50.歪んだ笑み
軽い──
くすくすと、背後から笑う声が聞こえる気がする。
儀式当日、崖の先端に作られた祭壇に上がり、甕を持ってやっと気付く。
軽く作られた白い甕は空で、水など一滴も……初めから、練習など要らなかった。
「皇太子妃様、どうなされたのかしら」
「甕が重くてお持ちになれないのでは? 」
またくすくすと……声が、遠くで響いている。
灼熱の地、渇きひび割れた神殿。暑い風が砂を巻き上げ、肌を灼く。
陣を構え、祈り続ける巫女達の声。
“《《たかが儀式》》よ、適当な妾にでもやらせなさいな”
声が、反芻する。
(あれが……あの方の本音……)
王族に特別な力などあるはずもない、ただ振りでいい。民を憂い、天地を敬い祈りを捧げる……振りだけで。
カメリア様は、完璧な存在だった。
(演じて……いらしたのね……)
凛として美しく、私や見学のアザミ様に優しく微笑みかけ、尊重し……醜い感情などひと欠片も感じさせない高潔な正妃カメリアという役を。
(確かに……神秘的に見えたわ……)
甕を持ち、天に掲げるその姿は、女王の風格さえ漂わせ、威風堂々と。
だからこそ、従わねばならない何かを感じてしまっていた。
でも。
(私は……)
軽い甕を……ゆっくりと持ち上げて、天に掲げる。
(私は……上辺だけの存在になどなりたくない)
今はまだ軽いこの甕が水に満ちて重くなるように。
目を閉じて、祈りを捧げる。
(絶対に、そうはならないわ)
今はまだ青く晴れ渡った空、でも少しずつ……遠くからゆっくりと雲が流れてくる。
風が重くなり、地に影が射し……雲が厚くなる。
(私に力なんてない……それでも……)
──風が、止んだ。
時さえ──止まっているのかもしれない。
「一体、いつまでやっているのかしら」
「ああして皆の気を惹きたいのね」
さっきより、声がはっきりと聞こえる。少しだけ、上ずっているのがわかるほどに。
もう、どうでもいい。
それより大切な事は。
(乾ききったこの地に……雨を……)
「リリー!! 」
何処からか、バッカス様の声が聞こえて次の瞬間。
身体は宙に……投げ出されていた。
誰ひとり欺かず、心から人々の幸福を祈る存在でありたい……願いは弾かれ、この身は投げ出された。
何がどうなったかわからないまま……気づけば宙にぶら下がっている。
「くっ……」
頭上には、歯を食いしばるバッカス様。両手で私の手と腕を掴み、引っ張り上げようとしてくれていた。
「リリー、大丈夫か」
「はい……」
足は、かろうじて突き出た岩場に乗っているけれど……その足場は脆く、少しずつ……崩れていく。
「すぐ引き揚げる。左手で岩場を掴め」
「はい」
このままだと、バッカス様まで落ちてしまう。
宙に浮く身体を操って、必死に左手で岩場を掴もうとするけれど。
「っ………」
あと少しだけ、届かない。
頭上から……もろもろと土が落ちてくる。
「頑張れ!! あと少しだ」
でもこれ以上、反動をつけて体を揺らせばバッカス様まで……欺きたくない、そう願ったせいで私達の本当の関係が表に現れたのかもしれない。
(確かに私も……偽り欺いてきた……本当の夫婦などではないのに……)
アザミ様との茶会で気付いた違和感。
未だに妃と呼ばれ……プライベートな空間でも様をつけて呼ぶ私。互いに敬語が取れず、いつも控えめな笑みだけを交わし、別々のベッドで眠っている。
(家族にも……夫婦にもなれない……)
きっと永遠に、そんな毎日を繰り返すのだろう。
「くそっ……」
汗で滑る手、苦しげな表情……生贄だった私を救い、今もこうして苦しんでいる。
どんなに愛しても。
「手を……」
私は、相応しくないと証明されたのだ。
「手を……お離し…ください……」
「何を言っている。引き揚げる、すぐに……」
「私で…なく……もっと……ふさわしい方が……」
「諦めるな!! 」
頬に一筋、冷たい何かが。
「雨だ」
誰かが言った。
サァー……………
一粒だった恵みは、すぐに雨となり絶え間なく、渇いた大地に降り注ぐ。
「くそっ…こんな時に……」
一段と、苦しそうに歪む表情。
(これ以上は……)
きっと、これが生贄だった私に相応しい最期。
「幸せでした……あなたを愛して」
雨が滴り……するりと、手が滑り落ちた。




