34.月明かりの下
そうしてバッカスの呼んだ人物が月華殿に着いたのは、丸一日経った夜更けの事だった。
「お呼びでしょうか」
「遅いぞ」
「本当に酷いものです。牢に囚われたかと思ったら会いに来ると待たせておいて突然、夜更けに呼び付けるとは」
皇太子となったバッカスに対し、からかうような口の利き方。それをバッカスは溜め息で返す。
薄闇の中、見えるのは長髪だけ。
「事情があるのだ。会って早々、嫌味ばかり言うな」
「すみません、少し意地悪を言いたくなってしまいました。それで今度は何を? 」
「何も聞かずに頼まれてくれるか。他に任せられる者がいない」
「えぇ、私はバッカス様に仕える身。どうぞ何なりとご下命ください」
「今後、お前が仕えるのは私ではなく妃だ。妃の専属医師をお前に任せたい」
バッカスは、ただ一人信じられる相手にリリーの専属医師を頼んだ。
そして翌朝。
朝食を終え、部屋で過ごすリリーの元へと連れて行く。
「ご無沙汰しております、リリー様」
「エラン!? 無事だったのね」
「えぇ、リリー様のおかげです。彼女達も、無事に元の居場所へ戻っていきました」
突然の事に驚き駆け寄るリリーに、エランも笑みを返す。
「おい」
「失礼しました。バッカス様のおかげでもありました」
「そういう事を言っているのではない。ここは塔ではない、立場をわきまえろ」
「これはこれは、失礼致しました。リリー皇太子妃殿下」
「おい! 何度も言わせるな」
「そ、そんな……気にしないで。あの、殿下も、私なら大丈夫ですから」
「そういう問題ではない。これからは周囲の目もあるのだ」
「これから? 」
「えぇ、改めまして……この度、リリー皇太子妃の専属医師を仰せつかりましたエランにございます」
ひざまずいて宮殿風の挨拶をするエラン。
バッカスが医師を頼んだのは、あの塔にいた医師、エランだった。
バッカスは、過去に国王がリリーの主治医として指名した人物であり、死の危機から救った恩に報いる為と言って、男性主治医を特例として認めさせた。
「ですが、夫以外の男性がお妃様の身体を触るなど……」
「その場には私もいる。何か問題があるか」
「い、いえ……」
威厳という面では、既に国王と同等の風格を手にしていた。バッカスが少し視線を向けるだけでも相手は黙る。
誰にも取り込まれる事のない我の強さと、政務における決断の速さから陰では“魔王”と呼ばれるように。
でも月華殿に帰ると、その表情は一気に柔らかくなり、声色もどこか優しい。
「まだ起きていたのか」
「本を読んでいました」
「無理をするな。またエランに小言を言われるぞ」
暖かくなってきたからと薄手のワンピース姿に油断するなと羽織を掛ける。
「お知り合いだったのですね」
「あぁ……眠れぬなら少し話すか」
「はい」
そう言ってバッカスはリリーの手を引きベッドに伴う。侍女にカーテンを開けさせると、丸く大きな月が見えた。
「月が綺麗ですね」
「あぁ……この世の夜に月がなければ、音楽も多くの美しい詩も生まれなかったと聞いた事がある」
バッカスは淡々と言葉を紡ぎ、リリーはその横顔を眺めている。
「昔は意味が分からなかった。月が美しいとも……でも今は、少しだけわかる」
柔らかな笑みを纏い、静かに頷くリリー。
視線が重なり、流れていく静かな時。
「だから……いなくならないでくれ」
今のバッカスにとってはもう、リリーを失う事など考えられなかった。
「昔、まだ幼い頃に母を亡くした。弱い身体で無理して身ごもった子を産んだからだ」
「バッカス様……」
「あの日、母は妃と同じ事を言って父を仕事に行かせ……そして死んだ。あの時、誰かが気付き、まともな診察を受けさせていれば」
その時、リリーの右手がそっと、バッカスの左手を包み込んだ。
言葉を止め、黙るバッカス。
「心配を……掛けてしまったのですね。でも私なら大丈夫。絶対に、同じようにはなりません」
冷酷と噂される皇子の弱くて孤独な一面を微笑みで癒すリリー。
「約束してくれ」
バッカスはその瞳を見つめた。
「無理をせず、健やかに……いつも隣で笑っていると。仕事で共にいられぬ時もエランの言うことをよく聞いて、しっかり食べて休息をとってくれ」
「ふふ……何だか私、子供みたいですね」
「目を離せばすぐに無理をするからな。それが当面の妃の務めだ」
「わかりました。もう二度と心配をお掛けしないと約束します」
月明かりの下、互いのぬくもりを感じながら夜が更けていく。




