episode 2
三週間が経っていた。
適応試験は毎日続いた。歩行、反応速度、記憶確認、射撃、状況判断。
どれも正常値を上回る結果が出た。研究員たちはそのたびにデータを記録し、互いに確認し合い、満足そうな顔をした。自分はそれを見ながら、自身がテストを受けているのか、テストそのものになっているのか、わからなくなることがあった。
ある日の昼、研究員の一人と食堂へ行った。
トレーに乗っていたのは、ビーフシチューとパン、サラダだった。見た瞬間、思い出した。
ダニエルとよく食べていたものだ。基地の食堂で、ダニエルがパンをちぎりながら何か話していた。その映像は記憶の中に鮮明にあった。
スプーンを口に運んだ。
塩味がある。温度がある。肉の繊維の食感がある。全部把握できた。消化ユニットが正常に機能している。研究員が横から聞いてきた。
「味はどうですか」
「正常だと思います」
自分はそう答える。
研究員は頷いてメモを取った。自分はもう一口食べた。
正常……という言葉が頭の中で少し引っかかった。正常とは何を基準にするのか。
以前の自分が感じていた美味いという感覚を正常とするなら、今は正常ではなかった。でもそれを研究員に伝えても、データにならないような気がする。
パンをちぎった。ダニエルがそうしていたように。手が同じ動作をしている。でも、内側は静かなままだった。
社会適応確認という名目で、外出許可が下りる。
軍監察官と研究主任の二人が同行した。施設の外に出るのは転写後初めてだった。自動ドアが開いて、外の空気が来た。
以前なら、この瞬間に何か感じていたはずだった。
街は変わっていた。
無人の輸送車両が車道を走っていた。広告は顔認証に連動して切り替わる仕様になっていた。交差点の警備は自動化されていた。人間の数は以前より少なく、その分だけ静かだった。自分は歩きながら街を観察した。データとして入ってくる。処理できる。
でも以前のように、街の空気を肌で感じる、という感覚が何を指すのかわからなくなっていた。
研究主任が並んで歩きながら言った。
「懐かしいですか」
「記憶はあります」
それ以上の答えが出なかった。
交差点で、子供が転んだ。
配送車両が交差点に入ってきていた。子供の位置と車両の速度と距離を、俺は瞬時に計算した。間に合う。体が動いていた。子供を抱えて歩道側へ出た。車両が横を通過する。
母親が駆け寄ってきた。泣きながら礼を言っていた。周囲の人間が立ち止まって見ていた。研究主任が少し離れたところから記録を取っていた。
俺は子供を地面に下ろした。子供は驚いた顔をしていたが、怪我はなかった。
その場を離れてから、自分の状態を確認した。呼吸が乱れていない。脈が存在しない。当然だが、上がりようがない。
以前の自分なら、あの瞬間に心拍が跳ね上がっていたはずだった。手が震えるか、震えを抑えるかのどちらかだった。
今は何もなかった。
動いた。正確に処理した。終わった。それだけだった。
英雄という言葉が周囲から出ていたが、その言葉が何を意味するのか、うまく受け取れなかった。
ショッピングモールを通った。
子供が泣き叫んでいた。親が宥めようとしていて、周囲の人間が苛立つか困るかのどちらかの表情をしていた。
自分は立ち止まった。
うるさくなかった。可哀想でもなかった。音として認識できた。生命の危険がないと判断した。それだけだった。
以前の自分なら、何かを感じていたはずだった。苛立つか、気の毒に思うか、どちらかは出ていた。感情の振れが必ずあった。
今は振れなかった。
針が動かない計器みたいだと思った。壊れているわけではない。機能している。ただ、振れるべきものが振れない。
研究主任がメモを取っていた。自分はそれを横目で見てから、また歩き出した。
施設に戻ると、研究員たちが結果を検討していた。
情緒安定、パニックなし、判断速度が人間の平均を大幅に上回る。軍上層部からの評価が研究主任に伝えられていた。次世代兵士としての運用が検討されている、という話だ。
PROJECT SILVER HEARTが軍事計画であることを、自分はそのとき初めて正式に知った。
死んだ兵士を、新しい身体で戦場へ戻す。感情の振幅が少ない分、判断が速い。
研究員たちは、それを利点として話していた。自身がその最初の成功例だということを改めて確認した。
怒りを探した。屈辱を探した。どちらも見つからなかった。
情動確認試験という名目で、映像を見せられた。
研究主任が再生した。墜落前の記録だった。コックピットの外部カメラ映像だった。
ダニエルの声が入っていた。
「お前、死ぬなよ」
ノイズが走って、映像が終わった。
記憶はある。あの声がどんな声だったか、知っている。ダニエルがどんな顔でそれを言ったか、想像できる。
二人がどれだけの時間を一緒に過ごしたか、データとして持っている。
でも胸が動かなかった。
悲しいはずだった。悲しみという感情が何であるかも理解できる。
でも自分の内側でそれが起きなかった。知っているのに、来ない。扉の前に立っていて、鍵の形も構造も理解しているのに、開かない感じに似ていた。
研究主任が聞いた。
「気分に変化は?」
「わからない。理解はできます。だが……何も起きない」
研究員たちがまた頷き合っていた。データを記録していた。彼らにとってはその答えが正解らしい。その正解という概念が、自分にはうまく飲み込めなかった。
夜、廊下を歩いていた。
自販機の前で止まった。特に喉が渇いているわけではなかった。ただ止まった。
コーヒーを買う。ダニエルが好きだったやつと同じ銘柄を選んだ。理由は自分でもわからなかった。
一口飲んだ。苦みがある。温度がある。カフェインの成分を感知できる。正常に機能している。
でも、欲しかったという感覚がどこにもなかった。喉が潤ったという満足もなかった。飲む前と飲んだ後で、内側が変わらなかった。
廊下に一人で立ったまま、缶を持っていた。
自分は、人間ではなくなったのかもしれない。思ったというより、確認した、という感じに近い。
感情的な結論ではなく、観察の結果として出てきた言葉だった。怖いと感じたのか、怖いと分析したのか、その区別もつかなかった。
施設の窓から街を見た。
遠くで子供が笑っていた。声が聞こえた。距離からすると、かなり大きな声で笑っているはずだった。
記憶の中で、子供の笑い声は良いものだった。そう感じていた記録がある。路地で遊んでいる子供を見て、何か柔らかいものが胸に来た記憶がある。
今は音だった。
音として処理されて、それ以上にならなかった。周波数があって、距離があって、発生源の位置がある。それだけだった。
窓ガラスに手を触れた。
冷たかった。
その冷たさだけは、はっきりわかった。指先に伝わる温度差が明確にあった。他の何よりも、その感覚だけが鮮明だった。
街の明かりが窓ガラスに反射していた。子供の笑い声がまだ遠くから来ていた。自分は手を窓に当てたまま、その声を聞いていた。
音として、聞いていた。




