76.寄り添う人
病の母がいる兵には前倒しで休暇を取らせ、老臣の娘は療養に……その日のうちにバッカス様は迅速な判断をいくつもこなし、政治改革を進めていった。
そして私達も、月華殿の書庫を仕事場に決め、さっそく仕事に取り掛かる。
「私に、側近の役割を……」
「えぇ……これを見るに先王の時代には、宮殿内の実に細々とした業務……例えば女官同士の揉め事の仲裁などの面倒事まで、全て側近のハイネル氏が請け負っていたようです」
エランから渡された側近ハイネル氏の日誌はずしりと重く、その苦労と責任の重さが感じられる。
「全て読まれる必要はございません。内容は私の頭の中に入っていますから」
簡単に言ってエランは微笑むけれど。
たった数日のうちに、まるで辞典のような厚さでびっしりと書かれている日誌を読み切り、改革案を作成するなんて……その頭脳と勤勉さにはいつも驚かされる。
「これは、リリー様がお持ちください」
「えぇ……」
日中は、女達が働く場を下見して組織の点検を行い、相談所のような場を設け、要望を掬い上げる。この日誌は夜間に読めばいいだろう。
やるべき事はおおよそ掴めた、けれど。
(本来ならエランが……それなのに……)
彼がまとめたという組織図、そのどこにもエランの名はない。
一番の貢献者で、共に戦ってきたエランだけが無官のまま何も得られないなんて。
「この役割は、貴方がするものと思っていたわ。聡明で勤勉で交渉も上手くて、何よりバッカス様の事をよく知っているもの」
「だめですよ。私とあの方では議論ばかりになってしまい、きっと何ひとつ決まらぬでしょう」
「またそんなふうに……貴方は私達の命を救いここまで引き上げてくれた人よ。貢献を讃えられるべきだし、官位に就けば家も持てる。結婚して安定した暮らしをする事だって出来るのよ」
冗談で済ませたくなくて、つい言葉に勢いが。
「ありがとうございます……そこまで私の事を考えてくださり光栄にございます。けれど……」
「けれど? 」
「私は、官位を持てぬ身にございますゆえ、バッカス様にもそう伝えてお断りしました」
「官位を……持てぬ身……」
「はい。私は友でいたいのです、あの方の家臣でなく、心置きなく物を言える友のままで。あの方にはそういう人間が必要です」
「そうね……」
そんな理由で、エランの献身を一方的なものにしていいのかと胸の中に靄が残るけれど、ゆっくり話している時間はない。
「昼食のお時間です。食事を終えたら見回りに参りましょう」
「えぇ、よろしくね」
やってきたサラに案内を任せて、エランは何処かへと行ってしまった。
「エラン様ですか? やだぁ、そんな事ったら、あるはずがありませんわ」
人払いをした食堂で、わかりやすく頬を染めるサラ。
昔から真面目で他のメイド達のように、どこそこの誰がかっこいいと噂話をするような子ではなかったけれど初めて二人が出会った時から、なんとなくそうなるような予感がしていた。
そしてエランも、サラを特別に気にかけてくれているような気がするけれど。
「私は、リリー様一筋ですから」
そう言って、苦しい下働きにも耐えているサラ。身なりこそ、ちゃんと整えているけれど手はあかぎれて、また少し痩せた気がする。
あのままニナリスにいれば穏やかに暮らせたはずなのに、そう思うとサラの望みを叶えてあげたくなってくる。
「あとで部屋に来てほしいの」
「どうかされたのですか? あ、美味しいフィナンシェでも焼いてお持ちしましょうか。確かフィナンシェに合うのはアッサムでしたよね」
「サラ」
彼女は私にとって下働きでも何でもない。
「私も、サラの事を大切に思っているわ。だから部屋に来て、たまには一緒に過ごしましょう」
「リリー様……う、ぅ……」
うわぁんと大きな声をあげ、立ったまま泣き出してしまったサラを抱きしめる。
「苦しめてばかりね……」
扉の外で、迎えに来たらしいエランの話し声が微かに聞こえるけれど。
「泣くことはないわ、ね」
泣き止むまで傍に……そう決めて、優しく背中をさすった。




