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色相異譚 ――静かな終末短編集――  作者: 月城玉菜
第八色 シルバーハート―― Silver Heart――
15/20

episode 1

 廊下の空調が、低く唸っていた。


 エイドリアン・コール少佐は手錠の重さに苦笑しながら歩いた。足音が、コンクリートの廊下に反響した。

 軍警察の二人は前後に一人ずつ。必要以上に話しかけてこない。怒鳴ることもなければ、急かすこともなかった。

 処刑される人間に対して、妙に丁寧な距離感だった。


 蛍光灯が一本、わずかにチラついていた。エイドリアンはそれを見ながら歩いた。死が近いから鮮明に見えているわけじゃない。他に考えることがなかった。


 自分がスパイだったのか。

 三年間、その問いに答えが出なかった。墜落前後の記憶が曖昧なまま裁判が進み、軍法会議が終わり、今日になった。ずっと否定し続けた。

 でも完全には言い切れなかった。記憶の空白が、否定の言葉に毎回引っかかった。


 格納庫は朝の光の中にあった。

 あの時の話だ。第七試験航空団基地、早朝。整備員たちが機体の周りで動いていた。

 エイドリアンがヘルメットを持って入ってくると、ダニエル・ブルックス大尉が缶コーヒーを放り投げてきた。

 ダニエルが笑いながら、言う。


「今日の機体、昨日より機嫌悪そうだな」

「お前よりは静かだ」


 ダニエルが笑った。エイドリアンも少し笑った。それだけだった。長年の相棒というのはそういうものだ。余分な言葉が要らなくなる。


 今回の試験機は次世代可変兵装機で、国家最高機密級の代物だった。整備員たちの動きに緊張感があった。管制との交信を確認しながら、エイドリアンは機体を一周した。脚部の継ぎ目、翼端のセンサー、胴体下の兵装ベイ。指先で触れながら、状態を確かめた。

 特別な朝ではなかった。ただの仕事だと思っていた。


 執行室の前に軍医が立っていた。


「遺言は」と軍医が聞く。

「ない」とエイドリアンは答える。


 本当のことではなかった。でも言葉にできるものが、何もなかった。ダニエルのことだけが、ずっと頭の隅にあった。ダニエルは死んだ。

 病室で最初に聞かされた言葉だった。全身の包帯越しに、その言葉だけが皮膚の下まで届いた。


 執行室は白かった。病院に似ていた。似ているが、回復を目的としていない。拘束台に横になった。腕に薬剤のラインが接続された。天井が均一な白さで、影がない。


 離陸後、最初の十五分は正常だった。

 HUDの数値が安定していた。機体の応答も問題ない。エイドリアンは左翼を傾けて旋回した。機体が従った。

 突然、制御系統に警告が入った。

 HUDが乱れた。スロットルへの応答が遅れた。通信にノイズが走り、ダニエルの声が途切れた。復旧しなかった。

 機体が都市部へ向かっていた。回避できる角度ではなかった。


「脱出しろ、エイド!」


 ダニエルの声が割れながら届いた。

 エイドリアンは脱出レバーを引いた。引いた記憶がある。

 確かに手が動いた。そこから先が、白く飛んでいた。


 目が覚めると病室だった。

 全身が熱かった。熱傷の処置で人工皮膚が貼られていた。鎮静剤が切れかけていた。最初に視界に入ったのは白い天井で、次に軍服の人間たちだった。


 軍は通信記録を持ってきた。

 外部アクセス。改竄。

 市街地墜落。民間人死亡。

 エイドリアンには脱出の記憶があった。だが、その説明ができなかった。

 否定した。何度も否定した。でも記憶の空白が埋まらなかった。証拠が積み上がった。世論が動いた。軍法会議が開かれた。

 判決は死刑だった。


 薬剤が腕に入ってきた。

 冷たさが血管を上がってくる感触があった。エイドリアンは天井を見たまま、恐怖を探した。あまり見つからなかった。

 覚悟というより、疲れ切っている感じに近かった。三年間の裁判と拘束生活が、感情の多くを先に使い果たしていた。


 格納庫の朝が浮かんだ。ダニエルが缶コーヒーを投げてきた。笑い声がした。機体の金属の冷たさが指先にあった。

 意識が薄くなり、白くなった。


 白い天井があった。

 数秒、何もわからなかった。状況を把握しようとする前に、身体の感覚が先に来た。軽かった。呼吸の感触が違う。空気が肺に入る感覚はあるが、何かが以前と違う。

 痛みがない。熱傷痕の引き攣れがない。瞬きしたとき、音がしなかった。


 上体を起こす。

 ガラスの向こうに人間がいた。研究員と軍関係者が数名、モニター群の前に立っていた。全員がこちらを見ていた。

 研究主任と思われる男が前に出て、マイクを通した声で言った。


「おめでとうございます、コール少佐」


 間があった。


「人格転写は成功しました」

「人格転写?」


 言葉だけが引っかかった。


 処刑された。


 でもここにいる。新しい身体がある。情報として並べると、筋道が通る。論理的には成立する。


 だが何も来なかった。

 喜びがない。恐怖もない。安堵もなかった。

 処刑台の上で探した恐怖より、もっと何もなかった。


 研究員の一人が質問してきた。


「気分はどうですか」


 エイドリアンは少し考えた。即答できる問いではなかった。自分の内側を確認しようとして、手がかりが少なかった。


「……わからない」


 研究員たちは互いに頷き合った。モニターのデータを確認し合い、成功を喜んでいた。室内の温度が上がるような雰囲気だった。


 エイドリアンは室内のモニターに映った自分を見た。

 人間そのものだった。年齢も、顔の造作も、以前と変わらない。

 胸に手を当てた。

 温かさはある。

 だが、静かだった。

 何も打っていなかった。皮膚の下に、何もなかった。


 モニターには文字が並んでいた。

 PROJECT SILVER HEART


 エイドリアンはモニターから目を離さなかった。自分の手が胸の上にある。静かなままだった。

 研究員たちの声が遠くで続いていた。

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