第3章 聖女の耳鳴り
「神は沈黙しているのではない。人間の耳が、小さすぎるだけだ。」——アオイ
【前回のあらすじ】 憧れの裏には、仕掛けがあった。「消えたい」と書いた子を狙い撃ち、偽の体験談で背中を押し、気づけば抜け出せない。キョウカは笑う。「人は救われたいんじゃない。必要とされたいの」。
アオイの部屋には窓がなかった。白い壁、白い床、白い座布団。香の煙だけが、ゆるやかに天井へ昇っていく。
「次の方、どうぞ」
入ってきたのは二十代前半の女性だった。名はミサキ。膝の上で組んだ指が白くなっている。
アオイは目を閉じた。
聞こえる。言葉になる前の、濁った水のような思考が。母親への罪悪感。職場の上司の顔。夜中に何度も開いては閉じた、誰かとのトーク画面。
「あなたは、お母さんを許したいのに、許せない自分を許せないのね」
ミサキの肩が跳ねた。
「どうして……」
「聞こえるの。ずっと、聞こえているのよ」
「神様は、沈黙しているのではないの。私たちの耳が、小さすぎるだけ」
アオイは微笑み、ミサキの意識の奥へそっと触れた。恐れを溶かし、代わりに確信を一滴落とす。あなたは正しい。あなたは選ばれている。あなたを苦しめるものは、あなたの敵だ。
団体の者たちは、その力を、こう呼んでいた。
——精神侵食。
他人の本音や記憶に同調し、読み取る。そして、脳の奥へ、強力な確信や恐怖の波動を送り込む。信じたい者には確信を。離れようとする者には、夜ごと忍び寄る恐怖を。ミサキが涙のなかで頷くたび、その波は静かに根を張っていった。
ミサキの表情から力が抜けていく。涙が頬を伝い、その目に、見慣れた陶酔の光が灯った。
扉が閉まったあと、アオイは耳を押さえた。
耳鳴りが止まない。毎日、数十人の心が流れ込む。他人の欲望、嫉妬、祈り。それらが頭蓋の内側で渦を巻き、輪郭を失っていく。
怖くはなかった。むしろ、ざわめきの向こうに何か巨大なものの気配を、アオイははっきり感じていた。
(これは神の声。人の体は、それを聴くには狭すぎる檻)
肉体という器を越えたとき、自分は個人であることをやめ、あのざわめきそのものになれる。そのために、この団体も、キョウカの野心も、すべては舞台装置にすぎない。
アオイは静かに目を開き、次の信者を呼んだ。




