72.強がり
夜が明けて、強烈な朝の光が世界を照らす。
「リリー様、わかりますか」
夜中そばにいたエランが、ぴくりと動いた瞼に気付いて声を掛ける。
「バッカス……様……」
愛しいその名を呼ぶリリー。頬を一筋の涙が伝っていく。
「リリー様……」
けれど瞬きのあと完全に意識が覚めて、悲しそうに瞳が彷徨った。
「……エランね……ごめんなさい」
「いえ、いいのです。やはり、引きずってでも連れてくるべきでした」
冗談めかして小さく笑うと、リリーの頬にも柔らかな笑みが生まれる。直視できないその輝きに、エランは視線を器具に移した。
「そんな事より、酷い状態だったのですよ。一時はお生命の危険さえあったのですから。今後一切、無茶は禁止です」
「そうね、気をつけるわ」
頷いて視線を下げると腕に太い針。
「ねぇ……エラン」
「王宮殿より、国王様の午後来訪を伝える。至急、準備を整えよ」
呼び掛けた小さな声は扉の外からの威圧的な声に、リリーとエランの穏やかな時はあの日のように突然、掻き消された。
「これだから嫌だったのだ」
午後、特別に用意された椅子に腰掛けたバッカスは、うんざりだと溜息をつく。
「仕方ありませんわ」
リリーの微笑みに目を奪われ、穏やかな表情に変化するバッカスを、エランは控えた位置から眺めていた。
「規則だらけで嫌気が差す。昨日など椅子の角度が一度違うだけで、二つの会談が中止となり、大使を怒らせた……今回もそうだ、病床の妻を見舞うと言っておるのに無遠慮に部屋を漁り、寝所まで片付けさせるとは……この者達には人の心というものがない」
「恐れながら、王様のお身を護る為の必要な処置にございます。特にこの月華殿は警護も手薄で王様をお護りする要塞としては不適切。一刻も早いご退出を」
「願うならそれ以上、一言も発するな」
口を挟んだ衛兵隊の隊長を睨みつけ、バッカスは怒りをあらわに。
辺りに重い沈黙が生まれる。
国王となり、歴代の王達が築いてきた細かな規則に縛られて、バッカスは思うように動けずにいた。
だからと言って会いに来ない理由にはならない──そんなエランの冷たい視線を感じながらも。
確かに、来訪の報せを受けてからの月華殿は慌ただしく、準備という名の元、バッカスがリリーに用意した部屋は土足の兵士達によってその景色を変えられてしまった。
リリーの治療は中断され、厳重な身体検査や重い礼装が強いられて何とか椅子に座っている。
「何から何まで……苦労をかけてすまない」
「いえ、私の事はお気になさらず。王様の健康と、素晴らしい治世をここでお祈りしております」
リリーの答えは妃として満点だった……けれどもそれは、バッカスが聞きたかった本心ではない。
「差し出がましい事を申し上げるようですが」
エランが口を開く。
「たわいない会話です。筆記をやめていただくことは出来ませんか。そして、出来ればお二人だけに……ご夫婦の、わずかな憩いの時なのです」
「国王様、退出のお時間です」
時間を告げる声が無情にも響き、エランの願いは無視された。
「リリー……その、身体は大丈夫なのか」
「はい、もう回復致しましたので。王様も、お食事を抜かれる事がありませぬよう……お身体、お大事にしてください」
別れの挨拶のような言葉を笑みで和らげ、恭しく頭を下げる。
「今、準備を整えている……必ず、王妃として王宮殿に迎える。それまで」
「私には……身に余るお話でございます。王様の御活躍、楽しみにしております」
驚くバッカスを見ないように、リリーはもう一度、深く頭を下げてその姿を見送った。
「リリー様、なぜあのような事を」
皆が去り、がらんとした部屋でエランは尋ねる。
「エランにお願いがあるの」
リリーはあの庭園を見つめていた。
「あの方の……傍にいてあげて」
その瞳に危うさを感じて、エランは思わず前に一歩出て立ちはだかる。
「リリー様、何をお考えかすべてお話ください。まさか宮殿を去ろうなどと」
「そんなこと……今の私に、ここ以外の居場所はないわ。ただ……あの方には味方が必要よ、心から分かりあえる人が」
「リリー様……」
「悪い夢を見たの。あの方に何かあったら、私は生きていけない……だから」
「今の私は、貴女様に仕える身。心配なのです……貴女の事が」
「私なら大丈夫、ね? 」
震える心を隠す笑顔に、悩んでいたエランの心は決まった。




