78.さすらいの心
深夜、エランは扉の前で立ち尽くしていた。
夫婦の時間を意味する赤いフラッグ、それは白い景色の中でひときわ華やかに目立っており、立ち入るなと言うバッカスの強い意思が感じられる。
きっと今頃……。
「何か緊急の御用でしょうか」
「いえ、大した用では」
見張りの侍女に声を掛けられ、我に返る。
たまには三人で、酒でも酌み交わそうかとやってきた。
宿命から逃れられず重責を負う事になってしまった友の、張り詰めた気持ちを和らげるために。
しかし、そんな計らいは必要なかったらしい。
溜め息をひとつ。
踵を返し、書斎へ戻ると一人その酒を煽った。
翌朝、いつもより少しだけ遅く診察に行くと、既にバッカスはおらずリリーだけが、朝の紅茶を飲みながらゆったりと庭園を眺めていた。
「戻るよう頼んだの。火急の要件があると迎えが来たものだから」
聞けば、あの後わりとすぐにバッカスは王宮殿に戻ったらしい。
「それは大変惜しい事を。実は昨夜、お尋ねしたのですが二人でお過ごしかと思い帰ったのです。もう少し待っていれば、リリー様と二人で酒盛りができましたのに」
「酒盛り? バッカス様とでなく私と? 」
「えぇ、あの方の愚痴でも言いながら呑み明かしたらきっと楽しい夜になったはずです。まだまだ、リリー様の知らないあの方を、私はたくさん知っていますからね」
「ふふ、それは聞いてみたかったわ」
物憂げな表情に花が咲いてその微笑みが、ささくれだった心を潤し和らげていく。
こんな軽口程度で笑ってくれる純真さが尊く、いたずらに触れれば壊してしまうに違いない。
尊い御方……それは身分の差だけではなく、到底埋められない何かだ。
首筋に触れ、血色を確認し脈診のため手首に、そっと指を添える。近頃は診察でさえ畏れ多く感じてしまうほど。
「そうだわ、今度、改めて時間を作って4人でお酒を飲まない? 」
「4人……と言いますと……」
「私とエランとバッカス様と、サラも一緒に。二人がどうして出会ったかもまだ聞いていないし、きっと楽しい会になるわよ」
「えぇ、そうですね。また時を設けましょう」
笑顔の通り、脈まで跳ねるように喜んで……指に拍動が伝わってくる。その心に一点の曇りもないのだろう。
ただ一途に王を愛し、親友の恋を叶えようとしている。
「それにしても安心しました……あのまま塔にいたらここまで回復なさる事はなかったでしょう」
「そうね、本当にあなたのおかげよ。エラン」
「いえいえ、私の力などでは」
「感謝しているわ。あなたのおかげで今もバッカス様の隣で生きる事が出来ているし……やっと希望も、見つけられたの」
「希望、ですか」
「えぇ、塔にいる頃、あなたが言ってくれた言葉よ。生き甲斐や楽しみを、いつか見つけられる日が来るって諭してくれたでしょう? 」
「そんな生意気な事も言いましたね」
「ふふ…でも本当だったわ。サラとも再会できたし、何より健康になったと思うでしょう? 」
「えぇ、あの頃からは想像できぬほど回復されました」
「今なら……もしかしたらって思うの。もしかしたらバッカス様の御子を……宿す事ができるかもしれないって」
柔らかな、慈愛に満ちた笑み。
「ねぇ、エランも……そう思うでしょ? 」
声が胸の奥深くで反響する。期待させてはいけない、しかしまたその希望を打ち砕く事もできずに曖昧な笑みを、浮かべるしかなかった。
「どういうおつもりでしょうか」
自分でも驚くほど苛立っていた。王も気が立っているのか、うんざりだと溜め息をつく。
「今度は何だ」
「リリー様との事にございます。お身体を労るようお伝えしたはずです、不要な身体接触は」
「不要などと、お前に決められる筋合いはない」
書類に目を落としたまま、忠告に耳を貸すつもりなどないのだろう。
「失いたくないと、あの御言葉は嘘にございますか。あれほど慎重になさっていた方がどうして危険を冒されるのです」
「エラン」
遮ったかと思うと、やっと書類から目を離して、睨んでいる。
「それは医師としての忠告か、男としての嫉妬か」
「医師として、また友としての忠告にございます」
強く眼差しを返せば、また溜め息。
そうしてまた仕事に戻ると、傍にいた兵に書面を渡す。
「速やかに遂行せよ」
「はっ」
人払いをして、二人きりに。それはきっとあの話をする合図だろう。
「リリーは……随分良くなったように見える。もし今、身籠ったとしてお前の言うようになるとは思えぬ」
「リリー様は、激辛事件にて消化器官を損傷、転倒の衝撃で恐らく子宮も……それは変えようのない事実であり、身籠る事自体が命の危機に繋がるのです」
もう、遠く昔の事のように思える出逢った日の、瀕死の姿が蘇る。
「リリー様は……御子を望んでおられます。これ以上、隠し続けるのは残酷かと」
慌ただしい足音が地を揺らし、迫ってくる。
「国王様!! 」
「何事だ」
「王妃様が!! 」
「月華殿にカメリア様が」
足が、駆け出していた。




