45.砂のように脆い幸福
「……無事か」
それだけ……ただ一言だけ。
伏し目がちに、視線は合わない。
「はい」
私もそれだけ返して共に、月華殿へと歩き出す。
(バッカスを王に……)
国王との話を思い出しながら、改めて彼を見つめる。
(願ってなどいない……)
けれど、そうしなければ生きてはいけない。貴族の爵位とは違う、王位争いとなれば敗れた者に待つのは……改めて、この御方の宿命を想うと、胸が締め付けられる。
月のない夜……今夜は、新月だろうか。
「すまなかった……」
やっと月華殿が見えてきた、そんな頃。
風が、揺れる。
「いえ、私の方こそ」
「守ると……言ったのにな」
私の言葉を遮る悔しそうな声。
そっと……寄り添い、見えないように手を繋ぐ。
「大丈夫です」
「…………」
「私なら、大丈夫ですから」
「大丈夫、などではないだろう」
「それでも、大丈夫なのです……こうしてまた、会えたのですから」
微笑む私を、彼は少し驚いたように見る。
「私も……もう失いたくないのです」
それきり、互いにもう何も言わなかった。
ただそっと……指が重なり、握り返されるのを……ただ、感じていた。
「それでどうなんだ、本当に異常はないのか」
遅く起きた朝、目覚めるとエランが診察に来てくれていた。
「えぇ、血圧が低く貧血気味ではございますが、それは元の体質によるもの。しっかり栄養をお摂りになれば回復します」
「わかった。厨房にそのように伝える」
「バッカス様……特別な物でなくて大丈夫ですから……」
「バッカス様、貧血には仔牛が」
「わかった。仔牛だな」
「そんな贅沢な……」
「何を言っている。我が国は妃を飢えさせるほど貧しくはない」
「ですが、仔牛は地産品ではなく交易の品で希少だと」
「そんな事まで学んでいたのか」
「本で読んだのです」
「本か……しばらく読書も禁止だな」
「そうですね。禁止です、しっかり休養なさらないと」
「で、でもほら…日中、特にする事もありませんし」
「私がいる」
「え……? 」
「私がいれば、いいのであろう」
目の前には、ソファーに腰掛け足を組み、余裕の表情のバッカス様。
「バッカス様、よく恥ずかしげもなく……」
赤面して笑いをこらえるエランに私も思わず笑ってしまいそうになる。
日常の、ほんの些細なひととき。
でも……死ぬ気で守らないと、得られないのが日常。
指の隙間からさらさらと零れ落ちてなくなってしまう。ぬくもりも、愛も……砂漠の砂のように。
「バッカス様、お時間にございます」
「今日は休む」
「バッカス様、そういう訳には」
うんざりだ……そんな溜め息と立ち上がるバッカス様を見送って。
「エランに、話があるの」
「何でしょう」
「王様は……バッカス様に王位を継がせると……いえ、必ずそうしなければと仰られていたわ」
王位など荷が重い、あの御方はそう言うだろう。
それでも。
「私を、教育してほしいの。強く……あの方達に渡り合える程の妃に」
青い空に冠を戴く、雄大な後ろ姿を……。
「あの御方を、守りたいの」
そうして、強くなる為の日々が始まった。
「第二皇子ゲイク様は南派を率いておられ、第三皇子ラド様は北派に。正統性ではゲイクさまですがラド様にはレイトン様というご子息がおられるので……」
力関係も、過去の政争も、そしてその裏に潜む互いの本音……それだけでなく、こんな事も。
「カメリア様は香の趣味が独特でして……」
「アザミ様は甘い物を好まれ、よく召し上がっておられるのですが……」
エランは侍女達の情報網を元に様々な事を調べ、教えてくれた。
そして、バッカス様が冷酷と噂されていた理由も。
「ゲイク様とラド様はお忍びで出かけられると決まって騒動を起こし、その度に世に出ていなかったバッカス様を名乗っていたのです」
「それで……冷酷と……」
「えぇ、冷酷で邪智暴虐だと……そうしてバッカス様が世に出られないようにしていたのでしょうね」
「そんな……」
バッカスを想うリリーをエランは見つめ……そして、リリーを想うバッカスの事もまた。
「最近、やけに親しくしているようだが」
「えぇ、リリー様にこの国の事を教えて欲しいと頼まれまして。リリー様はとても好奇心旺盛ですね。二人でいると話が尽きません」
「……何を話した」
「それは秘密です」
「リリーはこの国の妃である前に私の妻だ」
「おや、嫉妬されているのですか? 」
「……うるさい。あの事は話していないだろうな」
バッカスは、ギロリとエランを睨む。
「えぇ、わかっています」
テーブルには開かれたまま置かれたカルテ。
そこには、リリーの身体に関するある秘密が……記されている。




