episode 1
廊下の空調が、低く唸っていた。
エイドリアン・コール少佐は手錠の重さに苦笑しながら歩いた。足音が、コンクリートの廊下に反響した。
軍警察の二人は前後に一人ずつ。必要以上に話しかけてこない。怒鳴ることもなければ、急かすこともなかった。
処刑される人間に対して、妙に丁寧な距離感だった。
蛍光灯が一本、わずかにチラついていた。エイドリアンはそれを見ながら歩いた。死が近いから鮮明に見えているわけじゃない。他に考えることがなかった。
自分がスパイだったのか。
三年間、その問いに答えが出なかった。墜落前後の記憶が曖昧なまま裁判が進み、軍法会議が終わり、今日になった。ずっと否定し続けた。
でも完全には言い切れなかった。記憶の空白が、否定の言葉に毎回引っかかった。
格納庫は朝の光の中にあった。
あの時の話だ。第七試験航空団基地、早朝。整備員たちが機体の周りで動いていた。
エイドリアンがヘルメットを持って入ってくると、ダニエル・ブルックス大尉が缶コーヒーを放り投げてきた。
ダニエルが笑いながら、言う。
「今日の機体、昨日より機嫌悪そうだな」
「お前よりは静かだ」
ダニエルが笑った。エイドリアンも少し笑った。それだけだった。長年の相棒というのはそういうものだ。余分な言葉が要らなくなる。
今回の試験機は次世代可変兵装機で、国家最高機密級の代物だった。整備員たちの動きに緊張感があった。管制との交信を確認しながら、エイドリアンは機体を一周した。脚部の継ぎ目、翼端のセンサー、胴体下の兵装ベイ。指先で触れながら、状態を確かめた。
特別な朝ではなかった。ただの仕事だと思っていた。
執行室の前に軍医が立っていた。
「遺言は」と軍医が聞く。
「ない」とエイドリアンは答える。
本当のことではなかった。でも言葉にできるものが、何もなかった。ダニエルのことだけが、ずっと頭の隅にあった。ダニエルは死んだ。
病室で最初に聞かされた言葉だった。全身の包帯越しに、その言葉だけが皮膚の下まで届いた。
執行室は白かった。病院に似ていた。似ているが、回復を目的としていない。拘束台に横になった。腕に薬剤のラインが接続された。天井が均一な白さで、影がない。
離陸後、最初の十五分は正常だった。
HUDの数値が安定していた。機体の応答も問題ない。エイドリアンは左翼を傾けて旋回した。機体が従った。
突然、制御系統に警告が入った。
HUDが乱れた。スロットルへの応答が遅れた。通信にノイズが走り、ダニエルの声が途切れた。復旧しなかった。
機体が都市部へ向かっていた。回避できる角度ではなかった。
「脱出しろ、エイド!」
ダニエルの声が割れながら届いた。
エイドリアンは脱出レバーを引いた。引いた記憶がある。
確かに手が動いた。そこから先が、白く飛んでいた。
目が覚めると病室だった。
全身が熱かった。熱傷の処置で人工皮膚が貼られていた。鎮静剤が切れかけていた。最初に視界に入ったのは白い天井で、次に軍服の人間たちだった。
軍は通信記録を持ってきた。
外部アクセス。改竄。
市街地墜落。民間人死亡。
エイドリアンには脱出の記憶があった。だが、その説明ができなかった。
否定した。何度も否定した。でも記憶の空白が埋まらなかった。証拠が積み上がった。世論が動いた。軍法会議が開かれた。
判決は死刑だった。
薬剤が腕に入ってきた。
冷たさが血管を上がってくる感触があった。エイドリアンは天井を見たまま、恐怖を探した。あまり見つからなかった。
覚悟というより、疲れ切っている感じに近かった。三年間の裁判と拘束生活が、感情の多くを先に使い果たしていた。
格納庫の朝が浮かんだ。ダニエルが缶コーヒーを投げてきた。笑い声がした。機体の金属の冷たさが指先にあった。
意識が薄くなり、白くなった。
白い天井があった。
数秒、何もわからなかった。状況を把握しようとする前に、身体の感覚が先に来た。軽かった。呼吸の感触が違う。空気が肺に入る感覚はあるが、何かが以前と違う。
痛みがない。熱傷痕の引き攣れがない。瞬きしたとき、音がしなかった。
上体を起こす。
ガラスの向こうに人間がいた。研究員と軍関係者が数名、モニター群の前に立っていた。全員がこちらを見ていた。
研究主任と思われる男が前に出て、マイクを通した声で言った。
「おめでとうございます、コール少佐」
間があった。
「人格転写は成功しました」
「人格転写?」
言葉だけが引っかかった。
処刑された。
でもここにいる。新しい身体がある。情報として並べると、筋道が通る。論理的には成立する。
だが何も来なかった。
喜びがない。恐怖もない。安堵もなかった。
処刑台の上で探した恐怖より、もっと何もなかった。
研究員の一人が質問してきた。
「気分はどうですか」
エイドリアンは少し考えた。即答できる問いではなかった。自分の内側を確認しようとして、手がかりが少なかった。
「……わからない」
研究員たちは互いに頷き合った。モニターのデータを確認し合い、成功を喜んでいた。室内の温度が上がるような雰囲気だった。
エイドリアンは室内のモニターに映った自分を見た。
人間そのものだった。年齢も、顔の造作も、以前と変わらない。
胸に手を当てた。
温かさはある。
だが、静かだった。
何も打っていなかった。皮膚の下に、何もなかった。
モニターには文字が並んでいた。
PROJECT SILVER HEART
エイドリアンはモニターから目を離さなかった。自分の手が胸の上にある。静かなままだった。
研究員たちの声が遠くで続いていた。




