第5章 虚無の令嬢
「鏡は、何も映さないとき、いちばん美しい。」——リオ
【前回のあらすじ】 道具か、友達か。
キョウカとアオイは、互いを利用しながら、離れられない。アオイには聞こえていた。キョウカが、たったひとりの名前にだけ、震えていることを。
浅倉邸の食卓は、いつも二人分だけ整えられている。
「リオ、サロンは盛況だったそうじゃないか」
父・俊介は、ワイングラスを片手に目を細めた。大手ITグループの会長。会議室では冷酷だと恐れられる男が、娘の前でだけは少年のような顔になる。
「ええ。お父様のご支援のおかげよ」
「何を言う。お前が顔になってくれるなら、いくらでも出すさ。お前は私の誇りだ」
リオはナイフを置き、完璧な角度で微笑んだ。
誇り。愛情。信頼。父が口にする言葉は、どれもリオの中で音もなく沈んでいく。何も響かない。何も、痛まない。幼い頃からそうだった。
食後、キョウカから着信があった。
「次の段階に進みます。シホが動き出しました。彼女を、このままにはしておけません」
「そう」
「リオさんは、どう思われますか」
「私が決めることではないわ。あなたの好きにすればいい」
電話の向こうで、キョウカが息を呑む気配がした。許された、と彼女は受け取っただろう。それでいい。リオは何も許してなどいない。ただ、見たいだけなのだ。
窓辺に立ち、夜の庭を見下ろす。
(人はどこまで歪むのかしら。どこまで、美しい言葉の中で壊れていけるのかしら)
退屈だった。世界のすべてが、答えの決まった問題集のように退屈だった。だからせめて、自分の手で盤面を動かしてみたい。それは悪意ですらなく、ただの好奇心に近い。
ガラスに映る自分の顔は、どこまでも美しく、どこまでも空っぽだった。
(鏡は、何も映さないときが、いちばん美しい)
それなら自分は、世界でいちばん美しい鏡なのだろう、とリオは思った。
机の上には、まだインクの乾かない便箋が一枚。宛名のない封筒が、几帳面に三通、並んでいた。
(書きなさい)
どこかで、そんな声がした気がして、リオは万年筆を握り直した。それが自分の考えであることを、彼女は少しも疑わなかった。




