。


「食糧備蓄は」

「現有人員換算で、約九十二年くらいでしょうね」


 九十二年分の食糧が地下にある。それを用意していたということは、最初からこうなることを想定していたということだ。あるいはこうなった後のことを、誰かが考えていたということだ。


 戻ってこない。

 外に出た人間は、誰も戻ってこない。マークも、リナも、レオンも、みんな何かを見て走っていった。

 データには存在しない何かに向かって。そしてそのまま消えた。


 俺はコンソールの前に座ったまま、壁の消えたモニターを見ていた。

 冷却音が続いていた。


「外は正常よ」


 スクリーンの中で、彼女は変わらずこちらを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ