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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第九色 パープルドリーム―― Purple Dream――
18/20

episode 1

 エレベーターが下へ向かうとき、耳が詰まる感覚がある。


 地下八百メートルまで降りるのに四分かかる。毎日乗っているのに、その四分だけは慣れない。

 気圧の変化なのか、心理的なものなのか、俺にはわからない。扉が開くたびに少し息を吸って、それから歩き出す。そういう習慣がついていた。


 管制室は広かった。

 サッカー場ほどの床面積に、コンソールが弧を描いて並んでいた。天井が高く、壁一面にモニターが並んでいた。冷却システムの唸りが空気全体に染み込んでいて、会話は少し声を張らないと聞こえない。

 三百人以上が働ける設計だが、今朝の時点ではまだ六十人ほどしか入っていなかった。起動は午前十時の予定だった。

 俺がコンソールについてログを確認していると、声がした。


「昨夜のシミュレーション結果、見た?」


 正面の大型スクリーンにマリアが映っていた。彼女は白衣の前が少し崩れていて、髪を後ろでまとめていた。


「見た。問題なかった」

「ケーブル束のC-7が接触不良気味だったでしょ。補修した?」

「した。昨日の夕方に」

「確認書類は?」

「出した」


 マリアが少し間を置いた。


「ならいいわ」


 十二年かけて作った施設だった。俺は管制系の立ち上げから関わっている。

 マリアも最初期からいた。誰より先に起動試験へ入り、誰より長く観測ログを見続けていた。組み合わせとしては悪くなかったと思う。


 ただ彼女は心配性だった。確認を嫌がらない。何度確かめても、もう一回確かめる。

『信頼は検証の上に成立する』

 それが彼女の口癖だった。


「今日は寝不足じゃないだろうな」

「いつも通りよ」

「いつも通りが問題なんだが」


 スクリーンの向こうでマリアが何か飲んだ。コーヒーだろうと思った。彼女の手元にはだいたいコーヒーがある。


「緊張してる?」

「してない」


 答えてから、少し考えた。


「してるかもしれない」

「正直ね」


 笑ったかどうかは、スクリーン越しだとよくわからなかった。


 午前十時二分、MARIA起動シーケンスが開始された。


 CENTRAL STRATEGIC SYSTEM ――十二年と七百億ドルを注ぎ込んだ、人類最大級の観測システムだった。


 カウントダウンが進んだ。管制室全体が息を止めていた。

 ゼロになった瞬間、冷却音が一段上がった。モニターの数値が端から順に緑へ変わっていった。海底観測網、接続完了。宇宙レーダー、気象衛星、全回線確認。地殻監視端末、正常。深海センサー群、応答確認。


「全系統正常起動」


 誰かが読み上げた。

 管制室に拍手が起きた。隣のコンソールの技術者が立ち上がって叫んだ。抱き合っている二人組がいた。十二年待った人間たちの反応だった。俺も拍手した。

 スクリーンのマリアは拍手していなかった。端末を見ていた。数値をスクロールしていた。俺はそれが少し気になった。


「嬉しくないのか」

「正常動作して当然だから」


 マリアは淡々と答えた。目は端末から離れなかった。


「喜ぶのは一週間後、安定稼働が確認できてからでいいわ」

「お前と祝杯を飲む日は来ないな」

「来るわよ。ただし条件付きで」


 周りの歓声の中で、スクリーンのマリアだけが静かに数字を見ていた。


 最初の報告が入ったのは、起動から三日後だった。

 南米の複数都市で空の色が一時的に変わったという報告。北欧で海面が異常な光の反射を見せたという観測記録。東南アジアの住民が気温の急変を感じたという通報が相次いだ。ニュースは光学異常と電磁嵐という言葉で片付けていた。


 施設内でも当初は同じ受け止め方だった。新システム起動直後の調整期間中は、センサーの誤反応が出やすい。重なったのは偶然か、あるいは相互干渉か。深刻視する空気はなかった。


 マリアだけが黙っていた。

 その日の夕方、通信が入った。スクリーンに映った彼女の顔が、いつもより少し固かった。


「環境データを確認した。気温、気圧、電磁場、全部正常よ」

「なら問題ないだろ」

「逆よ」


 彼女はこちらを見た。


「データは正常。でも人間側だけが異常を見てる」

「センサーの見落としじゃないのか」

「全回線が一致してる」


 マリアは首を横に振りながら、言った。


「見落としじゃない」


 俺はその言葉の意味を考えた。データにないものが見える。それが何を指すのか、うまく整理できなかった。


「続けて確認する」


 マリアはそう言って、通信を切った。

 俺はしばらくコンソールの前に座っていた。冷却音が変わらず鳴っていた。


 翌日の午後、管制室の空気が変わった。

 各地からの報告が増えていた。海が消えたという沿岸の住民、見たことのない巨大な影を見たという複数の目撃証言、氷点下を訴える熱帯地域の通報。数字の上では何も変わっていなかった。気温も海面も正常だった。


 そのとき、管制室の後方で声が上がった。

 マークという技術者だった。三十代で、入所して八年になる。コンソールを離れてスマートフォンを握っていた。顔が白かった。


「家族から連絡が来て」


 彼の声は揺れ、焦りが滲んでいる。そう言えば、子どもが生まれたばかりだと言っていた。


「海が来てるって。妻が、子供が」

「家の場所は?」


 俺は落ち着かせるように、声をかけた。


「ここから、二十キロほどの町です。海が来てる、早く来てって」


 俺はそのまま小さな町を確認した。そこは内陸。海からは千キロ近く離れている。すべて異常なし。

 スクリーンのマリアが言った。


「現時点では地上への外出を推奨しません」


 マークはマリアには目を向けず、上官にくってかかる。


「でも家族が」

「データ上、海面に異常はありません」


 マリアの声は静かだった。


「家族の安全は確認します。外部通信を通じて」

「直接行かないと。生まれたばかりの子供がいるんです」


 止める言葉を俺……いや、誰にも持っていなかった。データが正常だと言っても、妻から海が来ると連絡が来ている人間を椅子に座らせ続けることはできない。


「すぐ戻ります」


 管制室を出ていった。

 俺は地上監視カメラを切り替えた。施設の地上出口付近の映像だった。マークがエレベーターから出てきた。外に出た。走り出した。車にも乗っていない。


 カメラを追った。

 マークは海方向に走っていた。全力で走っていた。

 海はなかった。晴れた空の下、普通の道路が続いているだけだった。彼はそこへ向かって全力で走っていた。


「……なんなんだよ、これ」


 つい声に出ていた。スクリーンのマリアが言った。


「まだ初期段階よ」


 コンソールの前で、俺はカメラの映像を見続けた。マークの姿が小さくなっていった。彼には何かが見えていた。俺には見えないものが。データにも存在しないものが。


 冷却音が変わらず鳴り続けていた。

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