第31章:北洋水師の降伏旗
第31章:北洋水師の降伏旗
**1895年2月12日から17日 | 劉公島、威海衛、煙台航路**
丁汝昌が死んだ後、劉公島の風はさらに冷たくなった。
天気が急に変わったからではない。多くの者が、その時に理解したからだ。最後まで「守る」という字を机に押さえていた人間は、もういない。部屋の灯はまだつき、提督印信は截角されず、生阿片の苦味が空気に残っている。外にはなお軍艦、砲台、倉庫、傷兵、清冊、片づけられていない弾薬箱があった。だがそれらを合わせても、抵抗継続を命じられる北洋水師には戻らない。
諸将と洋員が降伏を議したのは、丁汝昌がすでに死んだ後、少なくとも彼が弥留で主事できなくなった後だった。
この点は、書かなければならない。
丁汝昌は、降伏してから死んだのではない。
先に死に、後にその名を仮託されて降伏させられた。
**最後の一発**
丁汝昌の死後、人々は楊用霖を推して降伏を主導させようとした。
楊用霖は厳しく拒んだ。
彼は、これが何を意味するかを最もよく知る者の一人だった。提督は死んだ。劉歩蟾も死んだ。定遠は爆破され、来遠は沈み、魚雷艇隊は逃げ、砲台は反撃している。残る問題は、もはや戦うかどうかではなく、誰がこの敗局に最後の句点を打つかだった。
楊用霖は拳銃を取る前に、文天祥の詩を吟じた。
「人生自古誰無死,留取丹心照汗青」
この二句は多くの場所で読まれてきた。
だが劉公島のこの瞬間、それは書生の飾りでも忠義の看板でもなかった。四十一歳の海軍軍官が、艦隊の崩壊後、自分に残した最後の言葉だった。
彼は艙へ戻り、銃口を口にくわえ、発砲して自らを撃った。
銃声が響いた。
後に、それは北洋水師最後の一発と呼ばれた。
この一発は日本艦へも、砲台へも向かわなかった。北洋自身の胸へ撃ち込まれた。三十年来の海防の夢に残った最後の響きを、劉公島の冬へ打ちつけるようだった。
二月十二日同じ日、張文宣も薬を仰いで殉国した。
彼が李鴻章へ残した遺書には、重い一句があった。
「此次戦事有守一月而不支者……不能以成敗論」
これは敗北への弁解ではない。
死を目前にした者が、「敗」と「無恥」を分け、「支えきれなかった」と「守らなかった」を分けようとした言葉だった。張文宣の棺は後に康済号には乗らず、営弁によって民船へ移された。この細部は小さい。だが後世の「五棺」「六棺」「七棺」という言い方を、急に具体的にする。棺にも、それぞれの船と行き先があった。
**死人の名**
降書を書かねばならなかった。
それは砲声より静かだった。
そして重かった。
牛昶昞が交渉の前面へ出された。美籍洋員の郝威は、丁汝昌の名を仮託して降書を作ることを提案した。彼はまず英文稿を起草し、それを中文へ訳した。戴楽爾も後に、この議降の経過を書き残している。瑞乃爾、馬格禄ら洋員も、翻訳、見証、連絡、善後の役割でこの場に関わった。
巨大な艦隊の最後は、死者の名を借りた一通の文書で収められようとしていた。
郝威が筆を取った時、室内では誰も大声で話さなかった。筆先が紙に落ちる音はほとんど聞こえない。だがその一筆ごとに、艦隊の身へさらに傷が入るようだった。
降書は泣き声のように書けない。
公文のように書かなければならない。
核心の数句は、とりわけ刺さった。
「本軍門始意決戦至船没人尽而後已,今因欲保全生霊……只求勿傷害水陸中西官員兵勇民人等命,並許其出島帰郷」
「本軍門」という三字は、死者の名だった。
「保全生霊」という四字は、生きている者の理由だった。
牛昶昞は、丁汝昌の前で提督印を截角作廃すると約束していた。だがこの時、印は截られていなかった。彼は完全な北洋海軍提督印を、この丁汝昌名義の降書に押した。印が紙に落ちる鈍い音は、多くの砲声より聞き苦しかった。
丁汝昌は死の前に、印を無効にしようとした。
生きている者は、それを再び有効にした。
そして彼が最も自分の手で押したくなかった場所に用いた。
**松島**
丁汝昌の死後まもなく、二月十二日から十三日にかけて、程璧光は降書を携えて日艦松島へ向かった。
彼は広丙艦管帯であり、艦隊を知り、またこの最も見苦しい役を押しつけられる立場にいた。降書は砲弾より軽いが、砲弾より一つの艦隊の結末を決める。海上には日本艦があり、岸上には日本軍があり、劉公島の背後には死者と傷兵がいる。程璧光は、自分が届けるのは個人の講和ではなく、北洋水師最後の名義だと知っていた。
二月十三日午前三時、程璧光は再び松島へ行き、三日の展限を求め、丁汝昌がすでに死んだことを告げた。
夜の松島の灯は冷たかった。
日方にとっては、まもなく収束する戦役だった。程璧光にとっては、劉公島最後の混乱を少しずつ相手へ見せることだった。丁汝昌は死に、劉歩蟾は死に、楊用霖は死に、張文宣は死に、島にはなお数千人が生きねばならない。ここまで来ると、いかなる体面も海風に薄く削られた。
二月十四日午後三時半前後、牛昶昞は伊東祐亨と『威海降約』を最終的に議定した。
十一款の降約は、戦場の血、泣き声、砲煙、死者の名を条文へ圧し込んだ。艦船、砲台、軍械、官兵、洋員、出島、接収にそれぞれ処置がある。馬格禄も牛昶昞の対日説明の中で言及された。丁提督は臨終に後事を馬格禄へ託した、という形である。名義上は洋員に責任が移ったように見えたが、実際の処理は牛昶昞らの手にあった。
程璧光が降書を届けた後、伊東祐亨は諸将を集めて軍議を開いた。清将をまとめて拘獲すべきだと主張する者もいたが、伊東は、丁提督は清国海軍の名将であり、北洋水師を十年如一日に経営してきた、その伎倆は決して侮れない、と言った。勝利者の軍議で語られたこの数語は、清廷が後に丁汝昌へ下した処分と並べると、かえって痛烈に見えた。
牛昶昞らは後に口裏を合わせ、主降の責任を丁汝昌へ押しつけた。
死者は弁明できない。
そのため丁汝昌は死後も冤を受け、清廷に褫職され、家産を籍没された。多年の後、三百余名の威海紳商と薩鎮冰、姜桂題らが連名で上書し、袁世凱の奏上を経て、宣統二年になってようやく平反され、原官原衔を回復された。それは1910年であり、劉公島の風雨のこの日からは遠かった。
**広丙**
二月十六日、牛昶昞はまた伊東へ書簡を送り、広丙は広東艦隊所属で北洋編制ではないとして返還を求めた。
この書簡はすぐ拒まれた。
そして嘲笑された。
広丙は北洋戦局の中で戦い、港を守り、交接に列していた。敗局が決まった後で「北洋に属さない」と言うのは、廃墟の中から体面の一片を拾おうとするように見えた。日方はその主張を斥け、後に新聞にも載せた。敗北の最後には、一艘を取り戻す理由さえ、勝者の展示物になる。
**換旗**
二月十七日、威海衛には潇潇たる冷雨が降った。
雨は強くないが冷たく、甲板に落ちると湿った光を作った。風は港口を抜け、残った信号縄と半濡れの旗布を動かした。
午前八時三十分、聯合艦隊は北口から入港した。
松島を旗艦とし、千代田、橋立、厳島が続き、第一遊撃隊の吉野、秋津洲が隊列に入り、第三、第四遊撃隊が殿後した。第一遊撃隊の別の二艦、高千穂、浪速は口門で警戒した。日本艦は単縦陣で入港し、黒い長針のように、すでに抵抗の姿勢を失った威海衛へゆっくり刺さっていった。
十時三十分、十艦は龍旗を降ろし、日本旗に替えた。
北洋水師の旗が少しずつ降りた。
日本旗が上がった。
旗布は風雨の中で縮み、また開いた。なお従わないようにも、ただ天気に弄ばれているだけにも見えた。多くの者が甲板と岸辺から見ていた。誰も騒がない。敗北が本当に来た時、必ずしも大きな音はしない。旗索が旗杆を滑る摩擦音、濡れた旗が風に引かれる軽い音、老水兵が帽檐を下げて目を隠す動作だけがある。
午後一時、十艦は日本艦隊へ編入された。
引き渡された艦名は清冊に書かれた。
鎮遠、済遠、平遠、広丙、鎮東、鎮西、鎮南、鎮北、鎮中、鎮辺。
合計十艘。
康済は含まれない。
投降者の数も書かれた。陸軍官弁四十人、兵士二千人。海軍官弁一百八十三人、海軍学生三十人、水手二千八百七十一人。合計五千一百二十人。さらに洋員十三人、英籍十一人、美籍一人、德籍一人。
この数字は「残部」より具体的だった。
五千一百二十人が、食べ、配置され、登録され、兵、砲手、水兵、傷兵、雑役、軍官から戦敗者へ作り替えられる。船も帰属を変えた。鎮遠は鉄甲主力だった。済遠は黄海から戻った船だった。平遠、広丙は港内で苦しく支えた。鎮東、鎮西、鎮南、鎮北、鎮中、鎮辺という名は守土を思わせるが、最後には接収物になった。
海軍が最も恐れるのは、船が沈むことだけではない。
沈むなら、少なくとも自分の水の中に残る。
より見苦しいのは、船がまだ浮いているのに、旗が替わることだった。
**康済**
康済号は唯一の例外だった。
降約第十款は、康済号が武装解除後、投降艦に列せられず、なお黄龍旗を掲げて出港することを許した。条款には特に、これは「此缘深敬丁军门尽忠报国起见」であると記された。伊東祐亨は、丁軍門の尽忠報国を深く敬うとしてこれを認めた。康済は排水量約一千三百十トン、木造船体、無装甲で、管帯は薩鎮冰だった。
薩鎮冰が甲板に立つと、雨水が帽檐を伝って落ちた。
彼はまだ若かった。だが一生を圧するほどの任務を実行しようとしていた。北洋水師最後の棺と人員を、旗の替わった威海衛から連れ出すのである。
多年の後、薩鎮冰は清末の海軍統制となり、民国の海軍総長にもなる。そして丁汝昌のために冤をすすぐ連名上書にも、その名を置くことになる。だがこの日、彼はただ康済号の管帯だった。
午後四時、康済号は出港準備をした。
載せる棺は、比較的信頼できる説では六つだった。
丁汝昌。
劉歩蟾。
楊用霖。
戴宗騫。
沈寿昌。
黄祖蓮。
張文宣はその中にいなかった。
張文宣の棺は営弁によって民船へ移された。後世の「五棺」「七棺」などの説は、この場面が伝えられるうちに何度も簡略化されたことを示す。実際の歴史では、棺にも違う船と違う行き先があった。
康済号はさらに千余名の官兵と十三名の遣帰洋員を載せた。
棺が康済号へ運ばれる時、雨はまだ降っていた。甲板は滑り、棺を担ぐ者はゆっくり歩いた。鼓楽もなく、祭文もなく、十分な儀仗もない。風雨、濡れた木、低い号令、そばの者が押し殺す泣き声だけがあった。
康済号は北洋で最も有名な船ではない。
だがこの日、全書で最も重い船になった。
それが載せたのは軍火でも、石炭でも、命令でも、援軍でもない。北洋水師が最後に持ち出せる名だった。すでに旗の替わった威海衛を離れるために。港内に残る艦船は接収され、泊地を変えられ、日本艦隊へ編入された。康済号だけがなお黄龍旗を掲げ、敗北の清冊から一片だけ抜き出された残片のようだった。
岸上には、ずっと見ている者がいた。
船が桟橋を離れる時、汽笛が鳴った。
港内の日本軍艦は礼砲を鳴らし、水兵は甲板に立って挙銃礼を行った。勝利者が敗者の棺へ礼を送る。その画面は敗北を消しはしないが、雨の中の康済号をさらに重くした。
雨音、風音、汽笛が混じり、遅れて来た哭声のようだった。
索が解かれ、船体が軽く震えた。
その震えは小さかった。
しかし北洋水師全体が、最後に一度振り返ったようだった。
***
【史料挿入:北洋水師降旗摘要(作中資料)】
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2月12日午前七時:丁汝昌死亡。その後、諸将と洋員が議降し、郝威が丁汝昌名義を仮託した降書を起草することを提案した。牛昶昞は截角されていない北洋海軍提督印を押し、程璧光が2月12日から13日にかけて降書を携え日艦松島へ赴いた。
2月13日午前三時:程璧光は再び松島へ行き、三日の展限を求め、丁汝昌の死を告げた。2月14日午後、牛昶昞と伊東祐亨は『威海降約』十一款に署名した。
降書核心句:「本軍門始意決戦至船没人尽而後已,今因欲保全生霊……只求勿傷害水陸中西官員兵勇民人等命,並許其出島帰郷」。これは丁汝昌名義を仮託した降書であり、丁汝昌が降伏してから死んだと理解すべきではない。
2月17日:威海衛は冷雨となった。午前八時三十分、聯合艦隊が北口から入港。十時三十分、鎮遠、済遠、平遠、広丙、鎮東、鎮西、鎮南、鎮北、鎮中、鎮辺の十艦が龍旗を降ろし、日本旗に替えた。午後一時、日本艦隊へ編入。午後四時、康済号が六つの棺、千余名の官兵、十三名の洋員を載せ、煙台へ向かった。
康済号:管帯は薩鎮冰。木造船体、無装甲、排水量約一千三百十トン。降約により武装解除後も投降艦に列せられず、黄龍旗を掲げて出港した。張文宣の棺は康済号ではなく、営弁により民船へ移された。
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**降旗の後**
海面に風はあり、港口はあり、劉公島もあった。
だが北洋水師はもう自分自身のものではない。
この章の最後には、勝利者の喧騒はない。清点された艦、接収された砲、分けられた人々、冷雨の中をゆっくり離れる康済号の背影があるだけだった。
この日から、北洋水師は戦っている艦隊ではなくなった。
終わった時代になった。
そしてその時代の最後の影像は、砲火ではない。
唯一なお黄龍旗を掲げた康済号が、六つの棺を載せ、汽笛と冷雨の中で煙台へ向かう姿だった。




