40.過去に別れを、未来に愛を
スープは──ゆっくりと少しずつ。
黒く、食べ物ではない“何か”へと変わっていった。
それを見つめる周囲には異様な静けさが場を包んでいる。
「皇太子妃様、ご無事ですか」
「えぇ、心配ないわ」
控えていたエランが側に。
「毒か」
「あぁ、そのようだ」
いつの間にか周囲には衛兵の姿も。
「毒見役は」
「無事です」
「その後に何者かが入れたか」
視線が、ランスとローズに集まる。
「知らない……私は何も……」
「逃げるな」
ふらふらと、後ずさりするもすかさず衛兵に腕を掴まれた。
「離せ!! 私を誰だと思っている、立場をわきまえよ、立場を」
「黙れ罪人」
震える叫びは一蹴されて。
「屋敷の者すべて捕らえよ! いいか、ネズミ一匹逃がすでないぞ」
「やめろ! 乳飲み子がいるのだ、親と引き離す気か! 」
衛兵の号令と同時にバチェット一族は捕縛。
あの日の私と同じように……混乱のまま連れて行かれる。
そしてローズも。
「何よ。ロレンスの娘に証拠もなく……ただで済むとお思い? 」
開き直り、疑惑の眼差しを一身に受けながら……兵に連れられ。
「やめてっ、離して、離しなさいっっ!! 」
よく似た声……一瞬、あの日の私が帰ってくる。
犯罪者のように扱われ、罰せられるように全て奪われた……そう思っていたけれど。
結局、私もローズも……
親の庇護のもとに生き、何一つ手にしてなどいなかったのかもしれない。
胸の奥がわずかに痛み、目を伏せて踵を返す。
「静まれ」
去ろうとしたその時、皇帝陛下の声が響いた。
「夜会は終わりだ。国賓と皇帝を侮辱した罪は重く、厳正なる処罰が下される事になる」
相変わらず、威厳ある声が恐ろしい。
「あの者達に限らず、勝手な事をすれば同じ目に……明日は我が身と心得よ」
貴族達を威圧して、皇帝は出て行った。
「行きましょう、皇太子妃様」
「えぇ、そうね」
そう呼ばれて我に返る。
終わったのだ……何もかも。
そうして一夜だけ蘇ったリリー・フランソワ・ロレンスは再び、今度こそ永遠の眠りについた。
翌朝、早々に支度を済ませ、国賓として最後の行事である調印式に挑む。
文書を確認して調印を済ませ、皇帝陛下と握手を交わした。
後は帰るだけ……軍楽隊の演奏と行進を眺めていると隣から咳払い。
「ローズ・バチェットが自供した。開き直り、贖罪の意識など微塵もない」
「そうですか」
「どうする──斬首か火炙りか。希望があれば聞いてやる」
「私は……」
今の私が言える事は一つしかなかった。
「騒ぎになるのは望みません。後の世代に禍根を遺すことも。国賓は……無事に来て、無事に帰ったと」
「……あくまで内々に……か。一つ、いい場所がある。エスペランサには遠いレイナードの最北なら、二度と関わる事もないだろう」
「……ご配慮のほど、よろしくお願い致します」
行進の足音が迫るよう胸に響く。
私も、もう二度と表舞台に立つ事はないだろう。バッカス様が整えてくれたあの場所で……あの御方を支え静かに生きて行くだけ。
「惜しい人材を失くしたものだ。もし男に産まれていたら、私の右腕にしていた」
「とても私には務まりません」
「いや、大した政治手腕だった」
したたかに玉座を狙っていたロレンス、バチェット一族が自滅したからか上機嫌の皇帝に、私財で得た力とは何と儚いものかと……感じてしまう。
所詮、いくらか財を成しても貴族は貴族、敵うものではないのだろう。
立ち上がり、合図と共に行進の足が一斉に止まる。
そう……これも牽制のうち。
軍事力と統率力を見せつけているのだ。
国王への親書と調印文書を手に……二度と戻る事のない祖国に別れを告げ、帰路に着いた。
「エスペランサ領内に入ります」
刺客や盗賊の襲撃もなく無事、領内に入ったと聞いて籠の中、ほっと胸をなでおろす。
「お見事にございました」
外からエランの声。
「ありがとう……守ってくれて」
「いえ、私は何も」
エランと塔にいた頃はまだ、異国の風と思っていた。
太陽の国エスペランサ……この国の野性的に香る風を、いつか《《我が国》》と思えるだろうか。
「止まれ! 」
前方で号令がして歩みが止まった。
「確認してまいります」
何事だろうと心臓が騒ぐ。
「リリー様、外においでください。お迎えが」
「迎え? 」
外に出て、陽の光に照らされながらエランと歩くとその先に……。
「バッカス様!? 」
数人の騎士を引き連れたバッカス様が、私達の領地入りを待っていてくれた。
「バッカス様、どうなされたのですか」
「散歩だ」
「お散歩……」
宮殿からはまだ遠い、領地の果て。
「随分、遠くまでお散歩に来られたのですね」
「うるさい! 連れ帰るのが遅いからだ」
「予定通りですが」
エランとの軽快なやり取りに心がほぐれ、笑みがこぼれる。
うれしかった。
「ありがとうございます、バッカス様」
「あぁ……疲れたであろう」
「えぇ……少しだけ」
「帰って茶でも飲もう」
何気ない優しさに胸が温まる。
(きっとこれが……)
無口な皇子様のくれた、愛なのだと思った。




