85.炎からの生還
「リリー様……甘い、いい香りでしょう。バニラの香り、お好きでしたよね……」
眠るリリーに微笑みを向け、話し掛けるサラ。
身体が固まらないように、ボディミルクを滑らせる。慣れた手つきでゆっくりと、優しく揉んでほぐしていく。
「大丈夫ですよ……私は最後までお傍におります……」
眠る横顔を愛おしそうに、サラは見つめる。
「リリー様……? 」
ぴくりと動く指、揺れる睫毛、サラは慌てて立ち上がる。
「リリー様、リリー様、聞こえていらっしゃるのですか!? 」
「サラさん、何が」
大声に気付いたエランが駆け込んでくる。
「今……今、リリー様の瞼が!! きっと聞いてくださっているのです、リリー様、リリー様!! 」
「リリー様、わかりますか」
「……ラ……」
「リリー様!! 」
「………ッカス……様……」
二人の呼び掛けに応えるよう、リリーは目を開け生還を果たした。
それから一年の時が流れ。
「王妃様、ありがとうございます」
「王妃様のおかげで、子供の生命が助かりました」
街に出ると、皆が出迎え頭を下げて感謝を伝えてくれる。
「王妃様、お時間にございます」
「えぇ……」
手を振り、控えめな笑みで彼等に応え籠に乗り込んだ。
「着くまで少しお休みください」
「……そうね」
進み出す籠の中、外からのエランの言葉に頷いて目を瞑る。
あの日、煙の向こうに見た民達の顔が今も忘れられない。誰も皆、痩せこけて恨むような眼差しを向けていた。
私と……無能で強欲な王族に。
どちらが暴力を振るい、誰が正しいか、そんなこと民達にとってはどうでもいい。自分達の暮らしを良くしてほしい……それほどまでに彼等は苦しんでいた。
そして、身近な人達も。
もしカメリア様達に先王暗殺という罪がなければ、あのまま証拠を見つけられなければ、私は何ひとつ果たすことができないまま炎に焼かれていただろう。
そうなれば私を救ってくれたサラやエラン、月華殿に暮らす侍女達もが行き場を失くし、処刑される。
そして……王様にも。
強く、ならなければ。
「王妃様だ!! 」
「王妃様の籠だぞ!! 」
宮殿から一歩外に出れば、それだけで声が上がる。
怒り、嘆き、不満、感謝、そして。
「王妃様にお願いがございます!! 」
助けを乞う声も。
「開けてちょうだい」
「ですが……」
「心配ないわ」
戸が開けられて降り立つと歓声が。
「王妃様、麦の徴収をやめてくださるよう王様にご進言を」
衛兵に剣を向けられながらも一人の男が膝をつき、紙を差し出す。
「今年は凶作で麦が収穫できんで、やっと穫れたもんも虫に食われ……それなのに去年と同じだけ徴収されて出せなければ子や家を出せと……もう、どう生きていけばいいやら……」
薄い履物は破れ、足は血で汚れている。
「あなたは……どこから」
「キニのタナ村です。あの辺は全部そうなってんだ。王都の奴等食わす為に」
「王妃様の前だぞ、口を慎め」
あんな遠くからとざわめく群衆、ぼやく声は衛兵に遮られ、潰される。
「申し訳ないけれど……」
きっと命懸けで嘆願書を持って王都まで出てきたのだろう。泥に汚れた顔、期待の眼差しに胸が詰まる。
「私に、あなたがたの村を救えるほどの力はないわ」
表情が一瞬で落胆に変わる。
「期待はしないでほしいの……けれど、これはお渡ししておきます」
嘆願書だけを受け取って籠に戻った。
「王妃様、よろしいのですか」
「えぇ……」
冷え切った仲をまた凍らせることに、きっとエランはそう言いたいのだろう。もとより、もう私の言葉なんて聞いてもらえるかもわからないけれど。
「王様がなさる事とは思えないわ」
土の匂いに、ニナリスで見た横顔を思い出していた。
「どういう事だ」
広間に、冷酷な王の声が響く。
怒鳴っているわけではない、でも怒りの激しさがわかるほど、皆が震え上がるほど深く憤っている。
「だ、だいたい…王妃様がみだりに外を歩かれるからこうなるのです」
「その通りです。国の未来を左右する会議に一つの村の小さな問題を持ち込むとは」
「王妃様の御立場の為に、我々まで民の機嫌をうかがう必要はありますまい。次の議題に移りましょう」
「ですが、現実の問題を抱えたまま未来ばかり見ていても」
「もういい」
余裕と貫禄を真似て話す、私の言葉を王が遮った。
「王妃は下がれ」
「……かしこまりました」
目も合わない、冷たい声に踵を返す。
「生意気な女め」
「余所者のくせに」
「王の寵愛などとうにないのにまだ図に乗っておるのか」
「いや、すがっておるのだ。王様に棄てられたら行き場などないのだからな」
中央に敷かれた深紅の道を堂々と、大臣達の陰口を聞きながら歩いて広間から退いた。
「今日はまた一段と、大きな石を投じられましたね」
外に出た途端、我慢していたように笑いだすエラン。
「エラン、まだ笑わないで。冗談は部屋に戻ってからよ」
「すみません、大臣達の顔があまりに面白かったもので」
濃い色の紅を塗り、ヒールの高い靴を履いて。
最初は演じていたあの女に近づく度、心の距離が開くのがわかる。
「失礼致します」
そこへ緊張した面持ちの衛兵が。
「王妃様、急ぎ月華殿へお戻りください」
只事ではない様子に緊張が伝染るのがわかった。




